第七十二章 百家の論客と、迫り来る魔王の影
それからの二日間、蘇然にとって夢のような極楽生活が幕を開けた。
都の政局は混迷を極めており、朝廷は王允のような元老の重鎮を喉から手が出るほど必要としていた。そのため王允は毎朝、星の瞬くうちから宮中へと登庁していったのだ。
書斎を出るたび、王允の足は無意識のうちに蘇然と秀の寝室へと向かいかけた。だが「……いかんいかん、あやつらはまだ夢の中か」と眉をひそめて思い直し、ため息をついて宮中へと急ぐのが日課となっていた。
一方の蘇然はといえば——日が天高く昇るまで惰眠を貪り、目覚めれば隣には息を呑むほど美しい愛妻が寄り添っている。これ以上ない至福の朝であった。
——そして午後。
宮廷の執務室において、王允の視線の先にいた蘇然は、やはりいつもの定位置にいた。
机の上に広げられた山積みの書類を前に、舟を漕ぎ、コクリコクリと無防備に居眠りを貪っている。
(天なる神よ……! ここは皇宮ぞ! 司徒が天下の政務を裁可する神聖なる政庁ぞ! 儂の私邸の書斎と勘違いしておるのかッ!?)
怒髪天を衝いた王允は、大股で歩み寄るや、手にしていた分厚い竹簡の束を蘇然の脳天へパコンッ!と叩き落とした。
「痛っ……!?」
蘇然は目をしばたたかせ、よだれを拭いながら呑気に呟いた。
「……もう定時ですか? じゃ、帰りましょっか……ふあぁ」
「貴様という奴はッ!」
王允は怒る気力すら奪われ、呆れ果てて手元の記録簿を一冊放り投げた。
「これに目を通し、所見の注釈を入れてみよ!」
蘇然は部屋の左右を見回し、肩を落とした。
(ちぇっ……まだ定時前かよ。古代の時間の流れは遅すぎるんだよな……)
「伯父上、これ何ですか?」
「読んでから申せ! 後で儂が自ら検分してやる。粗忽な見落とし程度なら大目に見るが、心ここに非ずの手抜きを見せてみろ、ただではおかんぞ!」
「はいはい、分かりましたよ」
ため息をつき、蘇然は竹簡を広げて目を走らせた。
『……故に礼の教化や微にして、其の邪を止むるや未だ形あらざるにおいてす……今、特に請う……』
蘇然は眉をひそめ、王允を見上げた。「これ、何の話です?」
「青州刺史からの上奏文だ。民の『教化』について論じておる。……守義、お主に『教化』の理が分かるか?」
「教化?」蘇然は少し考え、答えた。「つまり……民衆への教育のことですか?」
王允は満足げに頷いた。
「然り。忠君愛国、君父を敬う心を養うことだ……ああ! 今日の天下がかくも乱れ果てたのも、この教化の道が廃れたことに一因がある!」
「ちょっと待った」蘇然が話を遮った。
「先日の宮中の動乱は、ただの権力争いが生んだ私利私欲の産物でしょう? 黄巾の乱だって、朝廷の無茶な重税と失政が原因であって……」
「口を慎めッ!」
王允は青筋を立てて低く一喝し、執務室の外を油断なく睨みつけた。
「ここをどこだと心得る! 滅多な戯言を口走るでない!」
蘇然はぎょっとして息を呑み、探るように呟いた。
「……本当のことすら言っちゃいけない場所なんですか?」
「……言えぬ!」
蘇然は手にしていた竹簡を卓へ放り出した。
「だったら、こんな上奏文に何の意味があるんです? 何が教化ですか!」
「教化とは、師を尊び道を重んじ、君を忠とし国を愛することだ! いずれお主に儒家の経典を山ほど貸し与えてやるゆえ、骨身に刻むまで熟読せよ!」
「儒家……?」
蘇然の脳裏に、現代の大学で学んだ歴史の知識が蘇った。かつて前漢の武帝が中央集権を完成させるため、「百家を罷黜し、儒術を独尊す」として他の学派を弾圧し、儒教を国教化したあの政策である。
すべてが腑に落ちた蘇然は、嘲笑を漏らした。
「それが教化ですって? ……要するに、支配者層が民を従順に飼いならすための都合のいい道具じゃないですか」
ガシャーーーンッ!!
衝撃のあまり、王允の手から茶杯が滑り落ち、床で砕け散った。
老臣は目を剥き、雷に打たれたように蘇然を凝視した。全身を激震が駆け抜ける。
(な……何という恐るべき慧眼だ! 物事の本質を一瞬で見抜くこの知力……天下広しと言えど、誰がこの若造に及ぼうか!?)
王允は震える手で白髭を撫で、動揺を抑えながら呟いた。
「そ、それは……天下を治めるための大計であって……」
「愚民政策ですよ、要するに」蘇然は淡々と言い放った。
「別に儒家を毛嫌いしてるわけじゃありませんが、一つの思想だけで国家の全てを完璧に治められるはずがないでしょう。必ず歪みや欠陥が出る。だからこそ、諸子百家のあらゆる思想を吟味して、いいとこ取りを模索すべきなんです」
「……お主、兵家の道を修めておるのか? それとも、法家か?」
「どれも専門ってわけじゃありませんが、齧った程度には」蘇然は腕を組んだ。
「兵家は外敵を防ぐ剣であり、法家は国内を統制する盾だ。違いなんて用途の差ですよ」
「ならば……墨家はどうなのだ?」王允が試すように鼻を鳴らした。
「国を真に富ませる強国の道(科学技術と実利の思想)ですよ!」蘇然は即座に言い切った。
王允の顔色が一変した。呆然と立ち尽くし、呻くように呟く。
「……儂は、お主を底知れぬほど見くびっておったようだな……」
老人は深い苦笑を浮かべ、自らの老いを呪うように首を振った。
「お主の言う理を、儂とて知らぬわけではない。だが、世の習いとは重いものだ。大漢が儒術を尊んでより四百年、今さら……」
「どうして改革をやらないんです?」
「祖宗の法ぞ!」王允は色をなした。「先祖代々の国法を、軽々しく変えられるはずがなかろう!」
「世の中は刻一刻と激変してるんですよ! 腐った旧習にしがみついて儒教の空論ばかり唱えていたら、大漢の命脈なんてあっという間に……」
「黙れッ!!」
王允が鋭く制止した。胸を押さえ、荒い息を吐きながら言った。
「……わしに、じっくり考えさせよ」
蘇然は肩をすくめ、冷めた茶を喉に流し込んだ。
この頑固な老臣がどれほど漢室に骨を埋める覚悟でいるかを知っているからこそ、本音を口にしたのだ。聞き入れないなら、それ以上押し付ける気はなかった。
「墨家の実利、老夫とて重々承知しておる。だがな……」王允は苦笑いを浮かべ、蘇然を見据えた。「まさかお主、儂に商鞅のような改革をやれと唆す気ではあるまいな?」
「改革をやろうがやるまいが、俺の知ったことじゃありませんよ」
王允は呆れたように蘇然を眺め、頭を振った。
「そのような大それた空論をこね回す暇があるなら、守義よ……迫り来る董卓をいかにして退けるか、その知恵を絞らんか!」
「……ど、董卓!?」
蘇然の目が限界まで見開かれた。全身の血が逆流する。
「む? お主に話しておらんかったか?」
王允は首を傾げ、ハッと手を打った。
「そうであった! 昨日話そうとしたら、お主が屁理屈で話を逸らすものだから、すっかり失念しておったわ!」
「おいクソ爺!!」蘇然は机を叩いて身を乗り出した。「普段は嫌味なほど記憶力が抜群なくせに、なんで一番大事なことを忘れてんだよッ!? で……その董卓は、あとどれくらいで洛陽に着くんだ!?」
王允は青ざめる蘇然を怪訝そうに見つめ、ゆったりと答えた。
「二万の軍勢が街道を進んでおるが……先鋒の騎馬隊は、あと数日のうちに洛陽の城外へ至ろう。守義、なぜそこまで狼狽えるのだ?」
蘇然は冷や汗を滝のように流した。
(董卓といえば、三国志演義でも正史でも、虐殺、略奪、放火、美女の凌辱を欲しいままにした史上最悪の暴君だぞ……! そんな怪物が洛陽になだれ込んできたら……秀はどうなる!?)
「落ち着け!」王允は茶を差し出し、眉を寄せた。「朝中の重臣たちが騒ぎ立てるように、董卓は真に良からぬ野心を抱いておるのか?」
「当たり前だろッ!!」蘇然は必死に董卓の入城を阻止すべく捲し立てた。
「董卓は飼い慣らせない豺狼です! 進軍の速度をわざと緩めているのは、洛陽が血で血を洗って自滅するのを待ち、労せずして都を丸呑みにする『漁夫の利』を狙っているからですよ!」
「まことか……!?」
王允の顔から血の気が引いた。机を叩いて天を仰ぐ。
「伯喈殿……! 貴殿は儂に何という取り返しのつかぬ過ちを犯させたのだ!」
「……え?」蘇然が目を瞬かせた。「蔡伯父上が何か関係あるんですか?」
「守義は知るまいが!」王允は焦燥に顔を歪めた。
「重臣たちが董卓を警戒するゆえ、老夫も一度は董卓へ『西涼へ引き返せ』と命じ、同時に并州の丁原へ救援を求めたのだ。……だが数日前、董卓から一通の上奏文が届いてな。『皇室の危機を憂い、洛陽の治安を守るため軍を遠巻きに駐屯させる』と殊勝な言葉が並んでおった。
老夫が疑っておったところへ、蔡伯喈殿がやって来て申されたのだ。『某はかつて董卓と浅からぬ交誼があったが、あの男は至って情に厚く誠実な武人である』とな……。都の兵力が手薄なこともあり、老夫は……董卓の上奏を認めて都への駐屯を許してしまったのだ!」
「…………」
蘇然は生唾を飲み込んだ。
(蔡邕め……絵に描いたようなお人好しのインテリが、稀代のタヌキ親父にコロリと騙されやがったな……!)
「悔やんでも後の祭りよ……」王允は苦渋に満ちた声を絞り出した。
「今や一刻も早く丁原の到着を待つほかない。洛陽の守備軍は高々二万余り。董卓は二十万と号しておるが、実勢は五万程度と見る。それでも脅威だ! だが、丁原の率いる三万の并州精鋭が合流すれば、洛陽の軍勢と合わせて五万。董卓とて軽挙妄動はできまい!」
王允が危機感を共有してくれたことに胸を撫で下ろしつつ、蘇然は以前から気になっていた疑問を口にした。
「伯父上、ここ数日ずっとその『丁原』って名前を出してますけど、一体どんな人物なんです?」
「ハハ! 大漢に尽くす無二の忠義の士よ! お主も見習うがよい。并州刺史、姓は丁、名は原、字を建陽と申す。昔から老夫と深く気脈を通じた男ゆえ、その人となりは儂が保証する!」
「丁……丁原……!?」
蘇然の思考が、ガラガラと音を立てて崩壊した。
丁原……并州刺史……。
ということは……あの三国志最強にして最凶の武神……丁原の義理の息子……。
——呂布、呂奉先が、洛陽へやって来るのかッ!?
(嘘だろ……!? 董卓だけでも胃に穴が空きそうなのに、その上呂布まで来るのかよ!?)
しかも、自分の妻はあの貂蝉(秀)なのだ。
歴史の歯車が、最悪の役者を揃えて自分の首を絞めに集結しようとしているではないか!
「守義? おい、守義!」
魂の抜けたように青ざめて震える蘇然を見て、王允が慌てて肩を揺すった。
「どうしたのだ、守義!? しっかりせい!」
「ぼ……某、急激に胸騒ぎがいたしまして……! 伯父上、どうか先に屋敷へ帰らせてください!」
王允は蘇然の土気色の顔色を見て、本気で心配そうに眉をひそめた。
「風邪でも召したか? よい、急ぎ戻って休むがよい! 秀児に滋養のある生薬を煎じてもらえ。お主のその貧弱な体では……おい、守義! 儂の話はまだ終わって……やれやれ!」
挨拶もそこそこに、脱兎の如く宮殿を飛び出していく姪婿の背中を見送り、王允は重いため息をついた。
卓に戻り、深く目を閉じる。
あの聡明な青年がこれほどまでに取り乱したのだ。董卓の脅威は、老臣の想像を遥かに超えているに違いなかった。
「伯喈殿……貴殿の善意が、大漢を破滅へと導かねばよいのだが……」




