第八十四章 千里の錦嚢と、温酒斬華雄
天下の諸侯は続々と汜水関の前に集結し、二百余里にわたって連なる壮大な陣営を布いた。曹操は牛を屠り馬を殺して大宴会を催し、進軍の策を練り合っていた。
その夜、曹操が天幕で幕僚や諸将と軍議を凝らしていると、陣外の衛兵が進み出て言上した。
「校尉殿、旧知の友人が加勢に参ったと申しております!」
曹操は怪訝そうに目を瞬かせ、直ちに通すよう命じた。
入ってきた男は大股に歩み寄り、堂々と挨拶した。
「曹校尉、ご無事であられましたか! 某をお忘れではありますまいな?」
見れば、他でもない方悦であった。
曹操の顔にパッと歓喜が広がった。
「おお、子楞(方悦)殿! まさか守義殿が某を助けに来てくださったのか!? ……し、して、守義殿は何処におられる!?」
方悦は気まずそうに頭を掻いた。
「それが……先生は先日、不慮の怪我を負われまして、目下洛陽の屋敷で養生中でございます。曹校尉が決起されたと聞き及ぶや、某を名代として馳せ参じさせた次第にございます!」
「……そうであったか」
曹操は隠しようのない失望を漏らし、方悦の後ろをキョロキョロと見回した。天幕の入り口には誰もいない。
「して……お主、一人で参ったのか?」
「——ガハハハハッ!!」
天幕の片隅から、腹を抱えて転げるような大笑いが響き渡った。
見れば、曹操の従兄弟にして気性の荒い猛将・夏侯惇(字は元譲)であった。
夏侯惇は机をバンバンと叩いて嘲笑った。
「董卓の軍勢は二十万を号し、我ら諸侯の大軍をもってしてもなお警戒を要するという時に! 貴様の主人は真に人を食った奴よな! たった一人を援軍に寄越すとは、前代未聞の笑い草だわッ!」
「元譲、控えよ!」曹操が眉をひそめて窘める。
方悦は冷ややかに夏侯惇を見下ろし、平然と言い放った。
「笑いたくば笑うがよい。後日、自ずと答えは出よう!」
曹操はすかさず方悦を上座へ招き入れたが、その胸中には、蘇然の真意に対する抑えきれぬ疑問と好奇心が渦巻いていた。
翌朝、諸侯の満場一致の推戴を受け、袁紹が連合軍の盟主の座に就いた。曹操もまた異論なく賛意を示した。
得意満面の袁紹は曹操に勝ち誇ったような視線を投げかけると、諸侯を見渡して厳粛に宣言した。
「紹は不肖の身なれど、諸公の推挙を受けて盟主の重責を担うこととなった。功ある者には必ず賞を与え、罪ある者は必ず誅す! 各々軍律を遵守し、決して違犯することなかれ!」
続いて袁紹は、従弟の袁術に全軍の兵糧・輜重の総督を命じ、孫堅(字は文台)を先鋒に任じて汜水関への進撃を命じた。
その夜、曹操が自陣に戻って諸将にこの決定を伝えた時、末席に控えていた方悦が微かに口元を緩め、独り言のように呟いた。
「……やはり、先生の読み通りか」
天幕の中が水を打ったように静まり返った。
曹操が怪訝そうに身を乗り出す。「……子楞殿、それは如何なる意味だ?」
「出鱈目を申すな!」夏侯惇が腕を組んで冷ややかに吐き捨てる。
方悦は夏侯惇の挑発を意に介さず、懐から大切そうに数通の錦嚢を取り出した。表に書かれた墨痕を確かめ、その中の一通を選び出して曹操へと差し出した。
「出陣に際し、先生より預かってまいりました」
曹操は半信半疑で受け取り、封を解いて中の紙片を広げた。
書かれていた文字に目を通した瞬間——曹操の顔色が一変した!
「妙才(夏侯淵)ッ!! 直ちに精兵二千を率い、密かに孫文台の軍の後方を追え! 何があっても文台の身柄を収容し、退路を確保するのだッ!!」
「は、はッ!」
夏侯淵は驚愕して方悦を一瞥し、天幕を飛び出していった。
「孟徳、一体何が書かれておるのだ!?」夏侯惇が詰め寄る。
「……後になれば分かる!」
曹操は眉根を寄せ、紙片に記された文字を凝視した。そこには、蘇然の筆跡でこう記されていたのだ。
『袁術は猜疑心強く、功を妬む小人。先鋒の孫堅が勝ちに乗ずれば、必ずや兵糧の補給を断って自滅を誘わん。速やかに後詰を伏せ、江東の猛虎を収容すべし』
数日の後、連合軍の本営に激震が走った。
先鋒の孫堅軍が汜水関の前で大敗を喫したという凶報が届いたのだ。諸侯が慌てて本陣に集まり善後策を議論していた昼下がり——。
バァァンッ!!
血まみれの鎧を纏った一人の武将が、抜刀して本陣へと雪崩れ込んできた!
切っ先を袁術の鼻先へと突きつけ、虎の如く咆哮する。
「董卓と某には、元より何の私怨もない! 某が一身を顧みず、矢石の雨を冒して死力を尽くしたのは、上は国家のために賊を討ち、下は貴殿ら袁家の仇を討たんがためであった!
然るに貴様は小人の讒言に耳を貸し、兵糧の送致を止めて我が軍を飢えさせ、壊滅に追いやった! 袁術ッ、貴様はいかなる申し開きをする気だッ!!」
諸侯が慌てて止めに入った。
顔を土気色にした袁術は、狼狽えて弁明した。「こ、これには深い訳が……配下の兵糧役が独断で滞らせたのだ! 直ちにその者を処刑して落とし前をつける!」
袁紹も青筋を立てて弟を睨みつけ、取りなすように頭を下げた。
「文台殿、怒りを鎮められよ。愚弟の不明、この袁紹が代わって深く謝罪いたす!」
孫堅は袁紹を一瞥して刃を収めると、曹操の前へと歩み寄り、深々と拱手した。
「孟徳殿……あの窮地を救ってくださった貴殿の義気、真に感謝に堪えぬ。もし貴殿の手勢が退路を支えてくれなんだら、某の命は関の前で露と消えておりました!」
諸侯の疑惑と驚愕の視線が、一斉に曹操へと注がれた。
曹操は苦笑いを噛み殺し、拱手して返した。「文台殿、礼には及びませぬ。皆、天下のために命を賭す同志にござる」
孫堅は深く頷き、袁術を親の仇のように睨みつけると、吐き捨てた。
「天下の諸侯が皆、孟徳殿の如き義士であったなら、いかで国が乱れることがあろうかッ!」
背を向け、大股で立ち去っていった。
天幕には重苦しい沈黙が降り積もった。弟に面目を潰された袁紹は、人心を独占した曹操へ向けて、陰鬱な嫉妬の炎を燃え上がらせていた。
自陣へ戻るなり、曹操は天幕で深く息を吐き出し、嘆息した。
「……蘇守義、真に天下一の神算鬼謀よ」
夏侯惇は驚愕を隠せず、それでも食い下がるように言った。
「偶然に決まっております! 百里も離れた洛陽の奥底にいながら、袁術の兵糧止めを予見できる人間など、この世にいるはずがありません!」
曹操は従兄の意地っ張りに苦笑し、方悦に向き直った。
「子楞殿、守義殿から預かった残りの錦嚢、何が書かれておるのか先に見せてはもらえまいか?」
「それはなりませぬ」方悦は首を横に振った。
「先生より厳しく言い含められております。『時至らざるうちに開けてはならぬ』と」
「ハハ!」夏侯惇が嘲笑った。「分かったぞ! 貴様の主人は、予言が外れた時に大恥をかくのが怖くて出し惜しみしておるのだな!」
方悦はニヤリと笑い、涼やかに言い放った。
「先生はまさに、その通りのことを仰っておりましたよ」
「……ぐっ」夏侯惇は見事に言葉を詰まらせた。
それから数日、連合軍は汜水関へ猛攻を仕掛けたが、堅陣を崩すことはできなかった。
そこへ急報が飛び込んできた。
董卓軍の勇将・華雄が手勢を率いて関を出撃し、連合軍の本陣前へ押し寄せて一騎打ちを挑んできたというのだ。
諸侯が色を失う中、曹操の背後に控えていた方悦が、そっと二通目の錦嚢を曹操の手元へと差し入れた。
曹操が素早く開封して目を通すと、その表情が見る見るうちに奇妙な驚愕へと染まった。
手紙から目を上げ、本陣の末席——北平太守・公孫瓚の背後を見やる。
そこには、並々ならぬ威風を湛えた三人の無名の義勇兵が、端然と立ち並んでいた。
(……守義殿、貴殿には千里を見通す神の眼でも備わっておるのか!?)
曹操の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
その間にも、袁術の配下の驍将・兪渉が進み出るも、わずか数合で華雄に首を刎ねられたとの報が入る。続いて冀州刺史・韓馥の誇る上将・潘鳳が大斧を提げて出陣したが、これまた瞬く間に討ち取られた。
諸侯の顔がことごとく土気色に染まる。
盟主の袁紹が「我が手元の顔良・文醜のいずれか一人でもおれば、華雄ごときに後れは取らぬものを……」と天を仰いだその時。
曹操は立ち上がり、公孫瓚の前へと歩み寄って微笑んだ。
「伯珪(公孫瓚)殿。かねてより貴殿の背後に控える御三方の威風、ただならぬ武勇を秘めてお見受けいたす。諸侯にご紹介願えまいか?」
公孫瓚は目を瞬かせ、三人を前に招き出た。
「我が幼少の頃の学友、平原県の令を務める劉備、字は玄徳にござる。そしてこの二名は、義を結んだ弟弟子。いずれも万人の敵にござる!」
曹操の鋭い双眸が、長髯を蓄え、丹塗りの如き赤ら顔をした巨漢——関羽(字は雲長)の姿を射抜いた。
「ほう……比類なき偉丈夫よ。あの華雄を相手に、いかがかな?」
関羽は目を細めたまま口を開かない。横から虎髭の偉漢——張飛が鼻を鳴らした。
「あんな小童、俺たちの刃にかかれば一刀の下よ!」
袁術が眉を吊り上げて怒鳴った。「貴様ら、無礼であろう! 誰の前で口を利いておる!」
曹操は取りなし、関羽を見据えて問うた。「真か?」
関羽はスッと双眸を見開いた。その眼光の鋭さに、天幕の空気が凍りつく。
「皆の者が某の粗野を嫌わぬならば……直ちにあの華雄の首級を獲って参りましょう!」
袁術が吐き捨てた。「貴様の今の官職は何だ!」
関羽が押し黙ると、劉備が慌てて頭を下げた。「二弟の武勇は並ぶ者なしなれど、今は某の配下にて馬弓手を務めております……」
袁術は机を叩いて罵倒した。
「我ら天下の諸侯に大将がおらぬと侮るか! たかが一兵卒の弓手風情が、神聖なる軍議で放言に及ぶとは! 叩き出せッ!」
曹操が声を上げて笑い、割って入った。
「公路殿、待たれよ。この男の威風、尋常ならざるものがある。敵の華雄とて、一兵卒の弓手などと見抜けるはずもなかろう!」
関羽は曹操の恩情に深く感謝し、傲然と言い放った。
「もし勝てざれば、この首級を軍法にかけて刎ねられよ!」
(一度もこの男を見たことがないはずの守義殿が、なぜこの無名の弓手の武勇をここまで精確に言い当てられるのだ……?)
曹操の胸の内には、底知れぬ畏怖が渦巻いていた。
曹操は手ずから熱い酒を満たした大盃を差し出し、言った。
「将軍、この酒を干して馬に乗られよ!」
関羽は盃に触れず、青龍偃月刀を提げて踵を返した。
「酒はそのままで結構。……首を獲って、すぐに戻りましょう」
関羽が天幕を出て馬に跨がるや、関外の天地を揺るがす軍鼓の音と、天地を裂く喚声が轟き渡った。諸侯が色を失って使者を放とうとした——その刹那!
カララララン……!
馬の鈴の音とともに、天幕の帳を撥ね上げて関羽が歩み入ってきた。
ドサリ……!!
血塗れの華雄の生首が、乾いた音を立てて諸侯の卓の前へと投げ出された。
曹操が思わず卓の上の盃に手を伸ばすと——その酒は、未だ温かかった。
「…………ッ!!」
曹操の全身を、かつてない戦慄と鳥肌が駆け抜けた。
懐にある蘇然の錦嚢を骨がきしむほど握り締め、震える声で呟く。
(千里の彼方にあって、戦局を掌の上で転がすごとし……! 蘇守義……貴様という男は、真に神仏の化身か……!)
大将・華雄を無名の弓手に討ち取られたとの凶報を受け、洛陽の董卓は狼狽の極みに達した。
二十万の大軍を自ら率いて虎牢関へ急行することを決すると同時に、盟主となった袁紹への憎悪を滾らせた董卓は、都に留まっていた太傅・袁隗の一族を捕縛。老若男女を問わず、一族郎党を根こそぎ撫で斬りにして処刑した。
血の雨が洛陽に降り注ぐ中、司徒・王允は密かに拳を握り締めた。
(董卓が全軍を率いて出陣する今こそ……天の与えたもうた好機!)
王允は朝中の忠臣たちへ密使を放ち、魔王の留守を突く命がけのクーデターへ向けて、静かに動き始めていた。




