第七十三章 街角の邂逅と、修羅場の司徒府
この日の朝、およそ五千騎に及ぶ精鋭の騎兵が洛陽城外に忽然と姿を現した。
馬煙を巻き上げて地響きを立てるその威容に、城壁の守備兵たちは肝を冷やし、震え上がった。西涼の荒武者を思わせる屈強な騎兵が、五千騎も城外に迫ったのだから無理もない。
一方、司徒府の内院では——。
「ねえ悪党! 私とお姉様を連れて街へ遊びに連れてってよ!」
糜貞がパチパチと愛らしく目を瞬かせた。普段は悪態をつく相手でも、頼み事がある時は猫を撫でるように甘えてくるのがこの娘の習性である。
「行かん!」
蘇然は腕を組み、眉間に深い皺を刻んでけんもほろろに撥ねつけた。
「キーッ! 意地悪!」
「貞児妹さん……」秀が窘めるように糜貞の手を引き、夫の険しい横顔を覗き込んだ。
「夫君、何か気がかりなことでもおありですの?」
蘇然はただ無言で手を振り、ため息をついた。
秀は夫の顔色が酷く優れないのを察し、それ以上は詮索せず、糜貞を連れて静かに部屋を後にした。
(……ダメだ、このままじゃいかん。あのクソ爺に何としても釘を刺さなきゃならん。董卓がひとたび宮中に雪崩れ込んできたら、洛陽は地獄絵図になるぞ……。いや、いっそ秀を連れて今夜にでも夜逃げして徐州へ帰るか? だが……あの頑固親父を放り出して逃げるのも……)
二か月余り寝食を共にし、毎日のように小言を食らってきた王允の顔が脳裏をよぎる。
頑固で、封建的で、独善的で、皇室への愚忠に凝り固まった困った爺さんだが……自分と秀に向ける情愛の深さだけは本物だった。見捨てるには、情が湧きすぎていた。
そこへ下僕がやってきて頭を下げた。
「若様、旦那様がお呼びにございます」
「行かん!」
頭の中が破裂しそうな蘇然は、用向きも聞かずに怒鳴り散らした。下僕は奇妙な顔をしてすごすごと引き返していった。
(……やっぱり今夜にでも秀を連れて逃げ出すべきか……)
「若様、蔡家の令嬢様が……」
「会わんと言っておろうがッ!」
苛立ち紛れに叫び、ふと顔を上げた蘇然は、その場で凍りついた。
扉の外に、豪奢な衣装を纏った蔡昭姫が佇み、目を丸くして傷ついたようにこちらを見つめていたのだ。
「あ……いや! 申し訳ない、失礼仕った!」
蘇然は慌てて立ち上がり、バツが悪そうに頭を掻いた。
「考え事をしていて、取り込み中だったもので……」
「ふふ、いえ……」蔡琰は部屋に歩み入り、淑やかに微笑んだ。「てっきり某が守義殿に嫌われてしまったのかと案じましたわ」
「滅相もない、そんなことは……」
「本日参りましたのは、父の言いつけにございます。明後日、蔡府にて文人墨客を招いた集まりを催しますゆえ、もし守義殿のお時間が許すならば、是非お越しいただきたく存じまして。先日の軍略のお話……某には戦のことは解りませぬが、守義殿の深き学識には心底感銘を受けましたゆえ」
「あはは……どうもご丁寧に……」
蔡琰は上目遣いで蘇然を伺い、鈴を転がすような声で小さく囁いた。
「守義殿、某には清茶一杯すら振る舞っていただけないのですか?」
「えっ? あ、これはうっかり!」
蘇然は慌てて扉の外へ顔を出し、大声を張り上げた。
「おい、誰か! お茶を二杯持ってきてくれ!」
言われた下僕は「へいッ!」と弾かれたように走っていった。
蔡琰はその飾らない奔放な振る舞いを珍しそうに見つめ、くすりと笑って物思いに耽った。
その頃、洛陽の城門を三、五名の男たちが馬を連れてくぐり抜けていた。
「へえ、ここが洛陽かい。西涼の荒野に比べりゃ、見違えるほど栄えてやがるな」
男の一人が物珍しそうに辺りを見回す。
「当たり前だ!」連れの男が鼻で笑った。「西涼の田舎と帝都を比べる奴があるか……ん?」
男は不意に足を止め、眉を吊り上げて街道の向こうを凝視した。その唇が激しく震える。
「……ば、馬鹿な。あり得るはずが……」
「おい、恭正? どうしたんだ?」
同じ頃、城内の目抜き通り——。
「もう、秀お姉様ったら! あの悪党、私たちを連れてってくれないくせに、お姉様はあいつの着物を縫うための生地を買いに来るなんて! 凍えて風邪でも引けばいいのに!」
糜貞は不満たらたらで口を尖らせていた。
「貞児妹さん、夫君には夫君のお役目があるのですから……」
秀は優しく微笑み、妹分を宥めた。ふと、強い視線を感じて街道の脇へ目をやる。
そこには、一人のたくましい武骨な男が立ち尽くし、魂を抜かれたように自分を見つめていた。どこか見覚えのある面影に、秀は首を傾げた。
「また女たらしよ! 秀お姉様、早く行きましょう!」
糜貞が袖を引っ張る。
「ええ……」
秀は振り返りつつ、微かに眉をひそめた。
(あの方……どこかでお見かけしたような……一体、誰だったかしら?)
「おい、恭正ッ!」
連れの男が肩を揺すり、ようやく我に返った男は、夢から覚めたように呻いた。
「似すぎている……」
「何が似てるってんだ? まさか女に見惚れてたのか? 諦めろよ、あの髪の結い方を見ろ、ありゃ人妻だぞ。ハハハ、お前にお鉢は回ってこねえよ!」
「……人妻だと?」
男は先ほどの美しい後ろ姿を反芻した。確かに豪奢な黒髪は淑やかに結い上げられ、若妻の装いであった。
「そ、そんな馬鹿な……。一体どういうことだ……?」
男は呆然と立ち尽くし、消え去った影をいつまでも見つめていた。
街道を歩きながら、糜貞が不思議そうに尋ねた。
「秀お姉様、さっきから何度も振り返って、何を気にしてるの?」
「妙なのよ……」秀は眉根を寄せ、記憶の糸を手繰り寄せた。「あのお方、幼い頃に故郷で見かけた誰かにとてもよく似ていて……」
「え? お姉様は洛陽の生まれじゃないの?」
「違うのよ」秀は微笑んで明かした。「妾身は幼い頃、父に従って并州で暮らしていたの。父が洛陽に召し出されてから都へ移り住んだのよ。……ああ、そうだわ! あのお方だわ!」
「えっ!?」糜貞が目を輝かせた。「幼馴染み!? それとも……昔のいい人!? ふふん、あの悪党に言いつけてやるんだから!」
「言いつけても構いませんよ」秀はおおらかに微笑んだ。「子供の頃の他愛のない思い出話に過ぎませんもの……」
そう言いながらも、秀の脳裏には、かつて并州の草原を駆けていた背の高い少年の姿がふっと浮かんでは消えた。
(歳月は流れたけれど……あの方は今、どうしておられるかしら……)
「ふふーん!」糜貞が意地悪く笑う。「秀お姉様が誰かを思い出してるってあの悪党に教えて、少しは焦らせてやらないとね!」
「もう、妹さんったら」秀はくすくすと笑い、糜貞の頭を軽く小突いた。
「妾身は蘇家の正妻ですよ。お姉様を怒らせたら承知しませんからね?」
「うっ……」糜貞は顔を真っ赤にして口を尖らせた。「もう秀お姉様とお話ししてあげないんだから!」
司徒府の一室——。
「な……衛仲道ッ!?」
蘇然の口から素っ頓狂な叫びが飛び出した。
蔡琰は目を瞬かせ、頷いた。
「ええ、河東の衛家の若君にございます。父がお招きした客人の一人ですが……ご存じなのですか?」
蘇然は複雑な目で蔡琰を見つめた。
(歴史上、この薄幸の才女が最初に嫁ぎ、すぐに病死して未亡人に追いやったあの病弱な短命男か……! まさかその見合いの場に俺を呼ぼうってのか!?)
蔡琰はその奇妙な眼差しに耐えかね、恥じらうように俯いた。
「守義殿……明後日の件、いかがいたしましょう……?」
「いやあ、それは……」蘇然は頭を抱えた。
「もしご迷惑であれば、無理には……」蔡琰が哀しげに唇を噛む。
「あ、そうだ!」蘇然は逃げ道を思いついて手を打った。「蔡お嬢さん、まさか客人の一軒一軒を自ら回って招待してるんじゃないでしょうね? 招待状を送れば済む話じゃありませんか」
蔡琰は言葉に詰まった。
(一軒一軒回るはずがございません……父上から直々に『お前が迎えに行け』と命じられたのは、守義殿、貴方様ただ一人なのですから……)
弁明しようと口を開きかけた、その時であった。
「悪党! 聞きなさいよ、今日秀お姉様が……」
意気揚々と駆け込んできた糜貞が、部屋の中に佇む美女の姿を見るなり、ピタリと動きを止めた。
「貞児妹さん、悪戯が過ぎますよ……」
誤解を解こうと後から入ってきた秀もまた、部屋の光景を目にして息を呑んだ。
蘇然は弾かれたように跳ね起き、秀の元へ駆け寄って手を取った。
「あ、秀! こちらは蔡伯父上のご令嬢、蔡琰お嬢さんだ!」
秀はほんのり唇を尖らせ、幽怨の籠もったジト目を夫へ向けた。蘇然の胃がきりきりと痛む。
「父上の名代として、文人たちの集まりの招待状を届けに来てくださっただけなんだよ!」
「あら……そうでしたの」
秀は小さく舌を出し、愛らしく微笑んで頭を下げた。
「蔡家の妹さん、初めまして。蘇然の妻の秀と申します」
「昭姫とお呼びください……」
蔡琰は秀の姿をまじまじと見つめ、息を呑んだ。父から「蘇然にはすでに妻がいる」と聞かされていたが、これほどの絶世の気品と美貌を兼ね備えた女性だとは想像だにしていなかった。
秀の凛とした揺るぎない眼差しに気圧され、蔡琰は知らず知らずのうちに俯いてしまった。
「妾身の方が一つ年上のようですわね」秀の瞳に微かな誇らしさが宿る。「よろしければ、秀姉様とお呼びになって……」
(夫君ったら、外へ出るたびにどうしてこうも綺麗な女子を引き寄せてしまうのかしら……いけません、嫉妬は美徳に反しますわ、嫉妬しては……)と秀は心の中で必死に言い聞かせた。
「ちょっと! 私もいるんだけど!」糜貞が腕を組んで割り込んできた。
蘇然は肩をすくめ、蔡琰に言った。「こいつは俺の書童だ。小娘とでも呼んでやってくれ」
「誰が書童よッ!」糜貞が真っ赤になって怒鳴る。
(やれやれ……今夜は秀のご機嫌取りに全力を尽くさねばならんな……)と蘇然が頭を抱えていた、その時。
——バァァンッ!!
「守義ッ!!」
怒髪天を衝く勢いで王允が扉を蹴破らんばかりに踏み込んできた。
「老夫の呼び出しを無視するとは何事……」
「伯父様、ご機嫌麗しゅう……」
秀と蔡琰が揃って優雅に一礼を捧げ、糜貞は慌てて柱の陰へ隠れた。
「お、おお……」
王允の怒りの形相が凍りついた。部屋に揃った二大美女を見比べ、咳払いを連発する。
「昭姫殿、父上の使者か……? コホン! 守義、老夫は何も口出しせんからな! お主自身の腹で決めよ!」
その言葉に、蔡琰は耳まで真っ赤にして俯き、秀は静かに唇を噛み締めた。
失言に気づいた王允は居心地悪そうに視線を泳がせ、吐き捨てるように言い残して立ち去った。
「……後で儂の部屋へ来い! 大事な話がある!」
王允が去った後の部屋には、息が詰まるような異様な沈黙が降り積もった。
才色兼備の誇りを胸に秘めた蔡琰と、正妻の座を揺るがせにしない秀の静かな視線が火花を散らし、糜貞は面白そうに蘇然へ殺気ある視線を送っている。
そこへ——。
「守義殿……!」
「また誰だッ!!」
我慢の限界に達した蘇然が絶叫した。部屋の三人の美女が一斉に目を丸くする。
「も、孟徳……!?」
扉の前に立ち尽くしていたのは、曹操であった。部屋の殺伐とした空気と絶世の美女たちの居並ぶ異様な光景に圧倒され、名将・曹孟徳が珍しくたじろいでいた。
「……し、守義殿、取り込み中なら明日にでも出直すが……」
「とんでもない! 待ってくれ孟徳兄貴ッ!」
これ幸いと地獄の修羅場から脱出すべく、蘇然は曹操の腕をガッチリと掴んで引っ張った。
「秀、俺は孟徳殿と国家の重大事を論じ合ってこねばならん! 蔡お嬢様のおもてなしを頼んだぞ!」
「夫君、いってらっしゃいませ。よしなに……」
秀の冷ややかに澄んだ笑顔を背中に浴びながら、蘇然は転がるように司徒府を脱出した。
通りへ飛び出すなり、曹操が吹き出した。
「ハハハ! この曹孟徳を盾に使うとは、いい度胸ではないか、守義殿!」
「命の恩人ですよ、孟徳殿……」蘇然は冷や汗を拭い、息を吐いた。
「ただで飯を恵んでもらおうと立ち寄っただけなのだがな」曹操が悪戯っぽく笑う。
「奢りますとも! 美酒でも何でも好きなだけ召し上がってください!」
蘇然は苦笑いを浮かべ、ふと真剣な眼差しで曹操を見据えた。
「……それと孟徳殿。実はお耳に入れておかねばならぬ、天下の重大事がござる」
曹操は蘇然のただならぬ気迫を鋭く感じ取り、即座に笑みを収めた。
「……相分かった。場所を変えよう!」




