第七十六章 南瓜の群れと、蔡府の文会舌戦
(クソッ、何が天書だ! 期待して損したぜ。まったく!)
蘇然は不貞腐れながら蔡府へと向かった。
門前に辿り着き、屋敷の中を覗き込んだ瞬間——蘇然はあんぐりと口を開けて立ち尽くした。
中庭には足の踏み場もないほど人が溢れ返り、あちこちで着飾った若者たちが歓談の声を響かせているではないか。
(……ここ、本当に蔡邕先生の屋敷か? 迷子になって宴会場にでも迷い込んだか?)
蘇然は門前まで後ずさり、掲げられた扁額の文字を二度見した。
「間違いねえ……蔡府って書いてある。じゃあ、このお祭り騒ぎは一体何なんだ?」
「おや? 守義殿、貴殿もお見えでしたか」
不意に背後から肩をポンと叩かれ、蘇然は飛び上がらんばかりに驚いた。
振り返ると、そこにいたのは涼しい顔の荀攸であった。
蘇然は胸を押さえ、苦笑いを浮かべた。「公達殿……心臓が止まるかと思いましたよ」
「ハハ、驚かせてすまぬ」荀攸は細い髭を撫で、楽しげに目を細めた。
「公達殿、これは一体どういう集まりなんです?」蘇然は中庭の人波を指差した。
「む?」荀攸は目を瞬かせた。「蔡大人が書生たちを集めて催された詩会にございますが……守義殿、ご存じなかったのですか?」
「詩会……?」
荀攸は奇異なものを見る目で蘇然を見つめた。その視線の冷たさに、蘇然の額から嫌な汗が滲み出る。
「普段ここに集う学徒らは、学問を論じ合い、蔡大人に見出されて弟子入りを願うか、さもなくば己の名声を高めるために集まるもの。……されど、今回の詩会は平時とまるで異なりますぞ」
「平時と違う?」
荀攸は心底驚愕したように息を呑み、蘇然を凝視した。
「……蔡大人の愛娘・昭姫殿は今年で十五、ちょうど及笄(成人の年頃)を迎えられたばかり。都中の名門子弟が色めき立っておるというのに……守義殿は、真に何も知らずに来られたのですか?」
「…………」
(おいおい、それって実質的な婿選びコンペじゃねえかッ!?)
蘇然が絶句したその時、中庭のざわめきが水を打ったように静まり返った。
奥の上座から、蔡邕の朗々たる声が響き渡る。
「おお! 守義殿が参られたか! さあ、これへ、老夫の傍らへ参られよ!」
一瞬にして、庭中の若き学士たちの視線が門前の一点へと突き刺さった。嫉妬と敵意の籠もった視線の熱さに耐えかね、荀攸は素早く三歩後退して蘇然から距離を取った。
(……この薄情者め!)
蘇然は荀攸を心の中で罵りつつ、何十本もの刺すような視線を全身に浴びながら、蔡邕の元へと歩み寄るしかなかった。
「皆の者、老夫が今日、若き英傑を一人紹介いたそう!」
蔡邕は満面の笑みで蘇然の肩を引き寄せ、誇らしげに告げた。
「これぞ王司徒の姪婿にして、卓抜した知謀の持ち主よ! 先の宮中の動乱において宦官の逃走路を事前に見抜き、北邙山にて二帝を救い奉った大功臣である! 守義殿、居並ぶ諸学徒と誼を通じてくれい!」
居並ぶ若者たちの瞳には、露骨な疑惑、冷ややかな侮蔑、そして剥き出しの敵愾心が渦巻いていた。
蘇然は深く息を吸い込んだ。ここで怯んだら食い殺される。
脳裏に蘇ったのは、前世の小学生の頃、全校集会でお話をする際に担任の先生から教わった「門外不出の緊張解消法」であった。
——『小然、舞台に立ったら客席の目を見るんじゃないぞ。頭のてっぺんだけを見るんだ。頭の一つ一つをカボチャだと思え。四十人の生徒がいれば、四十個のカボチャが畑に転がっているだけだ……』
(そうだ……カボチャだ。目の前に並んでいるのは、ただの四十個の青臭いカボチャどもだ……!)
居並ぶ学士たちの目には、蔡邕に紹介された男の立ち振る舞いは異様極まりない傲岸不遜に映った。
誰とも視線を交わさず、頭の上あたりをぼんやりと見下ろすように見渡している。普段なら鼻で笑って無視するところだが、天下の蔡大人の愛娘を巡るこの大舞台において、このような不遜な態度は許しがたい挑発であった。
学徒たちの胸に青筋が立ち、蘇然を睨みつける眼光に殺気が宿る。
そんな内心の嵐など露知らず、蘇然はカボチャ畑を前にあっけらかんと名乗った。
「蘇然、字を守義と申す!」
(……それだけか!? 謙遜の一言すらなしか!?)
学士たちの怒りは頂点に達した。
たまらず前列の一人が立ち上がり、扇を握りしめて拱手した。
「河東の衛仲道と申す。守義兄、お目通り叶い恐悦に存じます」
「ん?」蘇然は目を細めた。
(衛仲道……! 出たな、蔡琰の最初の夫にして、夭折する運命の短命貴公子!)
蘇然がその顔をまじまじと観察すると、色白の端正な顔立ちの奥に、どこか不吉な黒ずんだ影が差しているように見えた。胸の奥がざわりと嫌な感覚に包まれる。
「蔡公よりそこまで推挙されるからには、さぞや類まれなる大才をお持ちなのでございましょう」
衛仲道は冷笑を浮かべ、挑戦的に畳み掛けた。
「某は愚鈍の身、学問において解けぬ疑問が山積しております。守義兄、どうかその広大なる学識をもって、某の疑問を解き明かしてはいただけますまいか?」
庭中から「いいぞ、やってやれ」という期待の視線が集中した。衛仲道の名声は都でも高い。対する蘇然の底力を見極めてやろうという魂胆であった。
(俺に学問の質問だと……?)
蘇然は内心で悲鳴を上げた。自分はこの二か月で『漢書』一冊しか読んでいないのだ。百戦錬磨の儒学者相手に知識比べなど挑んだら、一瞬で化けの皮が剥がれてしまう。
だが、現代人の屁理屈の引き出しが電光石火で回転した。蘇然は涼しい顔で言い放った。
「貴殿は『書を読むこと百遍、その義自ずから見る』という古言をご存じないのか? 仮に某が貴殿の疑問を解いてみせたところで、貴殿が得るものは書物の真理ではなく、某が書物から得た主観に過ぎぬ。それでは貴殿自身の学問にはならんではないか」
「見事なり!」
蔡邕が手を打って破顔した。
「老夫とて守義殿を高く買っておったつもりであったが、なお見くびっておったようだな! 流石は子師殿が見初めた器よ!」
衛仲道の顔が引きつった。周囲から漏れる失笑に耐えかね、奥歯を噛み締めて食い下がった。
「某は日夜書物に没頭し、広範な古典に目を通してまいりました。されど、どうしても解せぬ義理があるのです。守義兄、是非ともご教示を!」
(しつこい奴だな……!)
蘇然は呆れ、適当に受けて立った。「して、貴殿はどのような書物を修めてこられたのだ?」
衛仲道は待ってましたとばかりに胸を張った。
「先賢の書はあらかた目を通しております。『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書、ならびに『詩経』『書経』『礼記』『易経』……いずれも些か心得がございます!」
庭中の学士たちから感嘆のどよめきが上がった。衛仲道は得意満面の笑みを浮かべ、蘇然を見下すように一瞥した。
(自慢げに見下ろしてきやがって……なら、引導を渡してやるよ)
蘇然は薄く冷笑を浮かべ、痛烈な一撃を放った。
「——して、それらの書を極められたのか?」
「え……?」
蔡邕の御前で「極めた」などと大言壮語できるはずもない。衛仲道は口ごもった。
「い、いや……極めたとまでは……」
蘇然はわざとらしく深い溜息を吐き、憐れむように首を振ってみせた。
「なるほど……貴殿の胸に疑問が尽きぬ理由がよく分かりました。世に『術業に専攻あり』と申します。貴殿のようにあれも少々、これも少々とかじり、薄っぺらな皮相を撫でただけで満足しておるようでは、どうして真の学問が修められましょう?
先賢の学識の深さたるや、凡夫の足元など遠く及ばぬもの。ただひたすらに『勤勉』と『専攻』の二文字を胸に、一冊を骨の髄まで読み解いてこそ道は開けるのです。
不肖この某など、今に至るまで『漢書』ただ一冊しか紐解いておりませぬ! ああ、恥ずかしいことだ! たった一冊の『漢書』の真髄すら完全に悟れぬ身で、他の聖賢の書に浮気する顔などありましょうか! 広く浅くかじっては雑念を生むなど、本末転倒も甚だしい。学問とは浮薄な功名を焦ってはならぬもの。……まあ、某の浅薄な独り言に過ぎませぬゆえ、ご自身でじっくりとお考えあれ」
庭中が静まり返った。
他の学士たちと同様、蔡邕もまた蘇然の「漢書しか読んでいない」という言葉を極限の謙遜と受け取っていた。
(一冊を徹底して極め抜くその姿勢……何という求道心だ!)
蔡邕は髭を撫で、目を細めて頷き続けた。「素晴らしい……誠に素晴らしい見識だ!」
衛仲道は顔を真っ赤に沸騰させ、次いで土気色へと変わり、もはや一言も返せずにすごすごと席へ崩れ落ちた。
「守義兄の言葉、実に核心を突いておりますな。されど、それは一体いかなる先賢の教えに基づくものか?」
次に立ち上がったのは、温和な笑みを浮かべた青年であった。
「某は鍾良、字を学正と申す。守義兄にご挨拶申し上げる」
「どうも」蘇然は内心で警戒した。(またカボチャが一本生えてきやがったな……)
「某自身の所懐に過ぎませぬが、何か不都合でも?」
「先賢の聖人は、そのような偏狭な学びを説かれてはおらぬはず……」
「ほう?」蘇然はおどけて見せた。「貴殿の仰るには、我らは口を開けば必ず『子曰く』と聖人の言葉を鸚鵡返しに引用せねばならぬと? もしそうであるならば、我らが学問を修める意義とは一体何処にあるのです?」
「聖人の学問を継承することこそが本懐にございましょう。何を疑う余地がありましょうや」
「はぁ……」蘇然は天を仰いで嘆息した。
「貴殿は、『聖人を乗り越えよう』と考えたことは一度もないのか?」
ザワッ……!!
その一言に、中庭の空気が凍りついた。蔡邕すらも眉をひそめ、険しい眼差しを蘇然へ向ける。
鍾良は「この狂人を論破して名を上げてやる」とほくそ笑み、声を張り上げた。
「不敬極まりない暴言! 我ら凡夫の身で、いかで先賢聖人を乗り越えることなど適いましょうぞ!」
蘇然は再び深くため息をつき、静かに問いかけた。
「問うが、貴殿の学ぶその学問は、何処から来た?」
「聖人から学んだものにございます」
「では、その聖人の学問は何処から来た?」
「そ、それは……聖人の師より学んだのであろう!」鍾良はたじろいだ。
「ならば重ねて問う。その師の学問は、一体何処から湧き出たのだ?」
鍾良は絶句した。蔡邕すらも口を噤み、蘇然の次の言葉を待った。
蘇然はカボチャたちの頭上を見据え、朗々と語りかけた。
「教えて進ぜよう。聖賢の学問とは、彼ら自身が天地自然から学び取ったものなのだ! 天を仰ぎ、地に伏し、森羅万象を観察して自らの血肉とし、不朽の著作を遺したのだ。我らが真に学ぶべきは、聖人が遺した紙の上の文字などではなく、その不屈の探求精神そのものではないのか!?
もしその精神を継承せず、ただ古人の言葉を切り貼りして引用するだけで満足するならば、そんなものは学問ではなく、ただの物真似に過ぎぬ!」
蔡邕はしばし瞑目し、やがて雷に打たれたように目を見開き、深く頷いた。
(……聖人の文字を追うのではなく、聖人の志を追え、と! なんという恐るべき器量だ。百年に一人の俊英とは、まさにこの男のことか……!)
鍾良は完全に言葉を失い、青ざめて席へ引き下がった。
「守義兄、実に見事な弁舌。感服仕った」
三人目の男が立ち上がった。冷徹な眼光を放つ筋骨逞しい男であった。
「されど問いたい。守義兄は、目下の朝廷の政道をいかに見ておられるか?」
(いきなり直球勝負かよ……)
蘇然は男を見据えた。「貴殿の御名は?」
「某は張鋒! 字は択凡と申す! 亡父が武人ゆえ鋒刃の如き名を与えられたが、叔父が我が剛直さを戒めて択凡と字を改めさせた。無礼な物言いはお許し願いたい!」
「……朝政を市井で論じ合うなど、下手をすれば重罪に問われますぞ」
張鋒は冷笑した。「周の厲王の昔より、民の口を塞ぐは川を塞ぐより難し。我らは国を憂いて語るのだ、何の罪があろう!」
蔡邕が窘めようとしたが、蘇然がどう切り返すかを見極めるため、制止の手を止めた。
蘇然は苦笑した。王允の前で本音をぶちまけて投獄されかけた記憶が新しい。二の舞は御免であった。
「……大漢の命脈を舟に例えるならば、舟は水の上に浮いておる。『水は能く舟を載せ……』」
(※さすがに『覆す』まで言ったら首が飛ぶので、そこで止めた)
「守義兄の言う『水』とは、何のことだ?」
「言うまでもなく、天下の民草のことだ」
張鋒は鼻を鳴らし、高笑いした。
「某はてっきり『名門豪族』のことかと存じたわ! 民草が水だと? ならば貴殿は、名門世家を何処へ追いやるお積もりか!?」
「ほう?」蘇然は怪訝そうに小首を傾げた。「一握りの世家だけで、この広大なる大漢帝国を支え切れるとでも?」
「当然だ!」張鋒は胸を叩いた。
「郡を治め、賊を討ち、国を動かしておるのは全て世家の力だ! 泥水を啜る百姓どもに、大漢を載せて運ぶ力などあるはずがなかろう!」
(……引っかかったな)
蘇然は心の中でほくそ笑んだ。
「貴殿の理屈に従えば、大漢の中に世家がさらに増殖すれば、国家はより盤石に栄えるということだな?」
張鋒はハッとして息を呑んだ。これ以上豪族が土地を兼併すれば国が滅ぶことなど、誰の目にも明らかだったからだ。
蔡邕もまた眉をひそめ、張鋒の暴論を苦々しく見つめていた。蘇然の「水は舟を載せ……」の後に続く言葉(水は舟を覆す)を察し、その底知れぬ見識に戦慄を覚えていた。
蘇然は深く息を吸い込み、容赦のない正論を叩きつけた。
「民草を見下すでない! 貴殿が日々口にする飯、身に纏う錦、住まう豪壮な屋敷……その全てが、一体誰の手によって生み出されたものだ!? それを百姓の手によるものと知りながら、なお民は無用と言い切れるのかッ!」
張鋒の顔が朱に染まった。「さ、されど、今の黄巾の乱を起こしたのも民ではないか!」
「控えよッ!」蔡邕が机を叩いて一喝した。「学問の集まりを政争の場に変えるでない!」
蘇然は蔡邕に軽く会釈し、張鋒へ穏やかに語りかけた。
「民が望むものなど、実にささやかなものなのだよ。ただ飢えずに腹一杯の飯を食い、明日の命を繋ぐこと……それだけだ。今の大漢は天災と人災が重なり、生きる道を奪われた民は追い詰められたのだ。彼らが求めたのは、ただ『生きること』そのものだった。……これ以上語るまい。お座りくだされ」
張鋒は顔を青白く明滅させ、蔡邕の冷たい眼差しを見て完全に意気消沈し、黙って腰を下ろした。
居並ぶ学士たちは、三人の論客が手も足も出ず論破された様を目の当たりにし、もはや誰一人として前に出る勇気を持てなかった。
「——ハハハハハッ!! 実に見事! 誠に痛快至極にございますな!」
門前に立っていた荀攸が、手を叩きながら歩み出てきた。
「守義殿の弁舌の鋭さ、胸に宿る学識の深さ、真に天下無双の器量! 某、心より感服いたしましたぞ! ハハハ!」
そして蔡邕に向き直り、深々と一礼した。
「蔡中郎大人、おめでとうございます!」
「フォッフォッフォ!」蔡邕は髭を撫で、蘇然を見つめて上機嫌で高笑いした。
(……え? 何がおめでたいんだ?)
冷や汗を流しながら荀攸の裏切りを睨みつけていた蘇然は、周囲の異様な祝福ムードに首を傾げた。
その困惑を、蔡邕は「謙遜して照れているのだな」と都合よく解釈し、満足げに頷いた。
「うむ、誠に見上げた若武者よ! ——昭姫、奥で聞いておったのであろう。疾く出てまいれ!」
奥の帳が静かに開き、薄紅色の衣を纏った蔡琰が、楚々とした足取りで姿を現した。
顔を赤らめ、伏し目がちに蘇然を見つめる。
「守義殿の高邁なる学識、奥にて拝聴し……某、心より敬服いたしましたわ……」
蘇然は凍りついた。
周囲の学士たちの血の涙を流さんばかりの怨嗟の視線、荀攸のニヤニヤとした悪戯っぽい笑み、蔡邕の「我が意を得たり」という満面の笑み、そして恥じらう絶世の才女——。
(う、嘘だろ……!?)
蘇然の脳内で警報がけたたましく鳴り響いた。
(誰もこれが婿選びの腕比べだなんて教えてくれなかったぞッ!? 恥をかかないように必死で論破しただけなのに……これじゃまるで、俺が蔡文姫を勝ち取るために全員叩き潰したみたいじゃないかッ!!)
「あ……蔡お嬢様、ご機嫌麗しゅう……」蘇然の声が上ずる。
蔡琰は恥じらいに頬を染め、鈴を転がすような声で囁いた。
「守義殿、どうか『昭姫』とお呼びくださいまし。親しい身内は皆、そう呼んでおりますゆえ……」
蘇然:「…………(絶句)」




