第七十八章 洛陽入城の魔王と、李儒の廃立密計
王允は魂を抜かれたようにふらふらと司徒府へと戻ってきた。乗っていったはずの愛馬を宮門の外へ繋いだまま忘れてきたことにすら、まるで気づいていなかった。
書斎の敷居を跨ぎ、深く重い溜息を吐き出したその時、部屋の隅に人の気配があることに気づいた。
「伯父上ッ!」
机の前で待ち構えていた蘇然が、焦燥の色を浮かべて駆け寄ってきた。
「どこへ行っておられたのですか! ずっとお戻りを待っていたのですよ!」
今の王允の胸中は灰のように冷え切っていた。上座の椅子へ力なく腰を下ろし、乾いた声で呟く。
「守義か……。もしや伯喈殿の娘の件で相談か? ならば日を改めてくれ。今日の老夫は酷く疲れ果てておる……」
「そんな呑気な話じゃありません!」蘇然は眉をひそめた。
「実は先ほど、ある書物で卦を立ててみたのです。その出た結果があまりに不穏ゆえ、胸騒ぎがして伯父上に相談しようと……」
「……卦を立てただと?」王允は自嘲の笑みを漏らした。「お主、易の占断まで心得ておったのか。申してみよ」
「……董卓が、洛陽へ入城いたします」
王允は一瞬目を見張り、次の瞬間、天を仰いでカラカラと声を上げて笑い出した。
蘇然は最初は自分を嘲笑っているのかと思ったが、すぐにその笑い声の奥に滲む、身を切られるような無念と痛恨に気づいて息を呑んだ。
「伯……伯父上?」
「その通りよ……!」王允は呻くように吐き捨てた。
「丁建陽の并州軍は、一刻(約二時間)ほど前にとうに城外へ到着しておったのだ! されど何太后の勅命により、門前払いを食らって都から遠ざけられた。儂が直ちに宮中へ赴き、太后にお目通りを願って直諫せんと図ったが……太后は儂に会いすらしてくださらなんだ」
「なぜです……!?」蘇然は驚愕した。
「何者かが裏で悪辣な讒言を吹き込んだのだ。太后は今や儂を『外地の軍閥と私通する逆臣』と疑っておられる……。手遅れだ! 全て手遅れだったのだ!」
蘇然は押し黙った。胸の奥に苦い後悔が広がる。
「……太后はなぜ、それほど容易く小人の讒言を信じたのです?」
「守義、お主には朝廷の闇が分からんのだ」王允は力なく首を振った。
「今の天子(弁)は何太后の実子。本来なら帝位に就くべき器量ではない。先帝が崩御の折、密かに皇子協を立てよと密詔を遺されたという噂が宮中を駆け巡っておる。太后は儂が先帝の遺志を奉じ、我が子を引きずり降ろそうとしておると疑っておるのだ……ああ、今さら何を言っても詮無きことよ!」
——ドタドタドタッ!!
その時、一人の下僕が転がるように書斎へ駆け込んできた。
「だ、旦那様! 大変でございますッ!」
「何事だ!」
「申し上げます! 西涼の……西涼の軍勢が、洛陽の城門をくぐり抜けて入城してまいりましたッ!!」
蘇然の顔から血の気が引いた。息を呑んで王允を見つめる。
王允の唇が震えた。「……誰か、阻む者はおらなんだのか?」
「誰一人として立ちはだかる者はございません……!」
「ハハ……ハハハッ!」
王允は絶望の笑い声を絞り出した。
「やはりそうか……! ああ、何太后め、これほど愚昧な女子であったとは! ……守義!」
王允はカッと目を見開き、厳粛に命じた。
「急ぎ荷物をまとめよ! 時局の雲行きが怪しくなれば、秀児を連れて直ちに洛陽を脱出せよ! 徐州へ帰るのだ!」
(……!)
それこそが蘇然が最も望んでいた展開のはずだった。だが、目の前で老骨を震わせる王允の悲痛な姿を前にして、素直に頷くことなど到底できなかった。
「……ならば、伯父上はどうされるのです?」
「儂か?」王允は薄く笑った。
「この身は疾くに土に埋もれゆく老いぼれよ。今さら何を恐れることがあろう! 下がれ、お主らの逃げ道だけは儂が作ってやる!」
蘇然は拳を握り締め、物言わぬまま深く一礼して書斎を後にした。
「お前も下がれ」
下僕を退出させた王允は、自らの手で重々しく扉を閉め、閂を下ろした。
机の前に座り、静かに目を閉じる。
長い沈黙ののち、王允は猛然と両眼を見開いた。筆を執り、白い紙の上に力任せに二文字を叩きつける。
——『董卓』。
「もし貴様が少しでも大漢の社稷を汚してみろ……!」
老臣は机を軋ませ、血を吐くような怨念を込めて呟いた。
「老夫はこの命と引き換えにしてでも……必ずやお前の首を掻き切ってくれるわッ!!」
重苦しい足取りで寝室へ戻ってきた蘇然に、秀が心配そうに駆け寄った。
「夫君、伯父様とはお話しになれましたか?」
蘇然は首を横に振った。
「……秀。荷物をまとめてくれ。俺たち、徐州へ帰るぞ」
「え……?」
秀は目を丸くしたが、夫の瞳に宿る暗い影を見て、すべてを呑み込んで静かに頷いた。
「……はい、夫君」
翌朝、洛陽の朝堂。
玉座の前に並ぶ百官の最前列に、筋骨隆々たる巨漢の武将が我が物顔で仁王立ちしているのを見て、王允は激しく眉をひそめた。
「司徒……」
背後から低い声が掛かった。
「……建陽殿か」
王允が振り返ると、そこには苦渋に満ちた顔の丁原が立っていた。
「身体は息災か?」
丁原は力なく首を振った。
「功を一擲にして失いました。手勢の并州軍は全て城外へ留め置かれ、太后様より『単身にて入朝せよ』との命を受けましてな。連れて入れたのはわずか五十騎の護衛のみ……」
王允はただ無言で首を振るしかなかった。言葉にならぬ無念が胸を塞ぐ。
この日、何太后より勅諚が下された。
董卓を衛尉(宮廷警備の最高責任者)に任じ、内宮の警備を一手に握らせた。その権勢は曹操ら西園八校尉をも上回るものであった。
同時に、丁原を懐柔し董卓を牽制するため、丁原を執金吾(帝都洛陽の治安総督)に任じた。
都の軍権を二人の荒武者に二分させ、競い合わせようという愚劣極まる浅知恵であった。王允は朝堂の隅で、ただ胸の内で血の涙を流すしかなかった。
朝議が果て、王允が太尉・楊彪とともに殿舎を降りてゆくところへ、大股で董卓が歩み寄ってきた。
「太尉殿、司徒殿! ご機嫌麗しゅう! 某は西涼の董卓にござる。お二方の高邁なる賢名、かねてより雷鳴の如く轟いておりましたぞ。もしお暇でござらば、某の屋敷にて一献傾け合おうではありませぬか?」
王允は心の中で冷笑し、氷のような眼差しを返した。
「衛尉大人の過分なるお心遣い、痛み入る。されど儂は生憎と風邪を召しておりましてな。酒を嗜む体調ではござらんゆえ、失礼仕る」
「……あ、いや、それはご無理を申した。では……楊太尉殿は?」
「これはまた間の悪いことで!」楊彪は白々しく破顔してみせた。
「昨日、我が家に初孫が生まれましてな! 今すぐ屋敷へ駆け戻り、天倫の喜びを味わわねばならんのですわ!」
「…………」
董卓の顔が引きつった。
「そ、そうでござるか……ならばまた日を改めて!」
王允は一言の会釈もなく背を向け、大股で去っていった。楊彪も軽く頷いてその後に続く。
遠ざかる二人の老臣の背中を見つめながら、董卓の瞳には天を焦がさんばかりの怒りの炎が燃え盛っていた。
街道へ出ると、王允が吹き出した。
「楊彪殿、貴殿にいつ孫が生まれたのだ? 老夫は初耳であったぞ」
「ハハハ!」楊彪は大笑いした。「子師殿の風邪と同じ病ですわ!」
二人は声を合わせて高笑いした。だが楊彪はすぐに笑みを収め、憂鬱そうに眉を寄せた。
「されど……あのように露骨に拒絶しては、角が立ちますまいか」
「フン!」王允は鼻を鳴らした。
「奴は西涼の田舎侍よ! 朝廷に一握りの根城すら持たぬ輩を、何ゆえ恐れる必要がある! 今や丁原が執金吾として洛陽の治安を握っておるのだ。董卓ごときに何ができるというのだ!」
「……それもそうですな」楊彪も頷くしかなかった。
それから数日の間、董卓は連日のように朝中の高官や名士たちを宴席へと招いた。
しかし、約束の刻限になっても、広大な大広間に姿を現す者はただの一人もいなかった。
がらんとした宴席を見下ろし、屈辱と怒りで顔を紫に沸騰させた董卓は、咆哮とともに目の前の豪奢な料理の載った机を蹴り飛ばした!
「あの老いぼれどもがァッ!! よくもこの儂を愚弄しおったなッ!!」
ひっくり返った机を静かに引き起こし、散らばった杯を拾い上げる男がいた。
「……この事態、小婿の予想通りにございます。岳父上、どうかお怒りをお鎮めくださいますよう」
董卓の軍師にして娘婿——李儒であった。
「文優! 何か良策はあるのか、疾く申せ!」
「我らは西涼の武骨者の集まりゆえ、名門気取りの士大夫どもが見下すのは当然の理。されど案ずるには及びませぬ。連中は詩文を弄し、机上の空論を語ることには長けておりますが、こと戦の駆け引きとなれば赤子同然。目下、岳父上が成すべき急務はただ一つ——圧倒的な軍権を手中に収めることにございます」
「軍権だと?」董卓は眉をひそめた。
「太后の命なくして、勝手に新兵を徴募することなどできんぞ。あの女狐、丁原を執金吾に据えて儂を露骨に監視しておるのだ!」
「新兵を募る必要などございませぬ」李儒は冷酷に微笑んだ。
「洛陽には今、頭を失った強力な軍勢が手付かずのまま放置されておりますゆえ」
「……何進の旧軍か!?」
「御意にございます。亡き大将軍・何進の麾下にいた四万の精鋭! 主を失い、烏合の衆と化しているこの大軍を、なぜ岳父上が呑み込まぬのですか?
さらに西園八校尉の手元にも一万余の軍勢がありますが、袁紹や曹操らは名門の出ゆえ警戒せねばなりませぬ。彼らには適当な官職を与えて昇進させ、体よく軍権を取り上げて閑職へ祭り上げてしまえばよいのです!」
「おおッ!」董卓は膝を打って高笑いした。「妙計、真に妙計よ! ……となれば、残る懸念は丁原の手勢、あの三万の并州鉄騎だけだな!」
李儒は眉根を寄せ、微かに悔しそうに目を伏せた。
「……并州の騎兵の精強さは天下に鳴り響いております。こればかりは、小婿とて一朝一夕に打ち破る妙策はござらん」
「よいよい、気にするな!」董卓は豪快に手を振った。「されど文優、朝中の重臣どもがことごとく儂に牙を剥いておる現状、いかに打破すべきだ? 太后まで丁原を盾にして儂を抑え込もうとしておるのだぞ!」
李儒の双眸に、毒蛇の如き暗い燐光が宿った。
薄く笑みを浮かべ、囁くように進言する。
「岳父上が至高無上の権力を欲されるならば、造作もなきこと。……先帝が遺された、あの『密詔』を用いる時がまいりました」
「な……!?」
剛胆を誇る董卓すらも息を呑んだ。
「文優……貴様、まさか……」
「先帝の遺詔を奉じ、暗愚なる今の少帝(劉弁)を廃し、聡明なる皇子協(劉協)を新たな天子に即位させるのです!
天子を自らの手で擁立したならば、岳父上は天下無双の『建国の功臣』となり、その権勢は天を覆いましょう!
先だって何進に誅殺された董太后は、岳父上と同族の血筋。何太后もその恨みを恐れて岳父上を警戒しておるのです。ならば奴らに足元をすくわれる前に先手を打ち、何進の一族を根こそぎ撫で斬りにいたしましょうぞ!」
董卓はカッと目を見開き、息を荒げた。
「文優……この大事、成算はあるのか!?」
李儒は答えず、ただ深遠なる冷笑を浮かべてみせた。
「ガハハハハッ!! よし、やってやろうではないか!」
董卓は野望に胸を躍らせ、獰猛な笑みを浮かべた。
「洛陽のあの思い上がった儒者どもめ、後で泣き面を見せてくれるわッ!」
「岳父上、一つだけ釘を刺しておかねばなりませぬ」李儒が進み出た。
「天下を治める実務には、どうしても士大夫の知恵が必要となります。あまり追い詰めてはなりませぬ。軍の改編は小婿が進めてまいりますゆえ、岳父上はかつての旧友——蔡伯喈殿をお訪ねになってはいかがですかな?」
「おお、そうであった!」董卓はポンと手を打った。
「かつて儂が都へ上った折、田舎侍と誰もが嘲笑う中で、唯一あの蔡邕殿だけが儂を人として丁重にもてなしてくれたのだ。恩に報いねば男がすたる!」
かくして李儒の巧みな舌先三寸により、何進の遺した四万の軍勢は瞬く間に董卓の軍門へと降った。
さらに曹操ら八校尉を手厚い酒宴に招いて甘言を弄し、その幕下に自らの腹心を次々と送り込んで実権を奪い、曹操たちを完全に名ばかりの閑職へと追い込んだ。
今や、董卓の率いる軍勢は八万余にまで膨れ上がっていた。
李儒はこの機を逃さず軍の再編に着手。旧西涼軍の兵卒を一斉に昇格させて要職に据え、莫大な恩賞をもって八万の兵の心を完全に掌握した。そしてこの軍勢を、徐栄、胡軫、李傕、華雄の四将に分割して統率させたのである。
手中に絶対的な軍事力を握った董卓の傲慢は、日を追うごとに天を衝く勢いとなった。
何太后が何進の旧軍を無断で併合したことを激しく責め立てるに及び、董卓の胸の内に巣食う逆心はついに限界点へと達した。
都の空を覆う暗雲の下で、魔王はいよいよ——『帝位廃立』という未曾有の暴挙へ向けて、牙を剥き出しにしようとしていた。




