第七十七章 天書の青光と、阻まれた并州鉄騎
蔡府での宴席において適当に箸をつけた後、蘇然は文字通り脱兎の如くその場から逃げ帰ってきた。
蔡邕の「我が意を得たり」と言わんばかりの熱烈な眼差しも、荀攸の底意地の悪いニヤニヤ顔も、居心地が悪くて一刻たりとも耐えられなかったのだ。
当の蔡昭姫といえば、至極おとなしく俯いて口を開かず、蘇然の顔も見ずにただ黙々と飯を口に運んでいた。
針のむしろのような空気の中、蘇然は冷や汗を流しながら散会を待ち、門を出るなり全速力で司徒府へと駆け戻ったのである。
屋敷の書斎へ戻ると、秀が机に向かって静かに書物をめくっていた。
蘇然が抜き足差し足で背後から忍び寄ると、秀の口元にふわりと笑みがこぼれた。
「夫君、妾身を驚かそうとなさっても無駄でございますよ」
「……何で分かっちまうんだ?」蘇然は肩を落とした。
「妾身は武芸を嗜んでおりますもの。足音を聞けばすぐに分かりますわ」
「じゃあ、それが俺の足音だって何で断定できるんだよ?」
「……それは」秀はほんのり頬を染め、恥じらうように囁いた。「妾身が、夫君の妻だからにございます……」
「へへっ!」
蘇然は堪らなくなって秀を後ろから抱きしめた。「秀、まさかまた俺の帰りを待って飯を食わずにいたんじゃないだろうな?」
「夫君がおられないと、一人で箸を取っても少しも美味しくありませんもの……」
「よし! 実は俺もさっきの席じゃ味なんかまるで分からなかったんだ。秀、一緒に食おう!」
「はい……」
秀は手ずから台所で温かい料理を幾皿か整え、蘇然の前に湯気の立つ飯を差し出した。
「夫君、蔡府ではいかがなお話がございましたの?」
「……あ、いや!」蘇然は慌てて目を泳がせ、話を逸らした。「今日の秀の手料理は一段と美味いな! 絶品だ!」
「……あら、そうですの?」
秀は一瞬きょとんとしたが、夫のぎこちない誤魔化しに気づいてくすりと笑った。
「ならばたくさん召し上がってくださいませ。……あ、そうだわ夫君。あの書物、酷く不思議なものでございますね」
「不思議? 何がだ?」蘇然は飯を掻き込みながら何気なく聞き返した。
「夫君がお出かけになられた後、机の上を片付けようといたしました折、広げられたままになっていたあの書物でございます……」
秀は先ほど指先に走った激痛と、書物が放った青い燐光の顛末をありのままに語って聞かせた。
「な……何だって!?」
蘇然は箸を止め、怪訝そうに眉をひそめた。「秀、本当か?」
「ええ」
秀は小さく頷き、右手を差し出した。見れば、白魚のような柔らかな食指の先端が、微かに赤く腫れ上がっているではないか。
「何度か触れようと試みましたけれど、そのたびに弾かれてしまいましたの。夫君、あれは一体いかなる奇書なのですか?」
「そんな馬鹿な……ちょっと待ってろ!」
蘇然は飯碗を置き、書斎へ走って例の『奇門遁甲』を引っ掴んで戻ってきた。
「見ろよ! 俺が持っても何ともないぞ?」
秀は眉根を寄せて考え込み、言った。「夫君、机の上に置いてみてくださいませ。もう一度試してみますゆえ」
蘇然が卓の上に本を置くと、秀は恐る恐る、細い指先をそっと表紙へ伸ばした。
その指が触れた刹那——。
ピシッ!
青白い燐光が火花のように弾け散り、秀は「っ……!」と息を呑んで素早く手を引っ込めた。痛ましげに眉をひそめて夫を見つめる。
蘇然は慌てて秀の手を取り、指先を検分した。大怪我に至っていないのを確認して胸を撫で下ろしたが、手元の古書を見下ろす眼差しには拭い去れぬ戦慄が宿っていた。
「本当に怪奇現象が起きやがった……。何で俺が触っても何ともないんだ?」
秀は痛む指をさすりながら、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「神異の宝物には霊性が宿ると申します。きっとその書は、夫君をお選びになられたのでしょうね……」
そう言って、好奇心とほんの少しの羨望を込めて書物を見つめた。
(持ち主を選ぶ……認主の儀式とでも言うのかよ……?)
ネット小説のような設定に呆れつつも、蘇然の脳裏に電光が走った。
血の気がスーッと引いていく。
(……待てよ。だとしたら、あの卦の『事、願と違う』ってのは……張角の術が本物だったとしたら……董卓じゃなくて、俺の願いが打ち砕かれるって意味だったのか……!?)
その夜、更けゆく暗雲を切り裂き、并州刺史・丁原の率いる三万の精鋭が洛陽城外へと疾風の如く到着した。
夜を日に継いで駆け抜けてきた丁原は、城門を叩き開けさせて天子への拝謁を取り次がせようとした。しかし、門前に立ちはだかったのは、すでに厳重な陣を敷いて待ち受けていた禁衛軍の一隊であった。
先頭に立つ将が馬上で拱手し、冷ややかに声を張り上げた。
「丁大人! 太后様におかれましては、大人が万里の彼方より勤王に馳せ参じられた忠節を深く嘉みしておられます。されど、大軍が夜間に押し寄せては都の民草が恐慌を来しますゆえ、軍を洛陽城外百里の地へ留め置き、明朝、全城へ布告を出したのちに改めて召し出すよう、勅命が下っております!」
丁原は鞭を振り上げ、カッと目を見開いて怒鳴りつけた。
「貴様は何者だ! 某は漢室の危急を憂い、星夜を駆けて駆けつけたのだぞ! 何ゆえ太后様は某を城門の外へ締め出そうとされるのかッ!」
「某は禁衛統領の呉鑑! 丁大人にご挨拶申し上げる!」
将は無礼を詫びる風もなく、淡々と告げた。
「某はただ太后様の勅命をお伝えしているまでにございます。どうか某らを困らせぬよう願いたい」
丁原は怒りに胸を震わせたが、軍を率いる将として強引に怒気を抑え込んだ。
「……ならば、我が軍勢は城外に野営させよう。某が身辺の護衛のみを連れて入城するならば構わぬな?」
「太后様の仰せにございます。丁大人の長旅の労をねぎらい、今宵はまず身体をお休めいただくようとの仰せ。すでに美酒と肉を用意させ、将兵を犒うよう命じられておりますゆえ!」
(明朝だと……?)
丁原の胸に焦燥が渦巻いた。王允の密書を受け取って以来、西涼の董卓が都を狙っていると知り、奴より一刻も早く入城して都の守りを固めようと不眠不休で馬を飛ばしてきたのだ。それがこの仕打ちとは。
「某は王司徒にお会いせねばならん!」丁原は堪りかねて怒号を上げた。「そこを退けッ!」
呉鑑の表情が凍りついた。冷徹に言い放つ。
「丁大人! ここは大漢の天子の膝元にございます! 勅命を帯びた禁衛軍が、そう容易く道を譲れるとお思いか!」
呉鑑の合図とともに、背後の数百の禁衛兵が一斉に抜刀した。抜身の白刃が夜闇にギラリと光り、一触即発の殺気が街道を包み込む。
「某は何としても洛陽に入る!」丁原は顎を引いて手綱を握り締めた。「太后様が罪を問うならば、後日いくらでも申し開きをいたす! 刀を引けッ!」
「丁原! 謀反を起こす気かッ!? ——陣を構えよッ!」
丁原の胸中に激しい葛藤が吹き荒れた。王允の手紙には「急ぎ駆けつけよ」とあっただけで、勅命に阻まれた際の指図は何も書かれていなかったのだ。勅命を破って武力で洛陽へ押し入れば、朝敵の汚名を着せられる。それでは王允とて自分を庇い立てすることはできない。
躊躇する丁原の背後から、不意に氷を削るような冷酷な嘲笑が響き渡った。
「——フン。入りたいならば入ればよいものを、何を愚にもつかぬ繰り言を並べ立てておるのか」
闇の中から一頭の赤毛の駿馬が進み出た。
黒光りする重甲に身を包み、身の丈八尺余。その双眸からは、天下の生類を虫けらと見下す傲岸不遜な殺気が放たれていた。
男は冷ややかに佩剣の柄を叩き、吐き捨てた。
「義父上、ただ一言の下知を下されよ。この呂布が、半刻と経たぬうちにこの門を叩き割り、首を並べてみせましょう」
「……ならん!」
丁原は深く首を振り、断腸の思いで長い溜息を吐き出した。
「そのような暴挙、漢臣の道に悖る! 我らは勅命に従うほかない……ああ!」
「チッ」
その将——呂布は忌々しそうに鼻を鳴らし、それ以上は言葉を発することなく馬首を巡らせた。
丁原は胸の炎を呑み込み、呉鑑へ向けて声を絞り出した。
「……明朝の清朝、某は再びこの門へ参るぞ!」
呉鑑は内心で安堵の冷や汗を流していた。もし丁原が逆上して突撃を命じていれば、数百の禁衛兵など、あの三万の并州鉄騎の前にひとたまりもなく踏み潰されていたはずだ。
「丁大人の忠君愛国の志、痛み入ります。明朝には必ずや太后様より召し出しの詔が下りましょう……」
「フン!」
丁原は振り返りもせず、軍勢を率いて後退していった。
呉鑑は湿った背筋を撫で下ろし、闇の中へと消えてゆく并州軍の後ろ姿を見つめて戦慄した。
(……今、丁原の背後に控えておったあの武将は一体何者だ? あの男が口を開いた瞬間、全身の血が凍りつくような圧迫感を覚えたぞ……)
一方、司徒府——。
并州へ密書を放って以来、王允は丁原の軍勢の到着を一日千秋の思いで待ち焦がれ、城内の各門へ間者を放って動向を探らせていた。
深夜、息せき切って戻ってきた下僕の報告を聞いた瞬間——。
ポロリ……。
王允の手から筆が滑り落ち、机の上を汚した。老臣は目を見開き、愕然と立ち上がった。
「何だと……!? 誰が建陽の兵馬を阻んだというのだ!?」
下僕は平伏し、恐る恐る言上した。
「遠くから窺ったため詳細は分かりかねますが……太后様の勅命により、『将兵の労苦をねぎらい、城外で一夜を明かせ』と命じられたように見受けられました……」
「馬鹿なッ! 太后様がそのような理不尽な詔を下されるはずが……」
叫びかけた王允の脳裏に、電光のように疑念が閃いた。
老臣は手を振って下僕を退室させると、青ざめた唇を震わせて呟いた。
「……何者かが、太后を唆したのか? 数日前まで太后様は老夫に温かく接し、守義を長史に取り立ててくださったばかりだというのに……ここ数日、老夫を見る眼差しが妙に冷え切っておったのは、そういうことか……!」
(このままでは済まされん!)
王允は眉間に深い皺を刻み、書斎の扉を蹴破るように飛び出した。
「誰か! 馬を引けッ!!」
王允が馬を飛ばして皇宮へ駆けつけると、宮門は鉄の鍵で固く閉ざされていた。
馬を降りた王允は、門扉を叩いて声を張り上げた。
「老夫は大漢司徒・王允である! 太后様に緊急の用向きあり、直ちにお目通りを願いたい!」
城壁の上から守将が顔を出し、見下ろして言った。
「夜分にございます。太后様はすでにお休みになられました。司徒大人、明朝の朝議に出直されよ」
王允は息を詰まらせたが、拭えぬ胸騒ぎに突き動かされて食い下がった。
「将軍、太后様へ取り次いでくだされ! 国家存亡の重大事にござる!」
「司徒大人、某らを困らせないでくだされ……。夜分に宮門を開くことは掟に背きます。明日の朝議で奏上なさっても遅くはありますまい」
「将軍! 老夫はここで吉報を待つ! どうか太后様へ一声届けてくだされ!」
しばらくの押し問答の後、ギギギ……と内城の門が微かに開き、鎧を纏った一人の将が静かに歩み出てきた。
王允の顔に喜色が差したが、将が進み出るや、背後の門は再びピシャリと閉ざされた。
将が進み出て拱手した。「某は喬域。王司徒にご挨拶申し上げます」
「喬将軍! 直ちに取り次いではくれぬか!」王允が詰め寄る。
喬域は左右を警戒するように見回し、声を潜めて耳元で囁いた。
「……司徒大人にだけ、ありのままを申し上げます。実は太后様より厳命が下っておるのです。『今宵は何人たりとも宮中へ入れてはならぬ。王司徒とて例外ではない』と……」
「な……何だと!?」
王允はよろめき、信じられない思いで目を剥いた。「なぜだ……太后様がなぜ老夫をかように疎まれるのだ!?」
喬域は苦渋に満ちた表情でためらい、さらに声を落とした。
「……某の弟が、宦官の乱ののち太后様の寝宮の警護を務めております。数日前、弟が耳にした太后様の呟きを、司徒大人にお伝えすべきか迷っておりました」
「申せ! 何と仰られたのだ!」
「——太后様は、『王子師の老いぼれめ、よくも外地の軍閥と私通してくれたな』と……」
王允の全身を、冷たい氷水が駆け抜けた。
すべてを悟った。何者かが裏で糸を引き、自分と丁原の関係を「謀反の密約」として太后に吹き込んだのだ。
喬域は憐憫の眼差しを向けた。
「司徒大人、どうかお引き取りくだされ。仮に某が命を捨てて大人をお通ししたところで、太后様はお会いにはなられますまい。ここ数日、太后様は宮中で激しく荒れ狂われ、そのお怒りの矛先は全て大人に向いておるのですから……」
王允はゆっくりと瞼を閉じ、天を仰いで慟哭のような長い溜息を吐き出した。
「……相分かった。将軍の情、心より感謝いたす」
「滅相もございません。大漢の危急の折、司徒大人におかれましてはどうか御身をおいといくだされ。役目ゆえ、これにて失礼いたします」
喬域が内宮へと戻っていく後ろ姿を見送り、王允は太后の寝宮のある方角を遠く見つめた。
自嘲の笑みが口元に浮かび、その両肩ががっくりと落ちる。
老いた足取りは鉛のように重く、蹌踉めきながら夜の闇へと消えていった。




