第六十三章 月下の枯木と、王允の「為官の道」
蘇然は眉をひそめ、扉の前に佇む王允を無言で見つめた。
「夫君……?」
奥の寝台から、秀が不審そうに声をかけてくる。
「……」
王允は深く息を吐き出し、蘇然をじっと見据えて言った。
「守義、儂について参れ」
蘇然は小さく頷くと、部屋へ振り返って秀に「すぐ戻る」と言い含め、王允の後に続いた。直感が告げていた——この老人は今、自分に危害を加えるつもりはない、と。
寝台に残された秀は、眉根を寄せてしばし思案に耽っていたが、意を決したように上着を羽織ると、足音を忍ばせてそっと部屋を抜け出した。
王允が蘇然を連れて向かったのは、中庭の老木の木陰であった。
そこには円形の石卓が据えられ、二脚の石腰掛けが置かれていた。卓上には幾皿かの肴と、酒器が用意されている。
「座れ」
王允は料理を指し示し、自ら腰を下ろした。
「守義よ、老夫と少し酌み交わす気はあるか?」
(こんな真夜中に庭先で一杯だと? 頭のネジが外れたのか……?)
蘇然は言葉を返さず、訝しげに左右を見回した。(この爺さん、一体何の腹芸を企んでるんだ?)
王允は手ずから二つの盃に酒を満たした。蘇然が礼の言葉一つ口にしないのを見て、僅かに眉を動かしたが、やがて自嘲気味に首を振って己の盃を一気に干した。
「守義……」
王允は傍らにそびえる大木を指差し、重々しく問うた。
「お主、これがいかなる木か分かるか?」
「一本の木ですね。何の木かは知りませんが」
王允は薄く微笑み、首を横に振って力強く言い放った。
「——これぞ、大漢である!」
(……出たよ、わけの分からん文学的表現が)
蘇然は木を見上げた。葉は一枚残らず落ち散り、枝先も寒風に晒されて枯れ果てている。だが、それが大漢と何の関係があるというのか。
「枝葉は枯れ落ちようとも、その内には未だ瑞々しき命の息吹が宿っておるのだ!」
王允はカッと眼を見開き、蘇然を射すくめた。
なるほど、この老人は大木を大漢帝国に見立てて語っているのだと、蘇然は合点がいった。
だが蘇然は首を振り、冷ややかに言い捨てた。
「残念ながら、この木が枯らしたのはただの枝葉ですが、大漢が損なったのはその『根幹』ですよ」
「…………」
王允は言葉を失い、呆然と固まった。無言で酒を注ぎ、喉の奥へ流し込む。
「……大漢の四百年の命脈、我ら臣下の代で断ち切らせるわけには断じてゆかぬのだ!」
蘇然は王允の横顔を眺めた。偏屈で頑迷だが、この帝国の行く末に本気で命を削っていることだけは確かだった。
「先ほどの宴席では、お主は大漢の弊害ばかりをあげつらった……。では、打開の良策はあるのか?」
王允は蘇然を見つめ、声を落とした。
「……警戒は無用だ。ここに居るのは司徒の王允ではない、ただの秀児の伯父だ。胸襟を開いて存分に語るがよい」
(存分に語れ、だと? さっきそれで大激怒したばかりだろうが!)
蘇然の顔が怪訝そうに歪む。
「申してみよ……ここには儂とお主の二人しかおらん。屋敷の者どもは全て下がらせた」
「そんなの、至って単純じゃないですか」蘇然は探るように口を開いた。
「朝廷から宦官と外戚を綺麗さっぱり排除すればいい」
「単純、だと……?」王允は苦笑を漏らした。「言うは易く、行うは難しだ!」
(本当に罠じゃないのか?)
蘇然は自棄酒のように杯を重ねる老人を胡散臭そうに見つめた。
「守義は知るまいがな……」王允は首を振った。
「国庫は空虚の極みだ。重税を課さねば、朝廷そのものが立ち行かぬのだ……」
「その集めた税の大半が、皇室や宮中の贅沢三昧に消えているのが現実でしょうが」
蘇然の現代人としての毒舌が、思わず口を衝いて出た。
「き、貴様……!」
王允は指を突きつけ、カッと目を見開いたが、必死に怒りを飲み込んだ。
「普天の下、王土にあらざるはなし! 天下が天子の統べるものである以上、多少の豪奢など……多少の……」
『多少』という言葉に自分でも無理があると感じたのか、王允は気まずそうに言葉を濁し、強引に取り繕った。
「それもこれも、天子の側近くに侍る佞臣どもが唆したゆえだ! 我らは大漢の臣民である以上、国に報いるのが人の道というものだ!」
蘇然は白目を剥き、杯の酒を飲み干して寒そうに身を縮めた。
(真夜中に老いぼれの説教に付き合わされる身にもなってくれよ……)
「守義、お主は税の理を知っておるのか?」
「少しなら……」蘇然は考えを巡らせて答えた。「民から幾ばくかの税を徴収し、国がそれを再び民のために還元することですよ」
「…………」
王允は目を丸くし、異様なものを見るような顔で蘇然を凝視した。
「……そのような理、一体どこで聞き知ったのだ?」
「え……? 何かおかしなことでも?」
「税とは、軍備、天災の救済、そして内政を維持するために用いるものだ……『民へ還元する』だと?」
蘇然は口を噤んだ。(しまった……現代の社会保障や再分配の概念をそのまま持ち込んでしまった。紀元前の封建時代に通じるわけがない……)
「……民へ還元する、か」王允は白髭を撫で、自ら納得するように呟いた。「なるほど……天災時の飢民救済のことを言っておるのだな?」
「え、ええ……まあ、そういうことです……」
「ハハ! 縮こまるでない!」王允は蘇然のぎこちない態度を見て破顔した。
「宴の席で儂を『老いぼれ』と怒鳴りつけたあの勢いはどこへ行ったのだ?」
(あれはアンタがあんまり理不尽にキレるから、こっちのリミッターが外れただけだろ……)と蘇然は唇を尖らせた。
「では、もう一つ問う。税がどれほど重い意味を持つか、理解しておるか?」
蘇然は頷き、促す王允へ淡々と答えた。
「軍備と内政……前者は軍を強くし、後者は国を富ませる。そして飢饉の救済……」蘇然は王允をチラリと流し見た。
(この小僧め……!)
王允は気まずそうに咳払いをした。近年、国庫の金を赈災に回せていれば、黄巾の乱などという大火種が燃え広がるはずもなかったのだ。
「お主を見ていると、儒学の書物を修めた形跡はないが、天下の理には恐ろしいほど通じておる……。先ほど宴で『役人が無能ゆえ民が苦しむ』と申したな。ならば問うが、もしお主が官吏の職に就いたなら、どのように国を治めるのだ?」
「俺ですか?」蘇然は少し考え、答えた。
「民のために、実利のある仕事を黙々とこなすだけですよ」
「言うは易しだ!」王允は髭を撫でて笑った。「お主に『官吏としての立ち居振る舞い』が分かっておるのか?」
蘇然は対抗心を燃やして言い返した。「どんな役職に就くかによって変わるでしょう!」
「ほう?」王允は眉を上げた。「いかなる違いがあるというのだ?」
「全然違いますよ」
王允は試すように問うた。「……ならば、一県の頂点たる『県令』を任されたなら?」
「言葉を少なくし、行動を多くする!」
「む?」王允は首を傾げた。「……では、一州を束ねる『州牧』ならば?」
「言葉を尽くし、行動も尽くす!」
「…………」王允は蘇然を凝視した。「ならば……儂のような三公、朝廷の頂点に座る身ならば?」
蘇然は王允の目を真っ直ぐ見据え、あっけらかんと言い放った。
「言葉を慎み、手出しも控える!」
「…………!!」
王允はしばし熟考し——ハッとその深意を悟るや、机を激しく叩いて低く叱責した。
「それは身を守るための保身の術であって、真の官吏の道ではないッ! 守義、そのような浅ましい処世術に染まってはならんぞ!」
(……へぇ、この爺さん、言わんとしていることを一瞬で見抜いたか)
蘇然は心底驚嘆した。三公にまで上り詰めた男の政治的嗅覚は、決して伊達ではない。
王允は蘇然をじっと見つめ、惜しむように嘆息した。
機敏にして慧眼、だが道を踏み外しかけている。これほどの器が保身に走るなど、惜しんでも余りある。
「……先ほど、書物を読んだことがないと申したな?」
(大学くらいは出てるっつーの!)
蘇然は苦笑いを浮かべ、頷いた。「ええ、読んだことはありません」
「惜しい……誠に惜しいことだ」王允はため息をついた。
「明日にでも、儂の蔵書から良書を何冊か貸し与えてやる。じっくりと精読するがよい。必ずや己の糧となろう」
(げっ……!? 漢文の宿題を出されるのかよ……!?)
蘇然はポカンと口を開けて絶句した。
「——そこにおるのは分かっておる。出てまいれ」
ふいに王允が、庭の暗がりへ向けて静かに呼びかけた。
蘇然が驚いて振り返ると、植え込みの影から秀がしとやかに歩み出てきた。
蘇然は慌てて立ち上がり、駆け寄った。
「おい秀! 夜風が冷たいのに、何で出てきたりしたんだ!」
「夫君を儂が手打ちにでもするのではないかと、気が気でなかったのだな」
王允が自嘲気味に笑った。
秀は恥じ入るようにうつむいた。
「伯父様のお心を疑ってしまい……秀は顔向けもございません……」
「よいのだ。儂はただ、お前の夫と少し膝を交えて語り合いたかっただけだ。守義、座れ。まだ話の続きがある」
しかし、石腰掛けは二つしかない。秀を一人で部屋へ帰す気にもなれず、蘇然はどっかりと腰を下ろすと、自分の膝の上をポンポンと叩いた。
「ほら秀、ここにおいで」
秀は王允の目の前でそんなことを言われ、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
(もう……伯父様の前でなんてことを……!)
だが、寒風の中で夫に呼ばれる愛しさに抗えず、秀は俯いたまま、おずおずと蘇然の膝の上へと腰を下ろした。
「…………」
王允は目の前の光景に絶句し、眉間を押さえて激しく咳き込んだ。
(こ、この若造……天下の三公の眼前で、なんと破廉恥な……!)
蘇然は平然とした顔で秀の腰を支え、王允を見据えた。
「……それで、伯父上の仰りたいこととは?」
『伯父上』という呼び名が出た瞬間、蘇然の胸元に寄り添う秀の顔が、感謝と喜びにパッと輝いた。
その二人の様子を見つめ、王允の老いた胸の内にも、確かな温もりが広がっていった。彼は居住まいを正し、厳粛に語り始めた。
「守義よ。お主には並外れた才がある。だが、決して驕ってはならんぞ。天下には計り知れぬ英傑が満ちておるのだ。大漢の弊害を直言したその気概、無礼極まる物言いではあったが……突いている核心は真実だ。されど、朝廷の暗闘の深さを知らぬまま、天下の官吏を一色だに『無能』と決めつけるのは、お主の未熟さゆえだ」
「いや……俺はただ……」蘇然は気まずそうに頭を掻いた。
「まあよい。若さゆえに朝臣の賢士たちを知らぬのだ、咎めはすまい」
王允は秀の幸せそうな横顔を見つめ、感慨深げに目を細めた。
秀の亡き父親も、この蘇然と同じように傑出した才を持ちながら、己の正義感を曲げられず、悪を憎みすぎるあまりに命を落としたのだ。
王允は諭すように、重々しく言った。
「我らは皆、大漢の臣民だ。国を正すために力を尽くすべきなのだ。守義、これからは決して軽はずみな逆賊の言葉を口にしてはならんぞ。さもなくば……儂とて容赦はせんからな」
秀は王允が夫を完全に許してくれたことを悟り、蘇然の袖をクイクイと引っ張った。
「……伯父上の仰る通りです」蘇然も苦笑いして頭を下げた。
秀が夫をたしなめ、蘇然も素直にそれを受け入れる姿を見て、王允は心底から安堵した。良き夫婦である。
「よし、夜も更けた。二人とも部屋に戻って身体を休めるがよい」
王允が立ち上がると、秀も慌てて蘇然の膝から降り、夫の腕を引いて立ち上がらせた。
王允は去り際に足を止め、口元に微かな笑みを浮かべて振り返った。
「書を読まねば、天下の真の理は分からん。それに……」
老人の眼光が、蘇然を逃さぬように捉える。
「お主は今や儂の姪の夫だ。この王允が放置しておくはずがなかろう。明日からは儂について回り、朝廷と天下の現実をつぶさに学んでもらうぞ。世の中は、お主が思うほど単純ではないのだ!」
「……え?」
蘇然の顎が外れそうになった。(うそだろ……俺、勉強合宿させられるのか……!?)
「おっと!」王允は手を打った。「明日は両親の墓参りであったな。……ならば、明後日からだ!」
「ゆめゆめ忘れるでないぞ、守義!」
呆然と立ち尽くす夫の横で、秀は満面の笑みを浮かべて深々と礼を執った。
「はい、伯父様! 秀が責任を持って、夫君にしっかりお供させますので……!」
蘇然の顔が、絶望に青ざめていった——。




