第七十章 老臣の叱責と、乱を呼ぶ外兵の策
「伯父上ッ!」
「まだ何か申し開きがあるのか?」
王允は眉根を寄せ、不満げに言った。
「よもや、また老夫に経書の疑問でも解いてほしいと願うつもりではあるまいな?」
(誰がお前の講義なんか聞くかよ!)
蘇然は冷や汗を拭い、居住まいを正して訴え出た。
「伯父上、お聞き分けください。某は元より怠惰を好む無頼の身。天下の名声など端から眼中にありませぬ。某が生涯に望むものなど、ただ秀と手を取り合い、平穏無事に添い遂げること……それだけにございます!」
バァァンッ!!
王允は手にしていた茶杯を激しく卓へ叩きつけた。青筋を立てて怒鳴りつける。
「言語道断ッ! 呆れ果てた戯言を抜かすな! 儂がこの二か月、お主に叩き込んできた教えをことごとく聞き流しておったのか!? 大漢の臣民として国に報いるべき大義はさておくとしてもだ! 大丈夫がこの乱世に生を受けながら、なぜ陋巷に縮こまってその日暮らしの無為を貪ろうとするのだ! 名声も功名も立てず、青史に名を刻むこともなく、後の世の誰からも忘れ去られる……そんな生き様に、一体何の意義があるというのだッ!!」
蘇然は薄く笑みをもらし、拱手して真っ直ぐ見据え返した。
「包み隠さず本心を申し上げましょう。伯父上は某に厳しく当たり、某も時に無礼を働きましたが、伯父上が某の才を惜しんでくださる深き慈愛は痛いほど分かっております。されど、我が志はただそこにはないのです。権力にも名声にも未練などありませぬ。秀を妻として娶れたこと、これこそが某の生涯の至宝であり、我が人生はそれだけで満ち足りておるのです!」
「貴様は……ッ!」
王允は息を詰まらせ、怒髪天を衝く勢いで蘇然を射抜いた。だが蘇然は微塵も目を逸らさず、泰然と視線を受け止める。
「……はぁ」
張り詰めた沈黙の末、王允は深く、痛ましげな息を吐き出して首を振った。
「もし儂が田舎の片隅に暮らすただの老いぼれ百姓であったなら、お主のその言葉を聞いてどれほど安堵したことか……。されど、儂は大漢の司徒なのだ! お主は儂の姪婿であり、刁家の婿なのだぞ! そのような逃げ腰を許せるはずがなかろう! 亡き秀児の父親が生きてこの腑抜けた言を聞いたなら、誰が好き好んで愛娘をお主のような者に嫁がせるものかッ!」
王允の眼差しに、怒りと深い愛惜が入り混じる。
「守義よ、日頃の締め付けを恨むな。お主には才がある! 天下一円を見渡しても稀なる大才……国士の器用なのだ! 時にその炯眼は、宮中で百戦錬磨の老夫すら遠く及ばぬほどだ。されど、お主はまだ弱冠を過ぎたばかりで世俗の泥水を呑んでおらん。世の条理を『知って』はいても、その真髄を『悟って』はおらぬのだ!」
蘇然は口を噤んだ。
「これほどの美玉が、己の怠惰ゆえに朽ち果てるのを看過できるものか! お主の言はことごとく甘えであり、過ちなのだ。男児が世に立つ以上、己の安楽のみを願ってどうする。お主の亡き父や先祖とて、一族の門戸を光り輝かせることを願っておったはずだ……」
(いや、そこは完全に勘違いだな。うちの親父も現代の母さんも、俺が無事に飯食って生きてりゃ十分だってタイプだったぞ)
蘇然が反論しようと顔を上げた瞬間、王允の鋭い一喝がその先手を打った。
「世の人の心の険悪さ、お主とて骨身にしみて知っておるはずだ! だが、真の恐ろしさを悟っておらぬ! もしお主に力も後ろ盾もなければ、秀児と寄り添うどころか、生き延びることすら適わぬのだぞ!
秀児のあの類いまれなる美貌は、お主にとって無上の果報であると同時に、天下の豺狼を引き寄せる禍根でもあるのだ! 秀児が武芸に通じておることは儂も知っておる。されどお主、男の身でありながら、か弱い妻の剣の腕に縋って生き長らえるつもりか!? もしそうであるならば、儂は今この場で、お主を姪婿の縁から叩き出してやるわッ!」
蘇然の背筋に、冷たい刃を突き立てられたような悪寒が走った。
(……そうだ。ここは情け容赦のない三国の乱世なのだ)
現代のように警察も法も守ってはくれない。自分は腕っぷしが強いわけでもないのに、どうやって秀を守り抜くというのか。秀は確かに強い。だが、万が一のことがあれば……? 否、万が一がなくとも、愛する妻を盾にして自分が背後に隠れるような生き方を、自分自身のプライドが許せるはずがなかった。
青ざめ、赤らみ、百面相のように表情を歪める蘇然を見届け、王允も胸を撫で下ろした。これほどの俊英をみすみす腐らせるわけにはいかないのだ。
老臣は好機を逃さず、畳み掛けるように語気を強めた。
「名声を求めず、仕官を望まぬその潔癖さ、老夫とて本来なら嫌いではない。されど世事は濁流なのだ。お主、先日の宴席では大層な口ぶりで『天下の民』の苦しみを憂いてみせたではないか! それが今になって、自分一人の安楽に逃げ込むというのか!?」
「そ、それは……『窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす(己が身を立てられぬ時は自らの徳を修め、栄達した時にこそ天下を救う)』って孟子も言ってるじゃないですか……」
「貴様という奴はッ!」
王允はあまりの屁理屈に怒りを通り越して吹き出し、蘇然を指差して呆れ果てた。
「書を読まぬと言い張りながら、齧った知識をすべて都合のよい言い訳に使いおって! 儂の寿命を縮める気かッ!」
「まあまあ、落ち着いて……お茶でも飲んでくださいよ」蘇然は居心地悪そうに頭を掻いた。
「フンッ!」王允は鼻を鳴らし、乱暴に茶を啜った。
「老夫の申した理、骨身に刻んだか?」
蘇然は力なく項垂れ、頷くしかなかった。
「守義、お主はまだ若いのだ。もっと遠くを見据えよ。老いぼれた儂より志が小さくてどうする!」
「はいはい、仰る通りでございますよ……」
蘇然はため息をつき、王允の顔色を窺いながらそっと切り出した。
「伯父上の仰ることはごもっともです。……ただ、その、蔡伯父上の娘さんの件ですが……あれはナシってことでどうでしょう? いっそ別の賭けにしませんか? 例えば……明日からの朝の読書を、巳の刻(午前十時頃)からにする、とか!」
「巳の刻だと!?」
王允は目を丸くし、呆気に取られたが、ふと何かを思い至ったように怪訝な視線を蘇然へ向けた。
「……おや? 老夫は甚だ解せぬのだが。伯喈殿の娘は才色兼備の申し分なき女子ぞ。なぜお主はそこまで頑なに固辞するのだ? やはり、秀児への気兼ねゆえか?」
「それも理由の一つです!」蘇然は頷いた。「互いに情も湧いておらぬ男女が、形ばかり寄り添ったところで碌なことになりませんからね」
「ハハハ!」王允は楽しげに笑い声を上げた。
「情などというものは、娶った後にじっくり育めばよいではないか! 何の障りがあろう? それが心配なら、折を見て蔡府へ通い、親睦を深めれば済む話だ。秀児のことは案ずるな。あの子は儂の大事な姪だ、お主のその誠実な心遣いだけで十分に喜ぼう。大丈夫たる者、三妻四妾を娶って何が悪い!」
そう言い放った後、王允は蘇然のひょろりとした体躯をつま先から頭まで眺め回し、眉を寄せて呟いた。
「……まあ、お主のその貧弱な体つきで、二人の女子を相手に精力が保つかどうかは甚だ疑問だがな」
「…………」
(このスケベ親父、サラッととんでもないセクハラをぶっ込んできやがったな……!)
蘇然の顔が見事に引きつった。
その時、廊下の向こうから家僕の慌ただしい声が響いた。
「旦那様! 蔡邕先生がお目通りを求めておいでです!」
「おお!」王允は相好を崩した。「噂をすれば何とやらだ。疾くお通しせよ!」
間もなく、衣服を乱した蔡邕が息せき切って書斎へ駆け込んできた。その顔には隠しようのない焦燥が張り付いている。
「伯喈殿、ちょうどお主の噂をしておったところ……」
「子師殿! 雑談などしておる場合ではござらん、一大事ですぞ!」
蔡邕の悲痛な叫びに、王允の表情が一瞬にして引き締まった。
「何事だ!?」
「先ほど宮中より急報が入りました! 何進の奴め、董太后を河間(幽州方面)へと追放処分に処したとのこと!」
王允の顔から血の気が引いた。重々しく机を叩き、呻く。
「董太后を……ああ! 命の灯火も風前の灯ぞ……!」
「いかがいたしましょう!」蔡邕は狼狽を隠せない。「何進の専横、もはや目に余るものがございます!」
「伯喈殿、落ち着かれよ」王允は白髭を撫で、自らを落ち着かせるように諭した。
「『将にこれを取らんと欲すれば、必ず固くこれを与えよ』と言うではないか。何進が暴挙を重ねれば重ねるほど、張譲らの追い詰められた焦燥は頂点に達する。我らはただ、高みより好機を窺えばよいのです」
「されど、董太后のお命が……無念!」
蔡邕は天を仰いで嘆息し、ふと思い直したように尋ねた。
「時に子師殿、先ほど某の噂をしておられたと申されたが、一体何事ですかな?」
「ハハハ! 実はこの小僧と賭けをしておりましてな!」
王允は機嫌よく、先ほど交わした賭けの全貌を洗いざらい友へ明かした。
蔡邕は驚愕して目を丸くし、感嘆の声を漏らした。
「なんと……! 何進の横死を見抜くとは、真に奇才、希代の知恵者であられるな!」
王允は我が意を得たりとばかりに蘇然を見やり、先ほどまでの激怒など綺麗さっぱり忘れたかのように、満足げな笑みを浮かべてみせた。
「そういう次第ゆえ、我が蔡府にも百余名の屈強な護衛が控えております。いざという時は子師殿に合流させ、朝中の有志を糾合して共に皇室を支えましょうぞ!」
蔡邕は力強く請け負い、それから蘇然の方を向いて、どこか意味深な笑みを投げかけた。
「守義殿の仰る『男女の情』という言葉、実に風雅で型破りな響きでござるな。……よろしい、お主と子師殿の賭けの結末を待つといたしましょう。平生、暇があればいつでも我が屋敷へ遊びにいらっしゃい。娘も喜ぶはずですからな……」
蘇然の全身から、嫌な汗が噴き出した。
(おいおい、親父公認の婚活ルートが外堀から埋まりかけてるじゃないか……!)
それから数日のうちに、洛陽の都を震撼させる凶報が駆け巡った。
——河間へ護送される途上において、董太后が急死したというのだ。実質的な毒殺であることは、市井の童児にすら明らかであった。人心は恐慌を極め、都は重苦しい雲に覆われた。
この風聞に最も狼狽し、苛立ちを募らせたのは、他でもない大将軍・何進であった。
そこへ、袁紹が進み出て進言した。
「張譲や段珪ら宦官どもが市中に流言を放ち、『何進が董太后を毒殺し、帝位簒奪の大事を企んでいる』と騒ぎ立てております。この機に乗じて宦官どもを誅殺せねば、必ずや後日に大いなる禍根を残しましょう!
今や大将軍の兄弟、幕下の将兵はことごとく天下の英傑揃い。全力を注ぎ込めば、勝敗は掌中にあるも同然。これぞ天の与えたもうた千載一遇の好機、決して失ってはなりませぬ!」
何進は優柔不断に眉をひそめた。
「されど……何太后がどうしても首を縦に振らぬのだ。いかにすべきか?」
袁紹の瞳に、過激な冷光が宿った。
「——ならば、四方の英雄豪傑に密勅を下し、大軍を率いて洛陽へ上洛させましょうぞ! 大軍をもって宮中を威圧し、宦官どもを根こそぎ撫で斬りにするのです! 事態がここまで切迫すれば、太后とて従わざるを得ませぬ!」
何進は膝を打って相好を崩した。
「おお! それは妙案よ!」
「——ハハッ、笑止千万!」
突如、広間の末席から冷ややかな嘲笑が響き渡った。
一同が振り返ると、そこに立っていたのは、腕を組み、冷徹な眼光を放つ曹操(曹孟徳)であった。
曹操は一歩進み出ると、居並ぶ諸将を見下すように言い放った。
「宦官の災いなど、古今東西どの時代にもあったことだ。暗君どもが分不相応な権勢を奴らに預けたからこそ、ここまでの事態を招いたに過ぎぬ!
奴らの罪を糺したいのなら、首謀者の首魁数名を捕らえて獄吏の手に委ねれば事足りるものを、なぜわざわざ外地の軍閥どもを都へ引き入れる必要があるのだ!?
宦官を皆殺しにしようなどと大騒ぎすれば、機密は必ず漏洩する。我が目から見れば、この計は百害あって一利なし、必ずや大破滅を招くぞ!」
何進は面目を潰されて激怒し、机を蹴倒して怒鳴りつけた。
「曹操ッ! 貴様、宦官の曹騰の孫であることに未練を残し、私心を抱いて奴らを庇い立てする気かッ!!」
曹操は鼻で嘲笑い、長衣の裾を翻して背を向けた。
「天下を大乱に陥れる者は……間違いなく貴様だ、何進ッ!!」
捨て台詞を残し、曹操は大股で軍議の場を立ち去っていった。
去りゆく曹操の後ろ姿を、袁紹は複雑極まる陰鬱な瞳で見つめていた。その脳裏に刻まれた曹操の痛烈な批判は、名門の誇りを深く抉り、二人の英傑の間に消し去れぬ亀裂を穿ち始めていた——。




