第六十八章 蔡府の密談と、洛陽の才女・蔡昭姫
蔡邕に案内され、王允と蘇然たちは中庭を抜けて書斎へと足を踏み入れた。
王允はちらりと蘇然へ目配せし、次いで背後の小柄な書童へと視線を流した。蘇然はその意図を瞬時に察知する。
(……密談に余計な人間を同席させるなってことだな)
蘇然は足を止め、後ろからついてくる糜貞の細い手首を軽く掴んで引き留めた。
「おい、お前は屋敷の庭でも散歩して時間を潰してな」
「散歩?」
糜貞は目を丸くしたが、重々しい足取りで奥へ消えてゆく王允の背中を見て、すぐに合点がいった。唇を尖らせ、恨めしそうに蘇然を見上げる。
「……分かったわよ。早く出てきなさいよね」
「ああ、分かってるって」
書斎の敷居を跨ぐと、背後から王允の低い声が飛んできた。
「守義、戸を閉めよ」
「へいへい」
蘇然は木扉をピシャリと閉め、閂を下ろすと、王允の下座へと腰を下ろした。卓を挟んだ向かいには、蔡邕が端然と座している。
蔡邕は怪訝そうに蘇然を見つめ、次いで王允へと視線を巡らせた。王允はただ満足げに微笑んで頷いてみせる。
(天下の清流の重鎮たる王子師が、朝廷の命運を左右する密議の場に、これほど若い親族を同席させるとは……)
大儒の胸に驚きと疑問が渦巻いたが、それを口にする間もなく、王允が身を乗り出して口火を切った。
「伯喈殿。本日、宮中の門が固く閉ざされ、百官の出入りが禁じられたとのこと。……いよいよ、大事が起きたと見て間違いありますまい」
蔡邕は苦い笑みを浮かべ、重々しく首肯した。
「某の耳にも届いております。大将軍・何進が急ぎ袁紹と曹操の二名を宮中へ呼び寄せたとか。平時であればともかく、二人の背後にある門閥と兵力を考えれば……よもや何進、宮中を血で洗う腹積もりでは……」
「うむ!」王允の眼光が鋭く光った。
「我が姪婿が申すには、今は『高みに座して虎の争いを観る』のが最善の策であるとのこと。現に情勢はその言葉通りに動いております。我らも疾く手を打たねばなりませぬ」
「……姪婿殿の策とな?」
蔡邕は驚愕して眉をひそめた。
「されど何進の権勢は今や天下を覆い、手には軍権を握っておりますぞ。宦官どもに勝ち目などありましょうか?」
王允は手元の茶器を取り上げ、無言で熱い湯気を吹いた。視線だけを蘇然へ向ける。
(……ほら来た、丸投げだ)
蘇然は内心で苦笑しつつ、やれやれと肩をすくめて口を開いた。
「某の浅知恵に過ぎませんが……大将軍・何進は数万の軍勢を擁しているとはいえ、その兵の大半は洛陽の城外に駐屯しております。勅命なしには都へ引き入れることは叶いませぬ。つまり、今この洛陽で何進の身辺を固めているのは、せいぜい千余名の禁衛軍のみ。一方、宦官側も宮中の武装宦官や私兵を掻き集めれば千近くに達します。いざ刃を交えれば……」
「なるほど、一理ある!」
蔡邕は膝を打った。
「天子の勅命なくして外兵を都へ入れることは大逆。なればこそ、この窮地において何進が兵馬を呼び寄せぬはずがなかろう」
(いやあ、兵を呼び寄せるのはその通りなんだけどさ……何進本人が優柔不断すぎて、兵が都に着く前に宦官に騙されて首チョンパされるんだよな。そんな史実、口が裂けても言えないけど……)
蘇然が内心で頭を抱えていると、王允が茶を啜りながら静かに促した。
「守義よ、伯喈殿は老夫の無二の親友、身内も同然のお方だ。胸の内にある思惑を、包み隠さず申してみよ」
「……では、率直に」蘇然は探るように言葉を継いだ。「何進は、皇子弁を擁立せんとしているのでは?」
「フン!」王允は咳払いし、鋭く一瞥した。「何進ごとき屠殺人上がりの匹夫が、皇位の継承を左右するなど言語道断! 大逆無道の沙汰ぞ!」
(だから、喋らせたいのか黙らせたいのかどっちなんだよ!)
蘇然は理不尽な頑固親父に呆れ果て、ジト目を向けた。
蔡邕が間に入り、重々しく頷いた。
「守義殿の懸念はもっともよ。天子は幼き皇子協を深く慈しんでおられる。……まさか何進、天子に刃を突きつけて皇太子の廃立を迫るつもりではあるまいな?」
蘇然は答えず、ただ両手を広げて肩をすくめてみせた。その仕草が、何よりも雄弁に危機の切迫を物語っていた。
王允は茶杯を卓に置き、苦悶の色を浮かべて額を押さえた。
「何進の奴めが真に暴挙に出るならば、老夫らの手勢では到底防ぎきれぬ。こうなれば……」
老臣は猛然と卓を叩き、決断を下した。
「事態は一刻を争う! 老夫が直ちに一筆認め、並州刺史の丁原へ密使を放つ! あの男は忠義に厚き士、必ずや手勢を率いて洛陽へ駆けつけ、皇室を支えてくれよう!」
(……出たよ。丁原を洛陽に呼び寄せた張本人は、お前だったのか王允!)
蘇然は心の中で盛大に白目を剥いた。
(あのなぁ爺さん、丁原を呼んだらセットで呂布までついてくるんだぞ? 自分で破滅の引き金を引いてどうすんだよ……)
「うむ、良き策かもしれん」蔡邕も頷いた。
「我ら文官の手には一兵の兵権もなし。何進に対抗するには外の忠臣を頼るほかあるまい。……されど子師殿、朝廷の命なく私兵を都へ招くは、一歩間違えれば同罪に問われますぞ」
「その時は老夫ひとりが首を差し出すまで!」
王允の双眸に悲壮な覚悟の光が宿る。
「我らは大漢の臣下ぞ。皇恩を受けて生き永らえてきた身が、国難を前にして何を惜しもうか! 命を賭して奸賊を討ち、漢室を守護せねばならんのだ!」
そう熱弁を振るいながら、王允はギラリと蘇然を見据えた。
蔡邕は二人の間に流れる奇妙な緊張感に目を瞬かせ、首をかしげた。
(また俺を焚きつける気かよ……)
蘇然は苦笑し、この場を切り抜けるための古典的な手——話題逸らしを発動することにした。
「伯父上たち、そう思い詰める必要はありませんよ。何進は知謀に欠け、頑迷で猜疑心が強い。部下の忠言に耳を傾ける器量などありませんから、放っておいても自ら大破滅へ突き進みますって」
「なぜそうと言い切れる!」王允が怪訝そうに目を細めた。この若造は、いつも未来を見てきたかのように断言する。それが老臣には不気味であり、歯痒くもあった。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦ですよ。結果を見れば分かります」
蘇然がそれ以上語るのをやめると、王允は奥歯をギリギリと鳴らして悔しがった。
蔡邕はその様子を見て、思わず相好を崩した。
「ハハハ! 守義殿、誠に度胸の据わった大器量であられるな」
「フン……まあな」
親友に姪婿を褒められ、王允は髭を撫でながら鼻を高くした。何だかんだ言っても、この生意気な若造は自分の身内なのだ。面目を施されて悪い気はしなかった。
蔡邕は身を乗り出し、温かな眼差しを蘇然へ向けた。
「守義殿。これほどの見識をお持ちなれば、平生より先賢の経書を深く読み込まれておいでなのであろうな?」
——ゴホンッ!
王允がすかさず咳払いをして、蘇然に強烈な牽制の視線を送った。
(余計なボロを出すなよ、という無言の圧力である)
蘇然は冷や汗を拭い、調子よく話を合わせた。
「ええ、まあ! 伯父上の厳格極まりないご指導のもと、毎日のように経書を叩き込まれております。中でも『漢書』からは計り知れない薫陶を受けまして、実に見聞を広めることができました!」
(ほう……?)
王允は目を丸くした。この怠け者の口からこれほど殊勝な言葉が出るとは思わなかったのだ。……が、すぐに「こいつ、この二か月で『漢書』一冊しか読んでないからそれしか言えないだけだな」と思い至り、心の中で苦笑した。
「重畳、重畳!」蔡邕は上機嫌で頷いた。
「して、書画や琴の嗜みは? 某の娘も幼少より手ほどきを受け、些か心得がござる。子師殿、せっかくの機会だ、若者同士で芸の腕比べでもさせてみてはいかがかな?」
王允の顔が見事に引きつった。
「あ、いや……それは……うむ、まあ……」
(まずい、この若造の教養のなさが露呈してしまう!)
(蔡文姫と腕比べ!?)
蘇然は生唾を飲み込んだ。歴史に名を残す絶世の才女との手合わせなど、歴史オタクとしては胸が躍るシチュエーションだ。だが、脳裏に自宅で待つ秀の健気な笑顔が浮かび、即座に雑念を振り払った。
「蔡伯父上、お心遣いは痛み入りますが……伯父上の指導よろしく書画の心得も少々齧ってはおりますものの、某の本領はあくまで軍略謀略にございます。風流な芸事の腕比べとなれば、ご令嬢のお相手には力不足かと……」
「ほう?」蔡邕は目を見張った。
「守義殿、お主……軍略の道に長けておるのか? これはまた、思いがけぬ武弁の才だ」
引くに引けなくなった蘇然は、観念して徐州での実績を引っ張り出した。
「洛陽へ上る前、徐州刺史の陶謙大人より城門の守備を委ねられまして。黄巾軍五万が押し寄せてまいりました折、浅知恵を弄してこれを撃退し、賊軍の小渠帥を一人、生け捕りにいたしました」
蔡邕の目がカッと見開かれた。
「なんと……! まことか、それは見事な武功だ!」
(この小僧、機転だけは天下一品だな……!)
王允は胸を撫で下ろした。親友の前で恥をかかずに済んだどころか、軍功まで引き合いに出して面目を保ってくれたのだ。
蔡邕は感嘆の声を漏らし、まじまじと蘇然を眺め回した。
「素晴らしい! かくも若くして文武の才を兼ね備えた英傑、是非とも我が娘にも引き合わせねばならん!」
蔡邕は立ち上がり、扉を開けて廊下の召使いへ声を張り上げた。
「これ、誰か! 昭姫をここへ呼んで参れ!」
「えっ……!?」
王允が慌てて制止しようとした。
「ちょ、伯喈殿! 年頃の男女をかように引き合わせるなど、ちと不作法では……」
「何を堅苦しいことを! ただ若い者同士、挨拶を交わさせるだけではないか。何の問題もあるまい!」
半刻も経たぬうちに、廊下の向こうから、衣擦れの微かな音とともに鈴を転がすような澄んだ声が響いてきた。
「父上、お呼び立てと伺いましたが……いかなるご用向きでしょうか?」
「おお、来たか!」蔡邕が相好を崩した。
「昭姫、入れ。お前に引き合わせたい若き英傑がおられるのだ!」
蘇然が何気なく顔を上げた——その瞬間。
すり足で静かに姿を現したひとりの若い女性の姿に、蘇然は息を呑んだ。
透き通るような雪白の肌に、涼やかで知的な双眸。凛とした気品の中にも、どこか儚げな憂いを秘めた佇まいは、まさに国色天香。
美しさの質こそ違えど、自宅の秀と比べても決して引けを取らぬ、息を呑むほどの絶世の佳人であった。
娘は楚々とした所作で深く礼を捧げた。
「昭姫、父上にご挨拶申し上げます。王伯父様、ご無沙汰しております。そして……」
頭を上げた蔡昭姫の澄み渡る瞳が、真っ直ぐに蘇然の視線と交錯した。




