第六十七章 暗流狂奔の都と、蔡府の小書童
数日の間、都の情勢は王允と蘇然の見立て通りに推移した。
霊帝は病と称して朝議に姿を現さず、宮廷の内外には不穏な気配が立ち込め、暗流が激しく渦巻いていた。
帝の病は日ごとに重篤さを増していた。帝には二人の皇子があり、長男を弁、次男を協といった。帝は聡明な皇子協を太子に立てようと望んでいたが、これに中常侍の蹇碩が進み出て密奏した。
「陛下、もし真に皇子協様を太子と定められますならば、まずは大将軍・何進を誅殺し、後顧の憂いを断たねばなりませぬ」
霊帝はしばし思案の末、何進を宮中へ召し出す勅命を下し、密かに五百の刀斧手を回廊の物陰に伏せさせた。
何進が宮門に差し掛かったその時、旧知の司馬・潘隠とすれ違った。潘隠は何進へ向けて激しく目配せを送り、首を横に振った。
瞬時に異変を悟った何進は、宮門を仰ぎ見て全身から冷や汗を噴き出し、踵を返して私邸へと逃げ帰った。そして直ちに幕下の諸将を招集し、緊急の軍議を開いた。
側近のひとりが献策した。
「宦官どもを誅殺するは造作もなきこと。大将軍の麾下には袁紹と曹操の二名がおります。なぜ彼らをお用いにならぬのですか?」
何進は膝を打った。袁紹は名門「四世三公」の出であり、曹操は先代の権臣・曹騰の孫にして知勇兼備。宮中の悪鬼どもを一掃するには、この二人の声望と兵力を引き入れるのが上策であった。何進は直ちに親書をしたため、袁紹と曹操を洛陽へと呼び戻した。
この日を境に、何進と十常侍の対立は抜き差しならぬものとなった。何進は常に屈強な護衛を従えて身を固め、十常侍は帝の病床に取り入っては「何進に謀反の兆しあり」と讒言を重ねた。帝は何進を深く憎み、皇子協へ皇位を譲る密詔を認めるとともに、蹇碩へ命じて精鋭の甲士を鍛え上げさせ、何進の反乱に備えさせた。
そこまで言い終えた直後、霊帝は激しく喀血して昏倒し、二度と目を覚ますことはなかった。
「……『食』とは農殖嘉谷にして食すべからざるものなし。『貨』とは布帛にして衣とすべく、金・刀・魚・貝の如き、もって財を分かち利を布きて有無を通ずるものなり。この二者は生民の本にして、神農の世より興る……」
「うむ!」
王允は満足げに頷き、茶をすすって卓の竹簡を置いた。
「今日の読書はここまでにいたそう。守義よ、身なりを整えよ。これより蔡伯喈殿の屋敷へ参るぞ」
「はぁい……」
蘇然は机に突っ伏したまま、大きなあくびを噛み殺した。
「夫君、お湯をお持ちしましたよ。お顔を拭いて目を覚ましてくださいな」
秀が湯気の立つ木桶を抱えて部屋に入ってきた。
「毎日これじゃ、体が持たないよ……」
蘇然は伸びをしながらのそのそと歩み寄り、秀の差し出す手巾を受け取った。
秀はくすりと笑い、首をかしげた。
「あら、夫君。今日はどうして伯父様がこんなに早くお引き取りになられたのです?」
「誰かの屋敷へ連れて行くんだとさ」蘇然は手巾で顔を拭いながら愚痴った。「あの頑固爺め、本当に人をこき使いやがって!」
他の者が伯父を「頑固爺」などと罵れば秀も眉をひそめただろうが、相手が夫となれば話は別である。口先で減らず口を叩いて鬱憤を晴らしているだけなのだと分かっているため、咎める気にもならなかった。
何より、根っからの引きこもり気質である夫が、ここ二か月というもの伯父に朝から晩まで机へ縛り付けられていたのだ。やつれた横顔を愛おしく見つめつつ、秀は心の中で忍び笑いを漏らした。
そこへ、糜貞が軽やかな足取りで跳ねるように入ってきた。
「ねえ悪党! 今日は私とお姉様を連れて、街へ遊びに連れていってくれる時間はあるの?」
「遊ぶ遊ぶって、お前はそればっかりか!」蘇然が睨みつける。「俺はあの爺さんと出かけるんだよ。怖くないならついてくりゃいいだろ!」
「爺さん」という言葉を聞いた瞬間、糜貞は目を丸くしてペロリと舌を出した。王允の威厳に満ちた厳しい佇まいを思い出すと、さすがのじゃじゃ馬も縮こまらざるを得ない。
「むぅ……どこへ行くのよ?」
「蔡伯喈……蔡邕先生のお屋敷だ」
「えっ!?」糜貞は目を瞬かせた。「それって、洛陽随一の美人って噂の、蔡琰さんのお父様のこと!?」
「何でお前が知ってるんだよ?」蘇然が怪訝そうに眉をひそめる。
「ふふん、私だけじゃないわよ、お姉様だって知ってるわ。この前お買い物に出た時、街の人たちが噂してたもの!」
「ふーん」
糜貞は秀の手をぎゅっと握り、耳元で囁いた。
「お姉様! あの悪党に私たちも連れていかせましょうよ。万が一、あいつが鼻の下を伸ばしたら……ふふん!」
秀は蘇然の顔を盗み見ると、静かに微笑んで身を引いた。
「妾身、湯を捨ててまいりますね……」
糜貞は唇を尖らせて後を追い、中庭へ出た秀の袖を引いた。
「秀お姉様、怖くないの? あの悪党が浮気したらどうするのよ!」
「滅相もないことを言うものではありません」秀は眉をひそめた。「夫君は決してそのようなお方ではありませんわ」
「そうかしらぁ……?」糜貞は食い下がった。
「蔡家の令嬢は才色兼備の誉れ高く、ちょうど及笄を迎えたばかりで、求婚の使者が門前市をなしているそうよ! あの悪党だって、目の前に現れたらふらふら靡いちゃうかもしれないじゃない!」
秀は糜貞のぷっくりした頬を軽くつねり、困ったように笑った。
「貴女という子は……本当は自分が外へ遊びに行きたいだけでしょ。伯父様とご挨拶に伺うだけですもの、良からぬことなど起きるはずがありません」
「痛っ……もう!」糜貞はつねられた頬をさすりながら唇を尖らせた。「洛陽一の美人って言われてるのよ? あの悪党が動揺しないはずないわ!」
「まあまあ」秀は呆れつつも、優しく促した。「そんなに行きたいなら、夫君にお願いしてみてごらんなさいな」
「あの悪党に頼めって……?」糜貞の顔が一気に引きつった。
秀は微笑んで歩み去ったが、その瞳の奥には、ふと微かな影が差していた。
(当代屈指の大儒の娘……琴棋書画のすべてに通じた才媛。それに引き換え、妾身は……武芸こそあれど、学問は……)
胸の奥をよぎった一抹の不安を振り払うように、秀は蘇然の注いでくれる温かな眼差しを思い返した。
(いいえ……夫君に限って、そのようなことは決して……)
「連れていけだと?」
部屋に戻った蘇然は、目の前で仁王立ちする少女を胡散臭そうに眺めた。
「なんで俺がお前を連れてかなきゃならんのだ。理由を言ってみろ」
「そ、それは……!」糜貞は口籠り、胸を張って言い放った。
「秀お姉様の代わりに、あなたを見張るためよ! 良からぬ気を起こさないようにね!」
「呆れたな」蘇然は鼻で笑ったが、ふと悪戯心が疼いた。「まあ、連れていってやらんこともないが……一体どんな立場で同行する気配だ?」
「ええと……あなたの『妹』、じゃダメ?」糜貞は上目遣いで期待を込めた。
「ダメに決まってんだろ」蘇然は肩をすくめた。「目上の大先輩のお屋敷へ挨拶に行くだけなのに、妹を連れていく奴がどこにいる?」
糜貞も道理に合わないと悟り、肩を落とした。
「……ただ、噂の令嬢が本当にそんなに美人なのか見てみたいだけなのに。それに、あなたのお目付け役も……」
蘇然はニヤリと意地悪そうに口端を吊り上げた。
「どうしても行きたいなら、一つだけ役職が余ってるぞ。——ちょうど、俺に付き従う書童(身の回りの世話をする小姓)が一人足りないんだ。お前がやれ」
「しょ……書童!?」
糜貞は目を丸くし、自分の鼻先を指差した。名門・糜家の令嬢たるこの私が、男装の下働き小姓になれというのか!?
「嫌ならいいさ。俺は行くからな」蘇然が背を向ける。
「待ちなさいよッ!」
糜貞は地団駄を踏み、眉間に皺を寄せて葛藤した末、ギリギリと歯を食いしばった。
「……分かったわよ! やってやろうじゃないの! この悪党めッ!」
「あっはっは!」
蘇然は着替えに走る少女の後ろ姿を見送り、大笑いした。我儘なお嬢様には、これくらいの荒療治がちょうどいい。
表門へ出ると、すでに王允が待機していた。
小綺麗な書童の身なりをして俯く糜貞を一瞥し、次いで蘇然へ鋭い眼光を突き刺す。蘇然はヒュッと首を縮めた。
「馬車へ乗れ!」
王允が先に乗り込む。
「へいへい。行くぞ、我が家の……書・童・君!」
蘇然がからかい混じりに声をかけ、糜貞は唇を尖らせて後に続いた。
車輪が軋みを上げ、洛陽の石畳を滑り出す。
「守義!」王允が車内で低く釘を刺した。「先日の言を忘れてはおるまいな? 万が一にも老夫の顔に泥を塗るような真似をしてみろ、承知せんぞ!」
蘇然の背筋に冷や汗が流れた。(どこまで体面を気にするんだ、この頑固親父は……)
馬車は間もなく、瀟洒な門構えの屋敷の前で止まった。
門前に、一人の老儒が端然と佇んでいるのが見えた。
王允が馬車を降りるなり、驚きの声を上げた。
「おお、伯喈殿! かような寒空の下、出迎えてくださるとは……允の不調法、平にご容赦を!」
「何を水臭いことを申されるか、子師殿! ……おや、そちらの若君は?」
「うむ!」王允は目を細めて胸を張った。
「これぞ允の姪婿にござる。本日は伯喈殿と時局を論じ合うと同時に、この若輩を引き合わせとうて連れてまいったのだ。守義、何をぼさっと突っ立っておる! 蔡伯父上にご挨拶をせんか!」
「蘇然、字を守義と申します。蔡伯父上、お目通り叶い恐悦に存じます」
蘇然は観念して、淀みない所作で拱手した。
「苦しゅうない」
蔡邕は驚きの色を隠せず、まじまじと蘇然を観察した。そして手を打ってカラカラと笑った。
「子師殿がこれほど若者を重んじるとは珍しい。普段の貴殿ならば、一族の若輩すら滅多に儂の前へ引き合わせぬというのに……」
「いやいや、ただの頑石にございますよ! 磨けば光るかどうかも怪しい原石でしてな」
王允は謙遜しつつも、誇らしげな笑みを隠せなかった。一族の若者にこれほどの器量がいれば、疾くに朝廷へ送り込んでいる。凡庸な親族ばかりの中で、この姪婿だけが異彩を放っているのだ。
蔡邕は王允の言葉の裏にある並々ならぬ熱意を敏感に感じ取り、改めて蘇然を見据えた。
青年の瞳は鏡のように澄み渡り、天下の大儒たる自分と視線が交錯しても、恐縮するどころか一片の揺らぎすら見せない。
(……なるほど。王子師が手元に置きたがるわけだ。ただ者ではないな)
蔡邕は微笑み、門を指し示した。
「子師殿の引き立てを受けるなれば、たとえ頑石とて必ずや比類なき美玉となりましょうぞ。さあ、中へお入りくだされ!」
「伯喈殿、あまり若造を買い被りなさるな、調子に乗りますゆえ! さあ、友よ、参ろう!」
二人の老臣が肩を並べて屋敷へと入っていく。
蘇然は肩をすくめ、背後を振り返って声をかけた。
「おい、書童……ぼさっと突っ立ってないで、荷物持ってついてこいよ」
「……本当に生意気なんだから!」
糜貞は小声で悪態をつきつつ、蔡府の庭園を見渡した。我が糜家の贅を尽くした大邸宅とは異なり、簡素ながらも凛とした気品と風雅な趣が漂っている。
「何チンタラ歩いてんだ、置いてくぞー!」
遠くの渡り廊下から蘇然の意地悪な声が響いた。
「今行きますってば!」
糜貞は思わず声を張り上げたが、蘇然がニヤリと振り返ったのを見て、慌てて口を尖らせて言い直した。
「……は、はい、旦那様!」




