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三国夢  作者: 玄雨竜


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第七十四章 酒楼の志士と、毒士の密謀

司徒府に残された三人の美女がどのような火花を散らしたかはさておき、曹操に引っ張られるようにして屋敷を脱出した蘇然(そぜん)は、洛陽の大通り沿いにある酒楼へと落ち着き、手頃な料理をいくつか注文していた。


「して守義殿、某と密かに諮りたい大事とは何ぞや?」

曹操は自ら酒樽を引き寄せ、蘇然と己の盃へ並々と美酒を注ぎながら身を乗り出した。


「孟徳殿、董卓(とうたく)をご存じか?」


「董仲穎(とうちゅうえい)か?」

曹操は怪訝そうに目を丸くした。

「何進大将軍の幕下で耳にしたことはある。以前、黄巾討伐で無様に敗北したものの、十常侍へ手厚い賄賂をばら撒いて罪を免れた男だ。その董卓が大軍を率いて洛陽へ向かっておると聞くが……守義殿、あの男を憂慮しておられるのか?」


史実の暴虐をそのまま口にするわけにもいかず、蘇然は言葉を選びながら重々しく釘を刺した。

「……孟徳殿、あの男にはくれぐれも警戒した方がいい」


「何を案じることがあろう!」

曹操は快活に笑い飛ばした。

「今や某をはじめとする西園八校尉が洛陽の禁軍を掌握しておるのだ。もし董卓が少しでも野心を覗かせ軽挙妄動に及ぶならば、この曹孟徳が真っ先に首を刎ねてくれよう!」


蘇然はその言葉に少し胸を撫で下ろした。目の前にいるのは、他でもない三国時代を切り拓く未来の覇王・曹操なのだ。どれほど凶悪な董卓とて、この男が立ち塞がればあるいは……。


「……はぁ」

ふいに曹操が長い溜息を吐き出した。

「外患いまだ滅びざるに、まず内禍起こる、か……」


憂国の影を落とす曹操の横顔を見つめ、蘇然はかねてより抱いていた純粋な疑問を投げかけた。

「孟徳殿……貴殿の真の志とは何なのです?」


「我が志、か?」

曹操は自嘲気味に口元を歪め、杯を揺らした。

「笑わば笑え、守義殿。……某の輩(ともがら)は、まさに天下人を背負うべし!」


「——ハハハハハッ!!」


蘇然が言葉を返すより早く、隣の席から腹の底に響く豪快な笑い声が割り込んできた。

「その大言壮語、胸中に抱く野心は並大抵のものではござらんな!」


「……何者だ?」

蘇然が不審そうに振り返ると、隣卓の客が杯を置き、薄い髭を撫でながら悪戯っぽく微笑んでこちらを見ていた。


「無礼をご容赦願いたい……名乗りが遅れました。某は姓を荀、名は攸、字を公達と申し、目下は黄門侍郎の末席を汚しております。そちらの気骨あふれる英雄こそ、都でその名を轟かす曹孟徳殿とお見受けいたす……」

男は視線を蘇然へ転じ、深々と拱手した。

「そして蘇長史。某ら、先日の北邙山にてお顔を合わせておりますな。覚えておいでですかな?」


蘇然は記憶を手繰り寄せ、ハッと手を打った。

二帝を救出して重臣たちと合流したあの日、群臣の列の中から自分をまじまじと観察していたあの知性的な男か!

(荀攸……! 曹操の軍師として名高い、あの荀公達かッ!)


「お見苦しい放言をお聞かせいたしましたな」

曹操は苦笑しつつ、鷹揚に手招きして荀攸を同席へと招いた。


荀攸は遠慮することなく席を移し、居住まいを正して言った。

「蘇長史のお言葉、某も漏れ聞いておりました。朝中において皇甫嵩将軍ら歴戦の老臣たちも一様に『董卓は狼子野心、飼い慣らせぬ豺狼なり』と警戒を強めております。孟徳殿、決して侮ってはなりませぬぞ」


曹操は表情を引き締め、静かに頷いた。

かくして、三人の知恵者たちは美酒を酌み交わしながら天下の時局を論じ合い、刻の経つのも忘れて親交を深め合ったのであった。


すっかり夜も更け、千鳥足で司徒府へと辿り着いた蘇然は、屋敷の門前に佇む細身の影を見つけて一瞬で酔いが吹き飛んだ。


「し……秀!?」


「夫君、お帰りが遅いゆえ……妾身、心配になりまして……」


「こんな夜風の冷たいところで待つ奴があるか!」

蘇然は慌てて羽織っていた上着を脱ぎ、秀の華奢な肩へと優しく包み込んだ。

「待つなら屋敷の中で待ってろよ! ……悪かった、次からはもっと早く帰るからさ」


「伯父様が仰っておりましたわ。役人に付き合いは付き物、外で人脈を広げねば官吏の務めは果たせぬと。夫君、お気になさらないでくださいませ……」


「もういいから」

蘇然は秀の冷え切った手を握りしめ、眉をひそめて屋敷の中へと連れ戻した。

自室へ入るなり、蘇然はおずおずと切り出した。

「……それで、昼間のあれ、どうなったんだ? 喧嘩にはならなかったか?」


その問いを聞いた途端、秀はふっくらとした唇を尖らせ、恨めしげなジト目を夫へ向けた。

「夫君が外で次から次へと女子を引き寄せるものですから、妾身の胃がいくつあっても足りませんわ……」


「と、とんでもない!」蘇然は冷や汗を流した。「俺は何もしてないって! 蔡家の娘さんにいじめられなかったか?」


「まあ!」秀は恥ずかしそうに頬を染め、軽く夫の胸を叩いた。

「夫君は妾身が他所様のお嬢様をいじめるような悪女だとお思いですの?」


「いやいや、逆だよ! お前がいじめられてないか心配したんだ!」


秀は呆れたように息を吐き、銅鏡の前に座って髪飾りを外し始めた。

その艶やかな仕草に、蘇然の胸がトクンと跳ねる。すり寄って後ろから肩に手を置いた。

「秀……手伝おうか?」


「もう、悪党め……」

秀は恥じらいと愛おしさに頬を染めながら、夫の悪戯な手に身を委ねた。


ふと、蘇然がぽつりと呟いた。

「……なあ秀。いっそ徐州へ帰らないか?」


秀の手がピタリと止まった。振り返り、不思議そうに見つめてくる。

「なぜですの? まさか夫君、伯父様とお喧嘩でもなさいましたか?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど……」

秀の純真な瞳を見つめ、蘇然は言葉を濁した。

「ただの思いつきだよ。気にしないでくれ……」


秀は微かに眉をひそめ、寝台へ向かう夫の背中をじっと見つめて思案に耽っていた。


真夜中。闇に包まれた天井を見つめながら、蘇然は悶々と葛藤していた。

(もし……董卓が洛陽に入れなかったら、歴史はどうなるんだ?

少帝が廃位されず、袁紹や曹操が都を脱走して挙兵することもなければ、あの泥沼の群雄割拠の乱世そのものが起きないんじゃないか……?

だとしたら、俺がやるべきことはただ一つ、董卓を洛陽の城門の外で完全に食い止めることだ。

本来の歴史では董卓は「二帝を保護した功績」を笠に着て都へ乗り込んできた。だがその手柄は、すでに俺と王允が奪い取ってしまったんだ。董卓に入城の口実なんかないはずだ……!)


しかし、歴史の激流を捻じ曲げてしまえば、自分自身が持つ最大の武器——「未来の展開を知っている」というチート能力も完全に消滅してしまう。

(……乱世が来ないなら、それに越したことはない。だが、本当にそんな都合よくいくのか……?)

深い溜息とともに、蘇然は寝返りを打った。


翌朝。

「夫君、起きてくださいませ……」


「んぁ……? 今、何時だ……?」


「巳の刻(午前十時頃)……を少し過ぎたあたりでしょうか」

秀は自信なさげに答えた。目覚めてからも蘇然がぎゅっと抱きしめて離さなかったため、部屋の外に出て刻限を確かめることすらできなかったのだ。


「ヤバッ!! あのクソ爺がまたブチ切れるッ!!」

蘇然は飛び起きて衣服を引っ掛けた。

秀はくすくすと笑い声を漏らし、跪いて夫の帯を素早く結び直してやる。


「行ってくる!」

蘇然は秀の頬に力いっぱい口づけを落とすと、脱兎の如く部屋を飛び出していった。


その頃、董卓軍の先鋒は洛陽まであと二日の距離へと迫っていた。

時を同じくして、朝廷には「并州刺史・丁原の軍勢も間もなく到着する」との報が届き、緊張が高まっていた。


宮中の奥深く——董卓の手によって買収された宦官の残党が、何太后の御前へと進み出て、毒を含んだ密奏を囁きかけていた。

「太后様、丁原と董卓の双方が大軍を率いて洛陽へ迫っております。太后様はこれらをいかに処遇なさるお積もりでしょうか?」


何太后は怪訝そうに眉をひそめた。

「二人とも亡き兄・何進の命を受け、皇室を憂じて馳せ参じた忠臣ではないか。何の処遇が必要だと言うのだ」


「太后様……」側近は声を潜め、不吉に囁いた。

「王允が二帝を救出してより、その朝廷における声望は天を衝く勢いにございます。かつ朝中の長老元老たる身……もしこれに抑えが利かなくなれば、いずれ皇室に大いなる災いをもたらしましょう!」


「戯言を!」何太后は激怒した。「王司徒は哀家の二人の皇子を命がけで救ってくれた大忠臣ぞ! 再び不敬な讒言を吐くならば、ただではおかぬ!」


「太后様、お怒りを鎮めてお聞きください!」側近は平伏し、決定的な毒を注ぎ込んだ。

「……先帝が崩御あそばされる直前、一通の『密詔』を遺されたことをご存じでしょうか?」


ガシャンッ!


何太后の手から茶杯が滑り落ち、甲高い音を立てて砕けた。

「……な、何と書かれていたのだ?」


「——『皇子協を皇太子に立てよ』と」


「何だと……ッ!?」

何太后は寝台へ崩れ落ち、血の気を失った唇を震わせて激昂した。

「先帝め……哀家と弁への情愛を、これっぽっちも残しておられなかったというのかッ!」


側近はその動揺を見逃さず、一気に火に油を注いだ。

「王允という男の頑迷さは太后様もご承知のはず。何よりも先帝への忠誠を絶対とする男にございます。先帝はかの密詔を蹇碩へ託されましたが、蹇碩は討ち死にいたしました。されど、もしあの密詔の存在を王允が知ったならば……!」


「……密詔が、王允の手にあるとでも言うのか!?」


「万が一のことにございます。王允の愚忠をもってすれば、先帝の遺志を盾に皇子協様を擁立せんと図るやも知れませぬ」


「フン!」太后は虚勢を張った。「奴には兵権などない。何ができよう!」


「王允には兵権はございませぬ。……されど!」


「されど、何だッ!?」太后の背筋を冷たい汗が伝う。


「——并州刺史・丁原は、王允と肝胆相照らす無二の親友にございます!」


太后の息が止まった。

王允が朝議の席で事あるごとに「丁原こそは大漢の忠臣」と褒めそやしていた光景が、鮮やかに脳裏に蘇る。

「王允の老いぼれめ……外地の軍閥と結託しておったのかッ!? 哀家がその姪婿(蘇然)を取り立てて長史に任じてやった恩を仇で返しおって……ッ!!」


策が成ったと確信した側近は、恭しく頭を垂れて最後の仕上げにかかった。

「董卓は、亡き何進大将軍が最も信頼を寄せておられた腹心中の腹心。断じて太后様に弓引く真似はいたしませぬ。必ずや太后様の仰せのままに動く忠実なる盾となりましょう。されど王允は、己の功を誇り……」


「もうよい!」

何太后の瞳に、激しい猜疑と憎悪の炎が燃え盛った。

「直ちに勅命を下せ! 丁原の軍勢は洛陽城外百里の地に留め置き、一歩たりとも近づけるな! そして……董卓へ命じよ、一刻も早く洛陽へ入城せよとッ!!」


「御意にございます!」

側近は薄暗い笑みを浮かべ、音もなく退出していった。


太后は震える手で自らの胸を押さえ、幼き我が子の名を呻いた。

「弁よ……母がお前を守って見せる……誰にも皇位は渡さぬ……」


時を同じくして、洛陽を遠く離れた軍営——。

筋骨隆々とした巨漢が上半身を晒し、大鉢に注がれた酒を豪快に喉へと流し込んでいた。


「——ガハハハハッ!! 妙計、真に妙計よ!!」


その眼前で、一人の端正な風貌の青年が静かに微笑を浮かべていた。


「流石は儂の娘婿よ!」

巨漢——董卓は膝を打って高笑いし、身を乗り出した。

「李儒(りじゅ)、 あの愚鈍な女狐め、真にお前の策に嵌ると思うか?」


李儒は冷徹な眼差しを崩さず、淡々と笑みを深めた。

「手に入れたい欲望があれば、必ず失うことへの恐怖が生じるもの。何太后は何としても我が子を帝位に留め置きたいと執着しております。そのような女が、王允の正論を信じるはずがございませぬ。……小婿の見立てでは、王允が朝廷から干される日もそう遠くはありますまい」


「フン! 痛快なことよ! 王子師の老いぼれは朝廷で声望が高すぎて煙たかったのだ。奴が失脚すれば、洛陽を呑み込むのも造作ないわ! ……されど文優、儂らは荒くれ武者の集まりよ。都に入ったとて、名士どもを懐柔せねば政は動かせんぞ?」


李儒は涼やかに言い放った。

「朝廷の大儒は、何も王子師一人に限ったことではございませぬ」


「ガハハ! 違いない!」

董卓は満足そうに唸り、ふと首を傾げて尋ねた。

「時に文優、先帝が密詔を遺したなどという話を、貴様はどうやって嗅ぎつけたのだ?」


李儒は懐から一巻の錦の布を取り出し、卓の上へと広げてみせた。

「——その密詔は、他でもない小婿の手の中にございますゆえ」


「なに……!?」董卓が目を見張る。


「宦官の乱の折、小婿が進軍を緩めるよう献策した折に放った間者の一隊が、混乱を極める宮中から偶然にもこれを回収してまいりました。……天は我が軍に味方しております」


「よし、よくやった!」董卓が獰猛に笑った。「長引けば災いとなるだ、今すぐ灰にして証拠を隠滅し、王允に謀反の罪を着せてやれ!」


「フフフ……滅相もありませぬ」

李儒の双眸に、毒蛇の如き暗い燐光が宿った。

「そのような至宝を焼き捨てるなど、もったいないこと甚だしい。……この密詔には、いずれ少帝を廃し、天下を我が義父の足元にひざまずかせるための、絶大なる使い道が残されておりますゆえ……」

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