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三国夢  作者: 玄雨竜


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第六十四章 朝の戯れと、洛陽街道の英傑たち

翌朝、蘇然(そぜん)は大きくあくびを噛み殺しながら、秀(シュウ)に優しく肩を揺すられて目を覚ました。寝ぼけ眼を擦り、情けない声を漏らす。

「秀……頼むから、もう一眠りさせてくれ……。昨夜はあの頑固爺さんに散々……痛っ!」


秀が蘇然の脇腹の肉をキュッとつねり、眉を吊り上げた。

「夫君!」


「わ、分かった、分かったって! 伯父上、伯父上だ!」

蘇然は目を丸くして秀を見つめた。(一体どこでこんな痛いお仕置きを覚えてきたんだ……?)


「早く起きてくださいませ。夫君がまだ夢の中にいらっしゃるなら、妾身(わたくし)だけでも先に起きて身支度を……」


「ダメだ!」

蘇然は秀の細い腰を抱き寄せ、布団の中へぎゅっと引き戻した。


「もう、夫君ったら……」

秀は甘えるように声を上ずらせた。

「今日は妾身の両親のお墓参りに行くお約束でしょう? まさか夫君、忘れてはおられませんよね……?」


秀が小さく唇を尖らせてすねてみせるのを見て、蘇然は慌てて機嫌を取った。

「忘れるわけないだろ! ……ただし」蘇然は悪戯っぽく口元を歪めた。「起きる前に、チュッてしてくれたらな!」


「まあ、この悪党め!」

昨日あれほど散々いじめておいて、まだ足りないというのか。秀は唇を噛み、恥ずかしそうに蘇然の頬へチュッと唇を寄せた。


「違う違う!」蘇然は自分の唇を指差した。「ここだよ、ここ!」


「……もう、本当に怒りますわよ?」


「起きる! 起きますってば!」

蘇然は冷や汗を流して飛び起き、慌てて衣服を引っ掛け始めた。


「ふふっ……」

秀は鈴を転がすように微笑むと、身を起こして両手で夫の顔を包み込み、その口元へ甘やかな口づけを落とした。

「夫君は本当に意地悪。いつも秀を困らせてばかり……」


「そんなことないさ!」蘇然は満面の笑みを浮かべた。「秀を愛してやまないだけだよ!」

そう言い残し、蘇然は秀の唇へもう一度深く口づけを重ねてから、ご機嫌で寝台を降りた。


(愛……)

秀は夫に口づけられた唇を指先でそっと押さえ、呆然と佇んだ。胸の奥に溢れんばかりの羞恥と歓喜が渦巻く。

(秀は……何と果報者なのでしょう。これほど慈しんでくださる殿方を夫に迎えることができて……)


「起きろー! 朝だぞー!」

蘇然は日頃の鬱憤を晴らすかのように、陶応の部屋の戸をドンドンと乱暴に叩いた。


「何を朝から騒ぎ立てておるのだ……」

中から陶応の気だるげな声が返ってきた。

「どうした守義、昨夜は深夜までみっちり絞られたのか?」


「……お前、なんでそれを知ってるんだ?」蘇然の眉が引きつる。


「某らはあの王允が暴挙に出るのではと警戒しておったのだ!」

背後から方悦が歩み寄ってきた。

「だが、中庭の様子を窺うに先生に危害は及ばぬと見えたゆえ、安心して寝所へ引き揚げたまで」


(なんだ、ちゃんと護衛が控えててくれたのか……)

蘇然は目を瞬かせた。それならもっと強気に出ておけばよかった。朝から儒学の書物を読まされる羽目になることもなかったのに!

(十何年も受験勉強に追われて、古代に来てまでまた宿題を出されるのかよ……しかも秀まで監視役を買って出る始末だし……トホホ)


「陶将軍、方将軍……おはようございます」

身支度を整えた秀が歩み寄ってきた。


「滅相もございません、蘇夫人!」

二人は背筋を正して拱手した。蘇然の妻であるというだけでなく、彼女の武芸が自分たちと同等かそれ以上であることを知っているため、敬意は本物であった。


「本日もまたお二人にお力添えをいただくことになります」秀は穏やかに微笑んだ。

「伯父の話では、近頃はこの洛陽の近郊とて治安が芳しくないようですので……」


「お任せあれ! 某らが命に代えてお守りいたします!」


「では、妾身はお供えの品を整えてまいりますね」

秀は軽く会釈し、台所へと向かった。


秀の後ろ姿を見送るや否や、陶応がニヤニヤしながら蘇然の肩を組んできた。

「おいおい守義、貴様の奥方は……実に天下に二人とない絶世の佳人だな。某もあのような女子を娶れるなら、寿命が十年縮んでも構わんぞ!」


「よせよ」蘇然は陳登から聞かされた陶応の放蕩ぶりを思い出し、ジト目で睨んだ。

「そんなに羨ましいなら、自分でも嫁をもらって陶謙大人に孫の顔を見せてやったらどうだ?」


「うちの親父にか?」陶応は口端を歪めて冷笑した。

「息子が生まれたって、親父の顔など拝ませてやるもんか! 俺一人が親父のせいで散々苦労してきたってのに、我が子にまで同じ地獄を味わわせてたまるかよ」


「……はいはい」蘇然は呆れて首を振った。「ほら、行くぞ」


「待て待て!」陶応が呼び止める。


「何だ?」


陶応は衣服の乱れをサッと正し、腰の佩刀がしっかりと帯に収まっているかを確かめると、一瞬にして遊び人の顔から精悍な武将の面構えへと戻り、重々しく言った。

「先生、どうぞお通りを!」


「…………」

蘇然は陶応を一瞥し、知らん顔で歩き出した。


方悦が怪訝そうに尋ねる。「何をしておるのだ?」


「おいおい、分からんのか?」陶応が蘇然の後を追いながら囁く。「今の我らは護衛だ。護衛たるもの、それ相応の威風と風格を保たねばならんのだよ!」

「……なるほどな」


秀の両親の墓は、洛陽城外のほど近い丘陵にあった。

秀の願いを受け、一行は馬車を使わず、穏やかな日差しの中を徒歩で向かうことにした。


都の壮麗な街並みを眺めながら歩く秀の横顔に、微かな翳りが差すのを蘇然は見逃さなかった。

「秀……昔の悲しい思い出が蘇ったかい?」


秀は首を横に振り、小さく微笑んだ。

「いいえ……今の秀には夫君が居てくださいますもの、昔のことに囚われて悲しんだりはいたしません。ただ……幼い日にここを去った時に比べ、洛陽の都が随分と色褪せ、荒廃してしまったように思えて……」


蘇然は秀の手をぎゅっと握りしめた。

「『全きは必ず欠け、極まるは必ず反り、満つるは必ず虧(か)く』——物事が頂点を極めれば、必ず衰退へと向かうのは古今東西の理(ことわり)さ。秀が悲しむことじゃないよ」


——「ほう……そのお言葉、少々朝廷に対して聞き捨てなりませぬな」


軽やかな笑い声が、すぐ傍らから響いた。


「む?」

蘇然が驚いて振り返ると、そこにはただならぬ気品と覇気を漂わせた二人の青年が立っていた。


一人は背が高く、顔立ちは端正で、腰に豪奢な宝剣を佩いた絵に描いたような貴公子。

もう一人はやや小柄ながら、鋭い眼光を放ち、唇の端にどこか皮肉めいた笑みを浮かべた男。声をかけてきたのは、この小柄な男の方であった。


男は蘇然が怪訝そうに見つめるのを見て、鷹揚に笑った。

「失礼、戯れ言にございます。どうかお気になさいますな」


「いえ……して、貴殿方は?」


「某(それがし)か? 某は姓を曹、名を操、字を孟徳と申す!」


(——曹孟徳ッ!?)

蘇然の目が限界まで見開かれた。


「そしてこちらは、某の無二の親友……」


「名乗りなど自分でいたす!」長身の貴公子が遮った。

「某は袁紹、字は本初である!」


(袁紹……!?)

蘇然は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

天なる神よ……! 北方の覇権を争い、三国時代の幕を開ける二大巨頭が、今まさに目の前に並んで立っているというのか!?


呆然と立ち尽くす蘇然を見て、曹操は気を悪くした様子もなくカラカラと笑った。

「先生、某らに名を名乗らぬとは、もしや某らのような無頼漢はお相手に不足とお思いか?」


「め、滅相もございません!」

蘇然は冷や汗を拭いながら心の中で叫んだ。(天下の曹操様を軽んじる命知らずがどこにいるってんだ!)

「某は蘇然、字を守義と申します……お二人とも、守義とお呼びくだされ」


「守義! ハハハ、良き字(あざな)だ!」

曹操の鋭い双眸が、蘇然の背後に控える陶応と方悦の姿を捉えた。二人の身に纏う濃密な軍気と殺気を見抜き、曹操は蘇然への評価を一段引き上げた。


だが、その視線が秀の姿を捉えた瞬間——曹操の瞳がカッと見開かれた。

(……なんと! 天下にこれほどの絶世の美女が存在したのか……!?)


曹操のあまりに露骨な熱視線に、蘇然の眉間にピキリと青筋が立った。

「……孟徳殿?」

(おいコラ人妻キラー! いくらお前が曹操でも、俺の嫁をジロジロ見てんじゃねえぞ!)


「あ、これは失礼仕った!」

曹操は気まずそうに咳払いし、深々と頭を下げた。

「尊夫人であられましたか。某の不躾、平にご容赦願いたい」


蘇然の憮然とした態度を見て、曹操は己の非を認めて苦笑いしつつ、拱手して尋ねた。

「して守義殿、これよりいずこへ?」


「城外へ親族の墓参りに……」


「おお!」曹操は手を打った。「奇遇にも、某らと同じ道行きではないか。よろしければご一緒いたさぬか?」


無口でプライドの高そうな袁紹に比べ、曹操はずっと気さくで話しやすかった。蘇然は首を傾げた。

「孟徳殿も城外へ?」


「いやいや!」曹操は苦笑交じりに首を横に振った。

「天子より済南の知事に任ぜられましてな。洛陽を離れ、任地へ赴く途上にございます」


(なるほど……黄巾の乱で功を立てて、いよいよ歴史の表舞台に躍り出た時期か)

蘇然は得心し、拱手した。「それは大儀なこと。孟徳殿の栄達、心よりお慶び申し上げます」


「栄達などと……すべては大漢のために我が身命を捧げるまでのこと!」

曹操は誇らしげに語ったが、ふと視線を落とし、言葉を濁した。

「某はかつて大志を抱き、熱き血潮をもって逆賊を討ち滅ぼし、この手で大漢を清き世に戻さんと誓った……。されど、世事とはままならぬもの。今の朝廷の体たらくは……」


「孟徳ッ!」袁紹が冷たい声で一喝した。「言葉を慎め!」


「フッ……」曹操は自嘲の笑みを浮かべ、蘇然に向き直った。「守義殿、お見苦しいところをお見せした」


「……滅相もございません」


城門が近づくと、街道の脇に曹家の家臣や馬車がずらりと控えているのが見えた。

曹操は馬に手をかけ、蘇然へ向けて豪快に拱手した。

「守義殿のような風雅の士と知己を得られたこと、この曹孟徳、真に生涯の幸甚にございます! これにて御免!」


「道中、ご無事で!」


曹操と袁紹は馬上に跨がった。袁紹が手綱を引き、曹操の横へ馬を寄せて怪訝そうに囁いた。

「おい孟徳。まさか貴様、あの女の美貌に目を奪われて良からぬ気を起こしたのではあるまいな?」


「滅相もないことを申すな!」

曹操は微笑み、先ほど見送った蘇然の佇まいを思い返した。

「あの蘇守義……ただ者ではないぞ」


「ふん」袁紹は鼻を鳴らし、見下すように言い捨てた。

「某には単なる貧相な書生にしか見えんかったがな! やはりあの美姫に惑わされたのだろ!」


「ハハハハッ!」

曹操は馬腹を蹴り、春風を切り裂いて大歓声を響かせた。

「洛陽を去れば、天は高く地は広い! 征西将軍の座など、この曹孟徳が必ずや手中に収めてくれるわッ!」


「ケッ!」袁紹は苦々しく吐き捨て、後を追った。

「征西将軍だと? 男たるもの、目指すなら三公の頂よ! 将軍など何ほどの価値がある!」


「ハハハハハ……ッ!」

「待て孟徳! 駆け比べる気か! ハッ!」


若き日の二人の英傑は、並んで大地を疾走していった。

その蹄の音を聞きながら、蘇然は秀の手をぎゅっと握り直し、歴史の激流がすぐ足元まで迫っているのを肌で感じていた。

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