第八十一章 袁本初の出奔と、司徒府に現れし飛将軍
ある日のこと、中軍校尉・袁紹は、実の父以上に己を引き立ててくれた叔父の太傅・袁隗の私邸を密かに訪れ、董卓の専横について膝を突き合わせていた。
袁紹は眉根を寄せ、悔しげに呟いた。
「叔父上、丁原が横死してより、董卓は都の軍権を一手に握り、天下を呑まんとする勢いです。我が袁家とて、このままでは奴の軍門に降らねばならぬのでしょうか? いかにすべきか……」
袁隗は手にした茶碗を静かに卓へ置き、深い眼差しで甥を見つめた。
「本初よ。数日と経たぬうちに、董卓は再び『帝位の廃立』を百官へ突きつけてこよう。……お主はその機を捉え、直ちに洛陽を脱出するのだ!」
「な……!?」
「我が袁家は四世三公、その門生や故吏は天下の津々浦々に満ちておる。お主が外地に出て反董卓の義旗を一度掲げさえすれば、天下の英傑が競って馳せ参じようぞ!」
袁紹は愕然として立ち上がった。
「叔父上は……某一人に逃げろと仰るのですか!? ならば、都に残る叔父上はどうなられるのです!」
「愚か者めがッ!」
袁隗は袁紹を一喝し、苦い笑みを浮かべた。
「儂がこの洛陽に留まってこそ、董卓はお主を疑わず、重用しようとするのだ。やがてお主の翼が育ち、天下を動かす大軍閥となった暁には……儂の命など、塵芥の如く捨て置いて構わん!」
「そのようなこと、断じてできませぬッ!」
袁紹は声を荒らげた。自分は側室の子として生まれ、一族の中で冷遇され続けてきたのだ。だが、この叔父だけは幼少より目をかけ、己の才能を信じて引き立ててくれた。その恩情は実の父子すら遥かに凌駕している。今さら叔父を見捨てて己一人が逃げ延びるなど、人の道に悖る!
「痴れ者めがッ!」
袁隗は白髭を怒りで震わせ、袁紹を睨みつけた。
「儂一人の命を惜しんで、袁家四百年の栄華を地に落とす気か! 儂ひとりの命で袁家が天下に覇を唱えられるならば、これ以上の本懐があろうか!」
「……叔父上」
「儂の心は疾くに決まっておる、二度と口答えするでない! ……されど本初、これだけは生涯胸に刻んでおけ」
袁隗は深く天を仰ぎ、痛惜の溜息を吐き出した。
「儂は本来、帝を補佐して朝廷を我が手で立て直さんと志しておったのだ。まさか董卓のような豺狼が割り込んできようとは……功を一擲にして失ったわ。本初、袁家の命運は、全てお前の双肩にかかっておる……」
袁紹は唇を噛み、言葉を呑んだ。
袁隗はその胸中を見透かしたように首を振った。
「公路(袁術)の器量はお主に遠く及ばん。無駄にプライドばかり高く、大事を成す能はない。袁家の血脈を、我らの代で絶やしてはならんのだぞ!」
「……御意にございます、叔父上!」
その日、董卓は朝堂において百官を招集し、豪奢な宴席を設けた。
酒が数巡したところで、董卓は腰の佩剣の柄に手をかけ、傲然と言い放った。
「今上は暗愚にして懦弱、宗廟を奉じる器にあらず! 儂は先帝の密詔を奉じ、古の伊尹や霍光の先例に倣い、帝を廃して弘農王に落とし、聡明なる陳留王(劉協)を皇帝に擁立せんと思う! 従わぬ者はその場で首を刎ねるッ!」
(叔父上の読んだ通りだ……!)
袁紹は決然と進み出ると、佩剣を握り締めて咆哮した。
「今上が即位されてより日も浅く、微塵の過失もない! 嫡子を廃して庶子を立てるなど、天下の大逆無道にあらずして何だッ!!」
董卓は怒髪天を衝き、目を剥いて怒鳴りつけた。
「天下の政は儂の手にある! 儂が成そうとすることに、誰が背けるというのだ! 貴様、儂の剣の切れ味を試したいのかッ!?」
袁紹もまた鞘から宝剣を抜き放ち、ギラリと刃を交差させて叫んだ!
「貴様の剣が利くならば、我が剣とて利かぬはずがなかろうッ!!」
筵の上で、二人の英傑が抜き身の刃を突きつけ合って睨み合った。
李儒が咄嗟に太傅・袁隗の顔色を窺うと、老臣は驚愕の表情を装って震えていた。李儒はすかさず董卓の耳元で囁いた。
「岳父上、事は未だ定まりませぬ。妄りに名門の首を刎ねては人心を失いますぞ」
袁紹は宝剣を佩き直し、百官へ一礼するや、振り返りもせず宮殿を飛び出して冀州へと馬を走らせた。
董卓は李儒の目配せを悟り、袁隗に向き直って太々しく言った。
「太傅殿、貴殿の甥は無礼極まる小僧よ。されど貴殿の顔に免じて罪は問わぬでおこう。……して、廃立の儀はいかがかな?」
袁隗は胸の奥で快哉を叫びつつ、深々と平伏した。「……董公の仰せの通りにございます」
「ガハハハハッ!!」董卓は腹を抱えて高笑いした。「異論を唱える者は軍法会議にかけて首を刎ねるぞッ!」
群臣は震え上がり、口を揃えて命に従う旨を誓った。
宴ののち、董卓が「袁紹をいかに処遇すべきか」と問うと、李儒は答えた。
「叔父の袁隗が都に留まっておる以上、袁紹も軽挙妄動はできませぬ。袁家の人脈を懐柔するため、渤海太守の官職を授けて遠ざけ、その心を繋ぎ止めるのが上策にございます」
董卓はその言を容れ、直ちに袁紹を渤海太守に任じる使者を放った。
——時を同じくして、董卓が百官を威圧していたその刻限。
司徒府の内院では、蘇然が慌ただしく脱出の準備を進めていた。
百官が集められたと聞き、蘇然は直感した。
(董卓が廃立の大事を宣言している真っ最中だ! 宮中が騒然としている今を逃したら、二度と洛陽から出られなくなる!)
蘇然は秀に言いつけて陶応と方悦を呼びに行かせ、馬車に荷物を積み込もうと中庭に出ていた。
その時——表門のあたりから、門番の悲鳴とただならぬ喧騒が響き渡った。
ドカドカと地響きを立てて中庭へ踏み込んできたのは、身の丈八尺余、異様な覇気と威圧感を全身から立ち上らせた筋骨逞しい巨漢であった。
男は中庭に立つ蘇然をぎろりと睨みつけるや、雷霆の如く怒鳴り散らした。
「おい! 蘇然という男をここへ引きずり出せッ!!」
「……は?」
蘇然は目を丸くし、腕を組んだ。
「俺がその蘇然だけど……あんた、一体どこの誰だ?」
「貴様が蘇然だと……!?」
男の顔が一瞬にして煮えたぎるような怒怒に染まった。大股で詰め寄り、骨がきしむほど拳を握り締める。
「貴様を八つ裂きにして、我が胸の鬱憤を晴らしてくれるわッ!!」
「ちょ……何なんだよ!?」蘇然は冷や汗を流しながら後ずさった。
「初対面の相手にいきなり八つ裂きって、何の恨みがあるってんだ!?」
「問答無用ッ!」男が咆哮した。「某が殺すのは、蘇然という貴様ただ一人よッ!!」
「控えなさいッ!!」
凛とした鈴の如き怒声が、中庭を切り裂いた。
奥の回廊からしとやかに姿を現した秀が、氷のように冷徹な眼差しで侵入者を射すくめる。
「天下の司徒府において、狼藉を働くとは何事ですか!」
男はぎょっとして足を止め、ゆっくりと秀の方へ視線を巡らせた。その双眸に、激しい動揺と複雑な情念の波が押し寄せる。
秀は素早く蘇然の傍らへ駆け寄り、夫を庇うように立ち塞がった。
「夫君、ご安心を。妾身がおりますゆえ、指一本触れさせはいたしません!」
「……おいおい」蘇然の顔が引きつった。「秀、それじゃ立場が逆だろ……!」
秀はふっと愛らしく吹き出し、悪戯っぽく囁いた。
「あら、また間違えてしまいましたわ。夫君が妾身をお守りくださるのですよね……ふふっ」
「ったく……」蘇然は苦笑いを浮かべ、男に向き直った。「それで閣下、名乗りも上げずに人の屋敷で暴れる理由は何だ?」
男はその二人の親密な睦まじさを目の当たりにし、胸を短刀で抉られたかのように立ち尽くしていた。
やがて、地を這うような掠れた声を絞り出した。
「……阿秀。並州の……奉先を忘れたのか……」
「奉先……?」
秀は息を呑み、小手で口元を覆った。「あ……貴方は……!」
「奉先!?」
蘇然の脳裏に電光が走った。顎が外れそうになる。
「お前……丁原を殺して董卓に寝返った、あの呂布・呂奉先なのかッ!?」
「建陽叔父様を……!?」
秀は血相を変えて蘇然の袖を掴んだ。
「夫君! い、今何と……建陽叔父様がどうされたのです!?」
「叔父様?」蘇然は怪訝そうに秀を見つめた。
「こいつが丁原を殺して董卓の養子になった呂布だよ。……秀、この前『知らない』って言ってたじゃないか!」
「奉先……貴方、本当にそんなことを……!?」
秀の瞳に、信じがたいものを見るような絶望の色が広がった。
「某は丁建陽を殺してなどおらん! 戯言を抜かすなッ!!」
呂布は逆上して咆哮し、大地を蹴って蘇然へ肉薄すると、岩をも砕く剛拳を振り下ろした!
チャリンッ!
秀の腰から閃光が走り、抜き放たれた軟剣の切っ先が、呂布の喉元寸前でピタリと止まった。
「奉先ッ! このお方は妾身の夫君です! 自重なさいッ!!」
呂布の拳が空中で凍りついた。信じられない思いで秀を見つめ、呻く。
「……あんな青白き書生が……なぜ阿秀の夫なのだッ!? 何の徳があり、何の武があって貴様の伴侶になれるというのだッ!!」
秀は軟剣を引かず、毅然と言い放った。
「我が夫君は誠実にして忠厚、心優しく、常に妾身を至上の宝として慈しんでくださるお方です。かような殿方を夫に持てたことこそ、秀の生涯の無上の果報!
それに引き換え、貴方は何ですか! 董卓がどれほど残虐な暴君であるか、街の童児すら知っております! なぜ建陽叔父様を裏切り、あのような悪鬼の軍門に降ったのですかッ!」
(……なるほど、本当に幼馴染みだったのか)
蘇然は胸の奥にチクリと湧いた嫉妬を隠せず、冷ややかに鼻を鳴らした。
「決まってんだろ。名声と富貴に目が眩んだのさ」
「貴様ッ!!」呂布の目が血走った。「儂が貴様を叩き殺せぬとでも思うてかッ!」
「呂奉先ッ!」秀の切っ先がピシリと震えた。
「夫君をこれ以上侮辱するならば、幼き日の旧情とて容赦はいたしません!」
「阿秀……」呂布は胸を掻き毟られるような痛みに顔を歪めた。
「分からん……儂には分からんぞ! あやつの何処がそれほど良いというのだッ!」
秀は蘇然の横顔を盗み見ると、徐州での日々や、閨での甘い睦まじさを思い返したのか、白百合のような頬を一瞬にして朱に染めた。
「夫君には大いなる知謀がおありです。それでいて名利を求めず、権力を貪ることもなく、妾身の傍らに寄り添ってくださる……」
(名利……権力……)
その言葉は、呂布の急所を抉る雷霆の如く突き刺さった。呂布は激しく取り乱し、弁明を繰り返した。
「違う! 阿秀、儂はそんなもののために丁原を……いや! 儂は丁原を殺してなどおらんのだッ!!」
秀は深くため息をつき、失望の眼差しを向けた。
「奉先……貴方は変わってしまいました。幼い頃の貴方は、そんなお方ではなかったのに……」
「人は誰でも変わるもんだよ」蘇然が横から乾いた声で合いの手を入れた。
「貴様ッ! 表へ出ろッ!」
呂布の怒りの矛先が完全に蘇然へ向いた。
「男であるならば、女の背中に隠れておらんで正々堂々と勝負せんかッ!」
そこまで言われて、現代人の男のプライドが黙っているはずもなかった。
蘇然は秀の前に踏み出ると、その手から軟剣を奪い取った。
「呂布! 俺はここだぞ!」
「夫君ッ!?」秀が青ざめた。夫が武芸の欠片も知らぬことを誰よりも知っているのだ。
呂布は大笑いし、蘇然を嘲笑った。
「剣を握ったこともない貧弱な書生が、剣を構えたところで何ができるというのだ!」
「試してみるか?」蘇然は冷ややかに構えた。
「望むところだッ!」
呂布が地響きを立てて踏み込み、剛拳を突き出した!
秀が「夫君ッ!!」と悲鳴を上げた瞬間——蘇然は飛来する拳を一切避けようとせず、歯を食いしばり、手にした軟剣を呂布の心臓へと一直線に突き刺した!
相討ちの覚悟である。
「夫君に指一本でも触れてみなさい! 妾身は生涯、貴方を絶対に許しませんッ!!」
秀の絶叫が中庭に木霊した。
その悲痛な叫びを耳にした瞬間——呂布の胸に激痛が走った。
阿秀をこれ以上傷つけたくないという本能が働き、呂布は咄嗟に拳の威力を引き、身を捻って刃を躱した!
だが、捨て身で踏み込んできた蘇然の切っ先は、呂布の躱しきれなかった上腕の肉を浅く切り裂いた。
鮮血が飛び散り、呂布の豪奢な衣を赤く染める。
呂布は血の滲む腕を見下ろし、次いで蘇然の決死の双眸を凝視した。
「……見事な肝魂だ」
呂布は重い息を吐き出し、低く呻いた。
「蘇守義、貴様を見くびっておったわ。もし今日、阿秀の背後に隠れて震えておったなら、後日必ずや貴様を八つ裂きにしておったところだ」
蘇然は冷や汗を滝のように流していた。
(あっぶねえええええ!! 死ぬかと思った! 三国志最強の武神と相討ちを狙うなんて、俺は何を血迷ったんだ!?)
秀が涙目で駆け寄ってきた。「夫君……お怪我は!?」
「だ、大丈夫だ……かすり傷一つないよ」蘇然は強がって見せた。
その光景を眺める呂布の胸は、千々に引き裂かれるようであった。幼い頃の思い出が走馬灯のように駆け巡るが、かつて愛した少女は、すでに他人の妻となってその男のために命を懸けているのだ。
呂布は苦渋を噛み殺し、冷笑を浮かべた。
「……蘇守義! 貴様が頼りにしておるのは、その手練れの護衛どもか? 奴らがおらぬ時、いかにして阿秀を守る気だ!」
「随分と大口を叩くじゃねえか」
冷ややかな嘲笑とともに、中庭へ二人の男が進み出てきた。陶応と方悦である。
「貴様らは何者だ?」呂布が眉をひそめる。
「某らは先生の護衛よ!」方悦が進み出た。「天下無双と名高い豪傑の腕前、某が手合わせ願おう!」
二人は激突した。
拳と拳がぶつかり合う鈍い轟音が中庭に響き渡る。
十数合、互角の打ち合いが続いたが、馬上の戦いを本領とする呂布に対し、方悦のスタミナが僅かに切れかけた。
呂布が剛拳を方悦の顔面へ叩き込もうとしたその刹那——横から伸びてきた一本の逞しい腕が、呂布の拳をガチリと正面から受け止めた!
「おいおい、楽しそうにやり合ってるじゃねえか。子楞、交代だ!」
陶応が不敵に笑う。
呂布は眉を跳ね上げた。剛拳を引こうとするが、陶応の万斤の膂力によってピクリとも動かない。
(こやつ……先ほどの男よりさらに腕が立つのか!?)
「武器を取れッ!」呂布が吠える。
陶応が銀槍を構えると、呂布は周囲を見回して絶句した。単身で乗り込んできたため、愛用の方天画戟を持ってきていなかったのだ。
「ハハハ! 武器がないなら某の槍を使え!」
方悦が自らの槍を放り投げ、呂布はそれを受け止めた。少々軽すぎるが背に腹は代えられない。
ジャギィィィンッッ!!
陶応の銀槍が雨霰の如く繰り出され、呂布は槍を旋回させて悉く弾き返した。
激しい火花が散る。蘇然は目を丸くして立ち尽くした。
(陶応の奴……まさかあの呂布と生身でここまで互角にやり合えるのか!?)
しかし、呂布の真骨頂は馬上と方天画戟にある。不慣れな槍と地上戦ゆえに、呂布は徐々に劣勢へと追い込まれていった。秀の眼前で無様な姿を晒した恥辱に耐えかね、呂布は槍を捨てて地面へ突き立てた!
「……名乗れッ!」
「徐州の陶応!」
「河内の方悦!」
呂布は苦々しく頷き、蘇然に向き直って冷笑した。
「江守義! 貴様が己の腕を磨かねば、いずれ阿秀を護りきれなくなるぞ! 儂が貴様なら、死に物狂いで武芸を修めるわ!」
「勝手なこと言うな!」蘇然が言い返す。「武芸なんて教える師匠がいなきゃ身につくわけないだろ!」
呂布の瞳に、奇妙な光が宿った。秀を一瞥し、重々しく告げた。
「——儂が貴様に武芸を仕込んでやる」
「……はぁ!?」蘇然の顎が外れそうになった。「冗談だろ! 俺たちは今すぐ徐州へ帰るんだよ!」
「洛陽の城門を警備しておるのはこの呂布よ!」呂布は傲然と言い放った。
「儂が出城を許さぬ限り、貴様らは一歩たりとも洛陽から出られん! 貴様が儂の一撃を受け止められるようになるまで、鍛え上げてやる。……断る度胸でもあるのか?」
「ふん! よく言うぜ、手加減なしで俺を殴り殺す気配だろ!」
「……手加減などせんが、殺しはせん!」呂布は吐き捨てた。「明日、また参る! 首を洗って待っておれ!」
呂布は大股で司徒府を立ち去っていった。
「チッ……偉そうに!」
蘇然は悪態をつきながら、不機嫌そうに自室へ戻ってどっかりと腰を下ろした。机の上の『奇門遁甲』を乱暴にめくる。
秀が申し訳なさそうに部屋に入り、背後からそっと寄り添ってきた。
「夫君……妾身、夫君を騙すつもりなど毛頭ございませんでしたの。奉先の姓が『呂』だとは、本当に存じ上げなくて……」
蘇然はプイと横を向いて無視した。
秀は困り果て、ふと艶やかな羞恥を頬に浮かべると、夫の耳元へ口を寄せ、甘く蕩けるような声で囁いた。
「夫君……怒らないでくださいませ……。妾身、数日前におねだりされた『あのお願い』……今宵、言う通りにいたしますから……」
蘇然の喉がゴクリッと鳴った。心臓が跳ね上がる。
「……ほ、本当か?」
秀は恥じらいに潤んだ瞳で見つめ返し、小さく唇を噛んだ。
「ええ……ですから、あまりいじめないでくださいね……」
「いじめるだなんてとんでもない!」
蘇然は放り投げていた天書のことなど綺麗さっぱり忘れ、満面の笑みで秀を抱きしめた。
「約束だぞ! 今夜は絶対に寝かせないからな!」
秀は夫の胸に顔を埋め、赤くなった耳を寄せて恥ずかしそうに囁いた。
「……はい、夫君……」




