第七十五章 天書の遺託と、青光放つ奇門遁甲
さて、張角・張宝・張梁の三兄弟が相次いで斃れ、黄巾軍の主力は壊滅的な打撃を被ったものの、その残党は山野に潜み、雌伏の時を待っていた。
ある日、一人の男が「黄巾小天師」と自称して旗を掲げ、散り散りとなっていた残党を糾合した。その勢い、わずか半月のうちに三、四万余を数える大勢力へと膨れ上がった。
この男こそ、張角が最も目をかけた愛弟子——張白騎である。
張白騎は本来、身寄りのない孤児であった。幼少期に張角に拾われ、太平道における最初の信徒となり、師の秘術と兵法を余すところなく受け継いだ唯一無二の弟子であった。
幼い頃には名がなかったが、ある夜、全身の毛並みが純白に輝く一頭の神馬の夢を見た。白騎はその白馬に跨がり、夢の中で天下の大地を縦横無尽に駆けたという。
目覚めて張角にその不思議を語ったところ、張角は大いに驚嘆し、彼に「白騎」の名を授けた。以来、その名は黄巾の内外に広まっていった。また、常に純白の駿馬を駆る姿からそう呼ばれたとも伝えられるが、その真の由来を知る者は少なかった。
折しも、黄巾の命脈はいまだ尽きてはいなかった。張白騎が山頂で一呼するや四方が雷鳴の如く呼応した。青州の渠帥・管亥、兗州の張牛角、荊州の劉辟や龔都らである。かつて張角が定めた古参の渠帥たちの大半は戦死したものの、新たに台頭した新世代の将帥たちは、より獰猛にして戦慣れしていた。
中でも黒山に拠る張燕と、この張白騎の二名は傑出しており、他の追随を許さぬ双璧であった。
ある朝、司徒府の書斎で日課の早朝読書に渋々取り組んでいた蘇然は、下僕から「客人がお目通りを求めております」との取り次ぎを受けた。
蘇然は首をかしげた。洛陽で自分と親しい者といえば曹操くらいのものだが、今の曹操が職務を放り出して私的に訪ねてくるはずもない。軍紀怠慢で弾劾されでもしたら一大事だからだ。
(……なら、一体どこの誰だ?)
「通せ」
間もなく、下僕に案内されて入ってきたのは、太い眉と鋭い眼光を湛えた筋骨逞しい青年であった。
まだ若い風貌ながら、その身には隠しようのない濃密な血煙の気配が漂っている。蘇然は眉をひそめ、警戒を帯びて問うた。
「……閣下、何者だ?」
男は蘇然を一瞥したが、問いには答えず、低く問い返してきた。
「貴殿が、蘇守義殿か?」
「俺が蘇然だが……お前は誰だ?」
蘇然の不審は頂点に達した。粗末な民百姓の麻衣を纏ってはいるが、その双眸の奥に宿る光は尋常の民のものではない。
「名乗る気がないなら、お引き取り願おうか。俺はお前など見覚えがないぞ」
男はしばし蘇然を観察していたが、やがて腹を決めたように深々と拱手した。
「無礼の段、平にご容赦願いたい。……某は姓を廖、名は化、字を元倹と申す」
「……廖化ッ!?」
蘇然は思わず息を呑んだ。
(廖化だと!? あの、三国志の終盤まで生き残って蜀漢を支え抜いた『蜀に前鋒無し、廖化を先鋒と為す』の、あの廖化かッ!?)
驚きを隠しつつ、蘇然は探るように口を開いた。
「いい度胸だな。黄巾の身で、一人洛陽の都へ乗り込んでくるとは」
廖化の顔色が一変した。思わず身構えたが、蘇然の瞳に悪意や捕縛の気配がなく、ただ奇妙な観察の色が宿っているのを見て、安堵のため息を吐いた。
「流石は蘇先生……」廖化は苦笑し、頭を下げた。
「大賢良師が生前に目をかけられたお方だけのことはある。天下に名もなき某の素性を、一目で見抜かれるとは……」
「まあな」蘇然は苦笑いした。(有名どころじゃない、歴史の教科書に載るレベルのレジェンドだよ……)
「して、俺に何の用だ?」
「大事がござらぬなら、軽々しく先生の門を叩きはいたしませぬ」
廖化は懐に手を差し入れ、一巻の古い書物を恭しく取り出すと、両手で捧げ持った。
「大賢良師が天へ昇られる間際、某らに固く遺言を残されたのです。『この書を必ずや、かの先生の御手へ届けよ』と」
「……本?」
蘇然は怪訝そうに受け取り、題字に目を落とした。
「——『奇門遁甲』……?」
蘇然は目を丸くして廖化を見つめた。
「これは何だ? なぜ張角が、俺なんかにこんなものを?」
蘇然が師の名を呼び捨てにしたのを聞き、廖化は二人がかつて余程の親交を結んでいたのだと誤解したのか、咎めることもなく答えた。
「某にも仔細は分かりかねます。ただ、この書は大賢良師の秘宝たる『太平要術天書』の一巻にございます。あの日、良師は天意に背いて漢室の気運を断ち切り、自らの寿命が尽き果てることを悟られておりました。ゆえに、この秘宝を託す相手として先生の名を挙げられたのです。……されど」
廖化は申し訳なさそうに言葉を濁した。
「良師が天の雷劫を受けて身罷られた刹那、天書は青き光を放って天空へ飛び去り、六巻に分裂して散り散りとなってしまいました。我らが死力を尽くして回収できたのはこの一巻のみ。残る五巻の行方は、杳として知れませぬ……」
(神話かよ……!)
蘇然は呆気にとられた。三国志の世界に、これほどオカルトめいた出来事が本当に実在するというのか?
「奇門遁甲、か……」
蘇然がパラパラとめくってみると、中には吉凶の占断法や厄除けの手引、兆しの読み解き方がびっしりと記されていた。
(おいおい……ただの占い本か? インチキ易者が飯の種にするようなやつじゃないのか?)
と、ある頁で蘇然の指が止まった。
そこには、天下の「気運」に関する詳細な理と、天命を強引に捻じ曲げるための秘術が記されていた。そして末尾の注釈を見た瞬間、蘇然の背筋が粟立った。
——『天に逆らいて為せば、必ずや天譴を招かん』。
(張角の野郎……本気でこの術を使って大漢の命脈を断ち切ったのか? だから雷に打たれて死んだってのか……!?)
青ざめたり赤らんだりする蘇然の様子を、廖化は不思議そうに見つめていた。
「どうか先生、大賢良師の遺品を大切にお扱いくださいますよう。長居は無用、これにて御免!」
「待て!」蘇然が呼び止めた。「これほどの至宝、本当に俺に置いていくのか?」
廖化は首を横に振った。
「某が差し上げるのではございませぬ。良師の遺命を果たしたまでにございます。『あの御方は仁義に厚く、常に天下の民を第一に案じておられる。この書を託すに、これ以上の器はおらぬ』と。一巻しかお渡しできぬ非礼、平にご容赦を」
「張角は……どこで俺を知ったんだ?」
ふいに、蘇然の脳裏に徐州での記憶が閃いた。
あの日、城外で出会った「張触、字は左残」と名乗った謎の老人。黄巾について、天下について、そして張角自身について、執拗に問いかけてきたあの男——。
(張触、左残……文字を合わせりゃ『張角』じゃねえかッ!)
「俺のバカ……!」蘇然は己の鈍感さを心の中で殴りつけた。本物の張角と差し向かいで喋っていたというのに、まるで気づいていなかったとは!
「では先生、ご自愛召されよ。良師が重んじた書なれば、必ずや深き理がございましょう。某はこれにて!」
「どこへ行く気だ?」
廖化は微笑んだ。「天下は広うございます。我ら黄巾の生き残る場所も、いずこかにありましょう」
「遠路はるばる大儀だった。少し休んでいかないか?」
「お心遣いだけで十分!」
廖化は力強く拱手すると、長衣の裾を翻し、疾風の如く去っていった。
廖化の去った後、蘇然は机の上の『奇門遁甲』を見つめて腕を組んだ。
現代の科学教育を受けた身としては、神仏の術など俄かには信じがたい。
(……本当に当たるのか? 試しにやってみるか)
好奇心旺盛なオタク気質が疼き、蘇然は書物の指示通りに三枚の銅銭を用意した。亀甲が見当たらなかったため、王允の書斎に忍び込んで机の引き出しから拝借してきた。
「よし……それじゃ、董卓が洛陽に入城するかどうかを占ってみるか!」
天地への祈祷など端折り、蘇然は亀甲の中に銅銭を放り込んでガラガラと振り始めた。
六回振って卦を立て、紙の上に墨で記録していく。
「……出たぞ」
書物をめくり、該当する卦の解説を探す。
そこへ、秀が湯呑みを載せた盆を手に入ってきた。
「夫君、退屈なさっておいでですの? 銅銭でお手玉などして……あら、それは何です?」
「ちょっと待って、触るな!」
蘇然は本から目を離さず、素早く文字を追った。
——『事、願と違う』。
蘇然の眉がピクリと跳ねた。
(思い通りにならん、だと……? どういう意味だ? 俺の願いは『董卓を洛陽に入れないこと』だ。だが董卓の野望は『洛陽に入城すること』だ。この「願いと違う」ってのは……俺の願いが外れるってことか? それとも董卓の野望が挫折するってことか!?)
主語がなければ、正反対の解釈が成り立ってしまう。
「チッ! 出鱈目本め!」
蘇然は舌打ちし、本を机へ放り出した。
(これだから現代の占い師も嫌いなんだよ! どっちにでも転ぶような曖昧なこと言いやがって! 張角の奴、こんなペテン本に騙されて人生狂わせたのかよ。雷に打たれたのだって、大木の下で雨宿りしながら占ってたに決まってる!)
秀が不思議そうに覗き込んできた。「夫君……何をしておいでなのです?」
「いや、何でもない」蘇然は気まずそうに頭を掻いた。「ところで秀、何か用か?」
秀はふっと目を細め、どこか冷ややかな、意味ありげな声音で告げた。
「妾身に用があるわけではございませんわ。蔡府の使者の方がみえまして、『蔡邕先生がお待ちかねゆえ、是非ともお越しを』とのことでしたので、夫君をお呼びに参っただけです」
「…………」
蘇然の顔が引きつった。
「あ、いや……蔡伯父上が学問の話でもしたいんだろうさ! 秀、変な勘違いをするなよ?」
「ふふっ!」秀は鈴を転がすように笑い、夫の狼狽えぶりを楽しんだ。
「早く行ってらっしゃいませ。当代の大儒をお待たせするなど、若輩の礼を失しますわ」
「は、はい! 行ってまいります!」
蘇然は逃げるように脱兎の如く走り去っていった。
「もう、夫君ったら……本を広げっぱなしにして……」
秀は呆れと愛おしさにため息をつき、机の上の散らかった書物を片付けようと手を伸ばした。
その指先が、放り出された古書に触れた瞬間——。
チクッ!
針で刺されたような鋭い痛みが走り、秀は思わず手を引っ込めた。
驚いて目を凝らすと、その書物の表紙の文字が一瞬だけ、仄かな青い燐光を放って脈動し、瞬く間に何事もなかったかのように静まり返った。
秀は胸元を押さえ、息を呑んでその題字を見つめた。
「奇門……遁甲……?」




