第六十五章 丹薬の禍根と、王允の「病気療養」
あまりに長い歳月が隔たっていたため、蘇然と秀は黄土の盛り土の前に佇み、物言わぬ二人の亡き親へ心ゆくまで語りかけた。荒涼とした墓前に膝をついた秀の瞳からは、大粒の涙が玉の簾のように零れ落ちて止まらなかった。
蘇然が心を尽くして宥めすかし、温もりを分け与えて、ようやくその悲しみを和らげることができた。
その夜は特に何事もなく更けていった。一行が自分を置き去りにして出かけたことに、糜貞が一人ぷんぷんと腹を立てていたのを除けば。
「お前が豚みたいに爆睡してたからだろ!」
蘇然の容赦ない一言であっけなく撃沈された糜貞は、悔しそうに足を踏み鳴らして自室へ逃げ帰っていった。
翌朝、夜明け時分。
さすがは宮廷の重鎮・王允である。悠然とした足取りで客房の前に現れると、迷わず戸を叩いた。
——トントントン。
秀は疾くに目を覚ましていた。隣で泥のように眠りこけている夫の寝顔を見つめ、起こすのが忍びなく、そっと衣を羽織って抜き足差し足で扉を開けた。
「伯父様、おはようございます……」
「うむ」
王允は秀の顔を一瞥し、奥の寝台へ視線を走らせて眉をひそめた。
「守義を呼んで参れ!」
「それが……」秀は口ごもり、庇うように言った。
「夫君は元より体が頑健というわけではございませんし、昨日は……秀に付き合ってあんな遠くまで歩いてくださいましたので、酷く疲れが……」
王允は呆れたように首を振った。
「やれやれ……よい、ならばこの二冊を守義に渡しておけ! 隅々まで精読するよう申し渡す。儂が朝議から戻り次第、問答を行うゆえな!」
「はい、伯父様……」
王允は頷き、踵を返しかけて——ボソリと余計な一言を付け足した。
「……お主らのこれからの道は長いのだ。夜の房事も、ほどほどに慎むようにいたせ」
「っ……!」
その一言に、秀の白い頬は耳の裏まで真っ赤に染まった。
伯父が立ち去るのを見届けるや否や、慌てて戸を閉め閂を下ろすと、唇を尖らせて恥ずかしそうに寝台の縁へ戻ってきた。
「ん……秀? 伯父上か……?」
蘇然が毛布の中から寝ぼけ眼でモゴモゴと呟いた。
「ええ、夫君。伯父様が夫君にと、二冊の書物を置いていかれましたわ……」
「はいはい、そこの机に置いといてくれ……あと少し寝かせて……」
夫の怠惰な姿に苦笑いを浮かべつつ、秀は机の前に座り、油煙の少ない灯火を掲げた。好奇心から、その書物をそっとめくってみる。
王允が置いていったのは、『漢書』と『春秋左氏伝』の二冊であった。
実は秀も幼い頃、父の手ほどきで文字を習い、経書を学んでいたのだ。ただ、後に両親を失って日々の生活を凌ぐのに精一杯となり、本に触れる機会も失われたため、蘇然には「文字は読めない」と伝えていたのであった。
寝台で眠る夫の背中を少し後ろめたそうに盗み見ながら、秀は迷い迷い、『漢書』の最初の頁をゆっくりとめくり始めた……。
時が流れるのは早い。
ふと目を覚ました蘇然は、隣に秀の姿がないことに気づいて身を起こした。見回せば、仄かな光の下で、妻が一心不乱に書物に見入っているではないか。
蘇然は枕に肘をつき、頬杖をついて見惚れた。
(……美女が本を読む姿ってのは、また格別の風情があるもんだな)
読書に没頭していた秀は、肩にふわりと柔らかな重みを感じてハッと我に返った。
振り返ると、自らの上着を掛けてくれた夫が、屈託のない笑顔で立っていた。
「ふ、夫君……!」
秀は慌てて書物を閉じ、立ち上がった。
「夫君、お気を悪くなさらないでくださいませ……秀は、ただ……」
蘇然は一瞬きょとんとしたが、すぐに妻の気兼ねを察し、秀の手から書物を受け取って優しく笑った。
「バカだなあ! お前が本を読んだくらいで、俺が怒るわけないだろ? どれどれ……『漢書』? あの爺さん、俺にこんなものを読めって言うのかよ」
夫に責められるどころか笑い飛ばされ、秀は胸を撫で下ろした。
「夫君、もう一冊ございますよ」
蘇然は題名を見て、天を仰いだ。「……『春秋』かよ。勘弁してくれ……」
——ドンドンドン! ドンドンドン!
激しいノックの音が静寂を破った。
「守義! 秀児! 起きておるかッ!」
秀が息を呑み、蘇然へ合図を送った。蘇然は目にも留まらぬ速さで机の前に座り直し、いかにも何時間も読書に没頭していたかのような「猛勉強ポーズ」を作った。秀がすまし顔で扉を開ける。
「おお、見上げたものだ!」
部屋に入ってきた王允は、机にかじりつく蘇然を見て満足そうに頷いた。
「守義、どうだ。何か疑問に思うところはあったか?」
「……疑問、ですか?」蘇然の口元が引きつった。「い、今のところは特に……」
「疑問がないだと?」王允は歩み寄り、眉をひそめた。
「書を読んで疑問が生じぬはずがなかろう! 遠慮はいらん、儂が直々に講義をして解き明かしてやろう!」
秀は夫の引きつった顔を見て、口元を押さえて小さく吹き出した。
「伯父様、どうぞお掛けになって。秀がお茶を淹れてまいりますね」
そう言い残し、秀は上手に場を外していった。
(おいおい、どうするんだよ……!)
蘇然は冷や汗を流した。老人の親切心はありがたいが、漢文の講義など受けさせられたら頭が破裂してしまう。
その時、蘇然の頭に電光が走った。書物を置き、探るように切り出す。
「伯父上、宮中から戻られたばかりですよね? 今日は何か……朝廷で珍しい出来事でもありましたか?」
王允はギロリと蘇然を睨んだ。
「皇室の政は市井の世間話ではない! 軽々しく語るでない! ……珍事だと? ふん、どうせいつもの……」
「大将軍の何進と十常侍の張譲の権力争いですか?」
蘇然は必死に話題を逸らしにかかった。
「……守義、目ざといな。その通りだ」
王允の表情が一気に険しくなった。
「何進には大局の知謀がなく、張譲には人の徳がない。あのような輩が高位に居座るなど、大漢の災厄以外の何物でもない……」
王允は周囲を警戒し、立ち上がって部屋の扉をピシャリと閉めると、声を潜めて蘇然に迫った。
「守義よ、老夫が一つ問う。嘘偽りなく答えよ」
「……はい」
「もし儂が志を同じくする忠臣たちを結集し、あの二派を同時に誅殺せんと図ったなら……勝算はあると思うか?」
蘇然は目をひん剥いた。
(おいおい、勘弁してくれよ! あんたが死ぬのは勝手だが、俺と秀を巻き込むんじゃない!)
「……勝算はないか」
蘇然の絶句を沈黙の否定と受け取った王允は、深く肩を落とし、自嘲気味に呟いた。
「儂とて、微塵の勝算もないことは分かっておる……。されど、大漢がこのまま腐り落ちてゆくのを見過ごすなど……無念! 痛恨の極みだ!」
蘇然は思い詰める老臣を見つめ、静かに口を開いた。
「伯父上が自ら危ない橋を渡る必要などありませんよ。あの二派はいずれ……必ず正面衝突します。我々はただ、静観していればいいのです」
「静観だと?」王允は眉を寄せた。
「今は小競り合いを繰り返しておるが、決定的な火種には至っておらぬ。傍観していて何になろう? このままでは大漢が……いや、待て。お主の言う『静観』とは、一体何を待てと言うのだ?」
蘇然は苦笑いした。(本当は『霊帝が死んで後継者争いが勃発するのを待つ』って言いたいんだが、この皇室信者にそんなこと言えるわけがない)
「伯父上……今霊帝の御容態は、いかがなのですか?」
「天子は仙道の丹薬を服用しておられ、御高齢ながら壮健であらせられる……」
そこまで言って、王允はハッと目を見開き、カッと怒声を張り上げた。
「守義ッ! 天子の御身に疑念を抱くなど、大不敬であるぞ! 言葉を慎め!」
(出たよ……)蘇然は冷や汗を拭い、声を潜めて囁いた。
「噂に聞きますが……あの手の怪しげな丹薬は、一時的に精力を昂らせるだけで、長く服用すれば内臓を蝕む猛毒になるとか。使い続ければ、いずれ……」
「まことか!?」
王允の顔色が一変した。蘇然が重々しく頷くのを見て、老人は怒髪天を衝く勢いで机を叩いた。
「どこの逆賊だ! 妖しき劇薬をもって宮中を乱し、天子を害しておる不届き者はッ!?」
(皇帝自身が不老不死の仙人になりたいって言ってガブ飲みしてるんだから、世話ないだろ……)と蘇然は心の中で突っ込んだ。
王允は激しく息を乱し、突如として立ち上がった。
「守義、ここで待っておれ! 儂が直ちに宮中へ戻り、天子に丹薬の害を直訴してまいる……!」
「ちょ……待った待った!」
蘇然は慌てて王允の袖を引っ張って引き留めた。
「天子の服薬はすでに何年も続いてるんでしょ!? 見た目は元気そうでも、中身はとっくに手遅れですよ! 今さら伯父上が乗り込んでいっても、『不吉な言いがかりをつけた』って宦官どもに讒言されて、首が飛ぶのがオチです!」
「儂の命など惜しくはないッ!」
「命の問題じゃないんです!」蘇然は頭を抱え、必死に説得の言葉を絞り出した。
「手の施しようのない天子の延命を図るのと……朝廷を牛耳る悪党どもを一網打尽にする千載一遇の好機を待つのと、どちらが大事ですか!? 伯父上、よーく考えてください!」
「ぐ……っ!」
王允は絶句した。蘇然の言う「千載一遇の好機」の意味——天子が崩御すれば、皇位継承を巡って何進と十常侍が共倒れの殺し合いを始める——を、聡明な王允が理解できぬはずがなかった。
だが、骨の髄まで漢室に忠誠を誓う老臣にとって、主君の死を前提に策を巡らせるなど、断腸の思いであった。
「禍福は糾える縄の如し……とは申すが。……されど、天子が崩御されるのをただ指を咥えて待てというのか……」
「だから、病気と称して屋敷に引きこもってりゃいいんですよ! 見ぬもの清し、です!」
「貴様は……!」
王允は呆れ半分、怒り半分で蘇然を睨んだが、熟考するうちに妙に筋が通っていることに気づかざるを得なかった。
「……守義。あの二派が、必ずや血で血を洗う争いを始めると保証できるのか?」
「保証しますとも」
(三国志演義にバッチリ書いてあるからな……)
「……相分かった。ならば老夫、一度だけ大漢への不忠を犯すとしよう!」
王允は暗然として長い溜息を吐き出した。
「二派が食い合えば、必ずや一方は倒れる。残った手負いの賊を討つならば、儂の手勢だけでも事足りよう……!」
悲壮感を漂わせる王允を見て、蘇然は気休めに言った。
「案外、両方とも綺麗に共倒れしてくれるかもしれませんよ?」
王允は、若者が自分を励ますために大袈裟な希望を語ってくれたのだと受け取り、苦笑いを浮かべた。
「もしそうなれば……真に大漢の神仏の加護というものだな」
(信じてないな……まあいいや、その通りになるんだから)と蘇然は唇を尖らせた。
ギィ……と戸が開き、湯気の立つ茶器を載せた盆を手に、秀がしとやかに戻ってきた。
二人の前に茶を供え、夫の隣に寄り添う秀の幸せそうな笑顔を見つめ、王允の胸に温かな安堵が広がった。
——と、その時。王允がポンと手を打った。
「そうであった! 話の腰を折られて忘れるところであったぞ。守義、先ほどの続きだ。書を読んで生じた疑問を申してみよ!」
「……へ?」
蘇然の顎が外れそうになった。(この爺さん、なんでこんな時に限って記憶力が抜群なんだよ!?)
言葉に詰まる蘇然を見て、王允は「秀の前だから格好をつけておるのだな」と好意的に解釈し、満足げに笑った。
「よい、恥じることはない! お主の深謀遠慮、老夫も大いに感じ入った。天子の件、お主の言に従い、明日より病と称して出仕を控えることにいたそう。……その間、屋敷でお主とじっくり膝を突き合わせ、先賢の経書をみっちりと叩き込んでやるからな! 必ずや将来の役に立つぞ!」
「…………」
蘇然の顔が、今度こそ完璧に絶望で引きつった。
(終わった……俺の極楽ニート生活が、完全に終わった……!)




