第七十九章 温明園の激震と、割れる老臣の絆
董卓は何進の遺した四、五万の大軍を併合して以来、その驕慢さは日ごとに増長し、宮中を出入りするにも何ら憚るところがなくなった。何太后の言葉すら、もはや耳に留めようともしない。
後軍校尉の鮑信が袁紹を訪ね、「董卓には必ず異心あり、速やかに除くべし」と説いたが、袁紹は「手に兵権がなくては除きようがない」と躊躇するばかり。鮑信は嘆息し、手勢を率いて泰山へと去っていった。
軍権を完全に握った董卓の野心は膨れ上がり、何太后への不満も募る中、李儒へ密かに漏らした。
「儂はずっと考えておったのだ。いっそ帝を廃し、陳留王(劉協)を立ててはどうか?」
李儒が進言した。
「今や朝廷に主柱はおりませぬ。この好機を逃せば、後日に変が生じましょう。明朝、温明園に百官を召し集め、廃立の大事を宣布なされよ。従わぬ者はその場で斬り捨てれば、岳父上の至高の威権は今日この日に定まります」
董卓は大いに喜んだ。
翌日、温明園に大掛かりな宴席が設けられ、公卿百官が残らず招集された。
何進の軍勢を呑み込んだ董卓の武威を恐れぬ者はおらず、誰一人として欠席する勇気はなかった。百官が着席したのち、董卓は悠然と園門に馬を降り、佩剣を帯びたまま威圧的に上座へと踏み込んだ。
酒宴が数巡したところで、董卓は楽の音と酒を止めさせ、凄みのある大声を張り上げた。
「儂に一言あり、百官、静粛に聞くがよい!」
諸臣が固唾を呑んで耳をそばだてる中、董卓は胸を張って言い放った。
「天子は万民の主であり、威儀なき者は宗廟社稷を奉じる能わず。今上(少帝・弁)は暗愚にして軟弱、聡明好学にして大位を継ぐに足る陳留王の足元にも及ばぬ! 先帝が天へ昇られる折、皇子協を太子に立てよと密詔を遺されたというのに、亡き大将軍・何進が逆心を抱き、勝手に今の皇位を立ておったのだ!
儂は今日、帝を廃して陳留王を擁立し、大漢に青天白日を取り戻さんと欲す! 諸卿の所見はいかに!?」
百官は青ざめ、誰も声を上げることができない。
列席していた王允は息を呑み、衝撃のあまり手から酒杯を滑り落とした。
その時、一人の男が卓を蹴倒して進み出た! 筵の前に仁王立ちし、怒髪天を衝く勢いで咆哮する。
「ならぬッ! 断じてならぬッ!! 貴様は何者だ、よくもかような大言壮語を吐けたものだ! 今上天子は先帝の嫡子、何の過失もないというのに、妄りに廃立を論じるなど言語道断! 先帝の遺詔など誰一人として知らぬものを、真偽すら定かでない妄言を盾に簒奪を企む気かッ!!」
董卓が見れば、他でもない并州刺史・丁原であった。
董卓は激怒して目を剥いた。
「我に従う者は生き、我に逆らう者は死すのみッ!!」
董卓は腰の宝剣を抜き放ち、丁原を叩き斬らんと詰め寄った。
その刹那——李儒の目が、丁原の背後に立つ一人の武将の姿を捉えた。
威風堂々たる偉躯、手には方天画戟を提げ、虎の如き眼光で董卓を睨み据えている。その身から立ち込めるただならぬ鬼神の如き殺気に、李儒の背筋が凍りついた。
李儒は慌てて割って入り、董卓の腕を必死に抑え込んだ。
「岳父上! 今宵は酒宴の席、国家の大事を論じる場ではござりませぬ! 明朝、都堂の公論に委ねても遅くはありますまい!」
諸官も口々に宥めに入った。丁原は王允へ無言の視線を投げかけると、長衣の裾を翻して温明園を立ち去っていった。
怒りの収まらぬ董卓は、百官を見下ろして冷ややかに問うた。
「儂の言は、公道に適っておるか否か!?」
進み出たのは尚書・盧植であった。
「明公の言、大いに誤れり。古の太甲が暗愚なれば伊尹がこれを桐宮に放ち、昌邑王が即位して二十七日に三千条の悪行を重ねたゆえに霍光が太廟に告げて廃した。されど今上は幼少なれど聡明仁智、微塵の過失もござらん! 先帝の密詔など、丁大人の申す通り真偽のほどは誰にも分からぬ。
況や公は外地の刺史に過ぎず、平生より朝政に参画したこともなく、伊尹や霍光の如き大器量もなし! いかで強いて廃立の暴挙を主導できようか! 聖人曰く『伊尹の志あらば可なり、伊尹の志なくばすなわち簒奪なり』と!」
激怒した董卓は再び抜刀し、盧植を斬り殺そうと躍りかかった。
侍中の蔡邕がすかさず身を挺して諫めた。
「盧尚書は天下に鳴り響く海内の人望にござる! 今この方を手にかければ、天下の民が震え上がり、明公に背くことになりましょうぞ!」
旧友たる蔡邕の必死の制止に、董卓はようやく刃を収めた。
王允も盧植の命を案じ、「酒乱の上の議論は無用、日を改めて論じましょう」と取りなし、百官は蜘蛛の子を散らすように散会した。
洛陽を脱出した丁原は、胸中で闘志を燃え上がらせていた。
董卓が頼みとするのは寄せ集めの八万。我が麾下は三万なれど、精強無比の将兵が揃っている。恐れるに足らず!
丁原は軍勢を率い、洛陽の城門前へと押し寄せて陣を布き、激しく戦いを挑んだ。
面目を潰された董卓は怒髪天を衝き、全軍を率いて出撃した。
両軍が荒野で対峙したその時——董卓の視線が、丁原の陣頭に立つ若き将へと吸い寄せられた。
頭には金冠を戴き、百花の戦袍を翻し、唐猊の鎧を身に纏い、獅蛮の宝帯を締め、馬上に方天画戟をしならせて立つ姿は、天から舞い降りた武神の如き威風を放っていた。
丁原の義理の息子——呂布、字は奉先である!
その背後に控える郝萌、曹性、成廉、魏続、宋憲、侯成ら六将も、百戦錬磨の獰猛な軍気を放ち、董卓軍の度肝を抜いた。
丁原が馬鞭を振るい、董卓を罵倒した。
「国家不幸にして宦官が権を弄し、万民を塗炭の苦しみに沈めた! 貴様は何の微功もない身でありながら、妄りに廃立を口にして朝廷を乱さんとするか! 奉先、この犬ころの首級を挙げよッ!」
「フンッ!」
呂布は冷笑を漏らし、低く下知を飛ばした。
「諸将、某に続け!」
「応ッ!」
呂布は董卓の前衛など目もくれず、六将を従えて一直線に董卓の本陣へと突撃した。
七騎の猛将が暴風の如く敵陣を切り裂き、縦横無尽に突き進む様を見て、董卓は「何処の小童が、儂の前で放肆を働くかッ!」と咆哮した。
元より荒武者として鳴らした董卓は、配下に指揮を任せ、自ら大刀を提げて呂布を迎え撃った。
ガギィィィンッッ!!
大刀と方天画戟が激突した瞬間、董卓の両腕に万斤の岩石を叩きつけられたような激痛が走った。眼光が驚愕に歪む。
呂布は嘲笑を浮かべ、わずか数合打ち合っただけで董卓の膂力が尽きかけたことを見抜いた。
「首を置いていけッ!」
画戟が閃光の如く董卓の眉間へと突き出された——その刹那!
バキィッ!
呂布の身体がガクンと宙に浮いた。並の軍馬では、二人の怪力無双の打ち合いの負荷に耐えきれなかったのだ。骨を折った愛馬が悲鳴を上げて崩れ落ちた。
画戟の切っ先を鼻先数寸で躱した董卓は、冷や汗を流しながらも馬が倒れたのを見て狂喜した。しかし、落馬した呂布が軽やかに身を翻して着地し、鬼神の如き眼光で自分を射すくめるのを見るや、董卓の背筋に冷たい戦慄が走った。(……何という勇武だ!)
李儒は軍略に疎いながらも味方の敗色を即座に悟り、急ぎ鳴金を打ち鳴らした。
董卓は命からがら馬首を巡らせて敗走した。
呂布は方天画戟を大地へ突き立て、逃げゆく背中を冷ややかに見送った。
「……明朝、必ずや貴様の首を貰い受けてやる!」
この一戦で大敗を喫した董卓軍は洛陽城内へと逃げ帰り、門を固く閉ざして「免戦」の札を掲げた。呂布が連日城外で挑発を繰り返すも、董卓は決して打って出ようとはしなかった。
——その結果、司徒府で一番頭を抱える羽目になったのが蘇然であった。
すでに荷物をまとめ、秀を連れて徐州へ逃げ帰る段取りを完璧に整えていたというのに、董卓軍が城門を閉鎖し、「入城は許すが、出城は一切罷りならぬ」という厳戒態勢を敷いてしまったのだ。
城門から一歩も出られず、蘇然は司徒府で足止めを食らって地団駄を踏んでいた。
(丁原と董卓が決戦中……ってことは、三国志最強のあの男、呂布がすぐ城門の外にいるってことじゃないか……!)
胃の痛む思いで寝室へ戻ると、秀が寝台の縁に腰掛け、針仕事に励んでいた。
蘇然は恐る恐る口を開いた。
「……なあ秀。お前、『呂布』って男を知ってるか?」
「呂布……?」
秀は目を瞬かせ、小首を傾げて記憶を手繰り寄せた。
「いいえ、聞いたこともございませんわ。夫君、そのお方が何か?」
「……あ、いや、何でもない」
蘇然は安堵の息を漏らした。秀が嘘をつくはずがない。やはり後世の講談が面白おかしく仕立てたフィクションだったのだ。
「夫君?」秀は心配そうに見つめ、優しく問うた。「今日も、城外へは出られませんでしたの?」
「言わないでくれよ……」蘇然はため息をついて秀の隣に腰を下ろした。「董卓と丁原が城外で睨み合ってて、門が封鎖されちまったんだ。出られるわけがない」
「夫君、焦ることはありませんわ」
秀は微笑み、針を置いて柔らかな腕で蘇然の首筋を優しく抱きしめた。
「心を落ち着けてくださいな。きっと……すべて良くなりますから……」
「へへっ」蘇然は相好を崩し、秀の滑らかな頬をぷにっと指で突いた。「それ、昔俺が言ったセリフの丸パクリじゃないか」
「もう、夫君ったら!」秀は唇を尖らせて甘えた。「秀をからかってばかり……」
照れ笑いを浮かべる愛妻の愛らしさに胸が熱くなり、蘇然が抱き寄せようとしたその時——廊下の奥から、王允の雷のような怒号が轟いた!
「会わぬと申したら会わぬッ! 疾く追い返せッ!!」
蘇然と秀は顔を見合わせ、そっと部屋を出た。
廊下の向こうから老執事が困り果てた顔で歩いてくるのを見咎め、蘇然は手招きした。
「じいや、何があったんだ?」
「あ、表若様……!」執事は書斎を振り返り、声を潜めた。
「蔡中郎(蔡邕)様がお見えになられたので旦那様にお取り次ぎいたしましたところ、旦那様が激怒されまして……門前払いを食らわせよと仰るのです」
「蔡伯父上が門前払い……?」蘇然は目を丸くした。「案内してくれ、俺が見てくる!」
表門へ駆けつけると、門扉の前に蔡邕が一人、寂しげに佇んでいた。
管家が恐縮して頭を下げる。「蔡中郎様、誠に申し訳ございません。本日、旦那様は酷く体調を崩されておりまして、どなた様とも……」
「……そうか」蔡邕は深く嘆息し、拱手した。「子師殿へ伝えてくれ、某は……」
「伯父上!」蘇然が声をかけた。
「おお、守義殿!」
蔡邕の瞳にパッと温かな光が宿った。
「息災であったか。近頃、我が屋敷へちっとも顔を見せてくれぬゆえ案じておったのだぞ……」
「あはは……」蘇然は頭を掻いた。(何度も通ったら秀が本気で拗ねちまいますから……とは言えない)。
蔡邕は懐かしそうに微笑み、声を弾ませた。
「実はな、近頃『焦尾琴』と名付けた稀代の名琴を手に入れてな。守義殿、暇があるならば是非とも音色を聴きに……」
「何を見に来いと言うのだッ!!」
激しい怒号が蔡邕の言葉を叩き斬った。
王允が青筋を立てて大股で歩み出てくるや、蘇然をギロリと睨みつけた。
「守義、部屋へ戻れッ!」
「子師殿……」蔡邕が眉をひそめて呼びかけるが、王允は完全に目を逸らして無視した。
「あの、伯父上たち……一体どうしたんです?」蘇然がオロオロと仲裁に入ろうとする。
「戻れと言っておるのが聞こえぬかッ!」王允は蘇然を一喝し、吐き捨てた。
「今後、蔡府への出入りは一切相成らんッ!」
これには温厚な蔡邕も色をなした。
「子師殿! たとえ貴殿が某を誤解しておられるとしても、我が娘にまで累を及ぼすことはなかろう!」
「フンッ!」
王允は冷酷に鼻を鳴らし、蔡邕に一瞥もくれず背を向けて屋敷の奥へと消え去っていった。
「蔡伯父上、一体何があったのですか?」蘇然が小声で尋ねる。
「……はぁ」蔡邕は首を横に振り、苦渋の笑みを浮かべた。
「数日前、董卓が一人で我が屋敷を訪ねてまいりな。昔、某が奴に親切にしてやった恩義を語り合っておったのだ。ところが翌日、何太后の名をもって某を侍中へ引き立てるとの勅命が下ってしまってな……。子師殿は、某が董卓に媚び諂って出世を買い取ったと誤解されたのであろう……」
(なるほど……)
蘇然は内心で頭を抱えた。王允は先日実権を奪われたばかりなのだ。その直後に親友が董卓の手引きで異例の出世を遂げたとなれば、頑固親父が「裏切り者」と激怒するのも無理はなかった。
蔡邕は遠くを見つめ、寂しげに呟いた。
「かつて漢室を憂じておった董仲穎が、まさかここまでの暴君に成り果てようとは……某とて夢にも思わなんだ。……守義殿、某はもうこの屋敷の敷居を跨ぐことは叶わん。されど、もし……もし気が向いたなら、蔡府へ遊びに来ておくれ。昭姫も待っておるゆえ……」
(気が向いたならって……)
蘇然の背筋が冷やりとした。薄幸の美女・蔡文姫の可憐な姿を思い浮かべれば心惹かれないと言えば嘘になるが、秀という最愛の妻がありながら他所の娘の元へ通うなど……。
奥から再び王允の怒声が響いた。
「守義ッ! 直ちに戻れ! 誰がその男と口を利いてよいと申したッ!!」
蔡邕の瞳が翳り、諦めたように手を振った。
「守義殿、行きなさい。子師殿の気性は某が一番よく知っておる。遅くなれば叱責を受けるぞ……」
肩を落として去ろうとする大儒の後ろ姿を見かねて、蘇然は思わず声をかけた。
「……蔡伯父上、お気をつけてお帰りください。機会を見つけて、必ずやお伺いいたしますから!」
蔡邕は振り返り、嬉しそうに目元を綻ばせた。
「うむ! 蔡府の席は、常に守義殿のために一つ空けて待っておるぞ!」




