第六十二章 痛罵の余波と、深夜の来訪
「これ……どういう状況だ?」
蘇然は卓を囲む面々の凍りついた顔を見回し、呆気にとられて口を半開きにした。
「き、貴様……何という大逆無道ッ!」
王允の怒りは天を衝き、激昂のあまり立ち上がった。「誰かッ! 者どもッ!」
「伯父様……!」
秀の胸がきゅっと縮み上がり、慌てて立ち上がって懇願した。
「秀にとって、この世に残された肉親は伯父様と夫君のただ二人……どうか、どうか亡き父の顔に免じて、夫君の一言をご容赦くださいませ……伯父様……!」
「…………」
瞳を真っ赤にして涙をためる秀の姿に、王允の表情が一瞬凍りついた。深く眉をひそめ、激しい葛藤に胸を苛まれる。
「旦那様……」
管家が屈強な下僕二人を連れて広間へと駆け込んできた。
その緊迫した空気を察した陶応は、素早く方悦へ目配せした。二人は「便所へ行く」と適当な口実を作って広間を抜け出すと、屋敷の要所を一瞥し、いざとなれば暴れて脱出できるよう、密かに大門への退路を塞ぐ位置へと陣取った。
糜貞はキョロキョロと辺りを見回し、ペロリと舌を出して小さく身を縮めると、皿の上の料理をじっと見つめて息を殺した。
「伯父様……」
秀がなおも哀願しようとした、その時であった。
蘇然が立ち上がり、秀の傍らへ歩み寄ると、その細い手首を取ってグイッと引き上げた。
「立つんだ、秀!」
秀は「夫君……!」と腹立たしさと不安の入り混じった目で睨んだが、蘇然の瞳に宿る頑なで真っ直ぐな光を見るや、唇をキュッと噛みしめ、大人しく立ち上がった。
「……はい、夫君」
王允は目を見張り、この傲岸な青年に息を呑んだ。(この小僧……この期に及んで……!)
「俺の言ったことが正しいか間違っているか、自分で胸に手を当ててよく考えるんだな!」
蘇然は王允を指差し、容赦のない怒号を叩きつけた。
「だが、これだけは絶対に忘れるなよ。この天下は劉氏の天下である前に、生きている民衆の天下なんだよッ!!」
「な……!?」
「黄巾があれほどの大勢力になった理由を、一度でも考えたことがあるのか!?」
蘇然は冷笑を浮かべた。本気で怒り狂っていたのだ。この頑固ジジイの頭にあるのは、腐り果てた劉氏皇室への盲目的な愚忠だけではないか!
「もし天下が泰平で民が飯を食えていたなら、誰が好き好んで黄巾賊なんぞになるってんだ!?」
王允に「思う存分語れ」と煽られて本音を言った途端に手のひらを返された怒りも手伝い、蘇然の声は一際高く響き渡った。
「俺に言わせりゃあな、こんな腐った朝廷なんぞ、いっそのこと——」
「口を慎まんかッ!!」
王允は顔を真っ赤に沸騰させ、絶叫して言葉を遮った。
この不届き者めが! 秀の顔を立てて穏便に済ませようかと思い直しかけていたというのに、あろうことか朝廷の存在そのものを否定する暴言を吐くとは!
「痴れ者めが! 儂が貴様を斬れぬとでも思うてかッ!!」
王允の眼孔に、ギラリと冷酷な殺意が宿る。
「天下の政は天下の民が論じるものだ! 民の心の叫びを理不尽にねじ伏せるような真似をしていれば、いずれ天下を巻き込む大災厄を招くだけだぞ、この老いぼれがッ!」
「なっ……老いぼれだと!?」
天下の三公たる司徒が「老いぼれ」呼ばわりされたのだ。王允はあまりの衝撃に身体を痙攣させた。
「き、貴様……! 儂が貴様を地下牢へ叩き込み、逆賊の大罪人として処刑できぬとでも思うておるのかッ!?」
秀は青ざめ、必死に蘇然の手を握りしめて「もうおやめになって」と目配せを送った。
だが、蘇然は一歩も引かなかった。
「ふん! もし俺が運良く生き延びたら、漢室にたっぷりとお礼参りをしてやるよ! 一事が万事だ。大漢の役人がどいつもこいつもアンタみたいに皇帝のご機嫌取りばかりで、天下の民の苦しみなどこれっぽっちも見ようとしないならな……こんな朝廷、潰れてしまえばいいんだッ!!」
空前絶後の逆言に、広間の全員が息を呑んで凍りついた。
扉の外で待機していた陶応と方悦は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
陶応は首を振り、肩をすくめる。
「二か月も馬車に揺られて洛陽に着いた途端……もう徐州へとんぼ返りかよ。蘇先生って人は本当に……」
「いや!」
方悦の瞳には、かつてない崇敬の念が宿っていた。
「先生の胸の内には常に民の苦しみがあるからこそ、あのような言葉が出るのだ。もしあの老……王允が手荒な真似に出るならば、某ら二人で先生たちを護り、洛陽を血祭りに上げて突破するまで!」
「へへっ、違いない!」陶応はニヤリと笑い、腰の佩刀の柄に手をかけた。
方悦は手元を見つめ、(屋敷に入る時、長槍を預けてしまったのが失敗だったな……)と小さく舌打ちした。
広間の中では、王允が怒りのあまり卓を激しく叩き続けていた。
「不届き千万! 恥知らずめが!!」
そして、怒りの矛先を秀へと向けた。
「秀児ッ! これが……これが貴様の見初めた夫の正体かッ!?」
秀は蘇然の手を強く握りしめ、王允を真っ直ぐに見据えて凛と言い放った。
「伯父様、どうかお聞き分けくださいませ……夫君は無分別に暴言を吐くような方ではございません。幼い頃、亡き父も秀に教え諭してくれました。『天下は民の天下である』と。秀は夫君の気性を信じております。断じて反逆を企むような悪人ではございません……。もし伯父様が夫君を捕らえようとなさるなら……」
秀は唇を噛み、固い決意を込めて告げた。
「……姪の無礼、平にご容赦のほどを」
「お、前……」
王允は愕然として立ち尽くした。
秀の口から出た拒絶の意志、そして自分と夫を庇う頑なな姿勢。かつて無邪気だった姪との間に、修復しがたい冷たい溝が穿たれたのを悟った。
蘇然もまた、鋭い視線を王允へ突き刺していた。
(どうせあと数年もすれば董卓が乗り込んできて皇帝の権威なんざ消し飛ぶし、アンタ自身も城壁から飛び降りて無残に死ぬ運命なんだよ。今さら牢獄に入れられようが知ったことか!)
最悪、秀を連れて人里離れた深山に隠居したっていい。口を開けば仁義忠誠を騙り、腹の中では皇室と自らの家名のことしか頭にない特権階級の偽善者どもに、一泡吹かせてやりたかったのだ。
「司徒、アンタはきっと『易子而食(飢えて互いの子を交換して食らう)』の地獄絵図なんて見たこともないんでしょうね……たまにはその温かい屋敷を出て、城外の泥水を啜る民の姿でも見てきたらどうです?」
蘇然の冷ややかな嘲笑が突き刺さる。
王允の赤く沸騰していた顔が、一瞬にして土気色へと変わった。
拳を握り締め、怒りと屈辱に満ちた視線を秀と蘇然の間で行き来させる。
やがて深く、重い息を吸い込むと、控えていた管家を怒鳴りつけた。
「何をぼさっと突っ立っておるかッ! 客人を客房へ案内せんかッ!!」
バサリと袖を払い、王允は振り返りもせず奥の間へと姿を消した。
こうして、司徒府での歓迎の宴は、最悪の後味を残して破談となった。
管家はおずおずと進み出た。先ほどの大逆無道の暴言を聞いていたが、主人が捕縛を命じなかった以上、丁重に扱うほかない。
「皆様……どうぞ、こちらへ」
蘇然は憮然として鼻を鳴らした。
(ふん……我ながら危ない橋を渡っちまったな。あの老いぼれが本気で衛兵を呼んでたら、今頃は市中引き回しの上で打ち首獄門だったぞ)
少し反省しつつも、歴史の現実に押し潰されそうなこの時代への苛立ちが消えない。秀を連れて平和な現代へ帰れたら、どれほど幸せだろうかと夢想する。
秀はそっと蘇然の手を握り、柔らかな笑みを向けた。
言葉を飾らず、胸の内をそのまま吐き出してしまう夫の危うさを誰よりも理解している。
(明日、ご両親のお墓参りを済ませたら、一刻も早く徐州へ帰ろう……)と秀は心に決めた。
一方、今まで息を殺していた糜貞は、胸を撫で下ろしながら蘇然の背中をキッと睨みつけた。
(この大嘘つきのケチ、本当に口が災いの元なんだから! 大馬鹿者! あれが謀反の罪になるって分からないの!? 心の中で思ってても、口に出したらおしまいじゃない! バカバカ、大バカ者!)
案内された客房は、蘇然と秀が一室、隣が糜貞、そしてその両脇を挟むように方悦と陶応が陣取った。
陶応は蘇然とすれ違いざまに目配せし、「夜中は用心してくださいよ」と小声で囁いた。
部屋に入ると、秀が夫の長衫を優しく脱がせながら言った。
「夫君……明日、両親のお墓に参りましたら、すぐに洛陽を立ちましょう。父も生前、『秀は洛陽に近づいてはならぬ』と申しておりましたゆえ……」
蘇然は秀の黒髪を愛おしそうに撫でた。
(蘇然、お前は本当に大馬鹿野郎だ。今の自分には守るべき妻がいるんだぞ。天下の不条理を一人で背負い込んでどうする。もう二度とこんな無茶はすまい……)
「……ああ、そうしよう」蘇然は静かに頷いた。
深夜。屋敷中が静まり返る中、王允はただ一人、書斎の机に向かって立ち尽くしていた。
卓の上に置かれた筆を執り、震える手で紙の上に大きく、ただ一文字を書き殴る。
——『漢』。
その文字を見つめる老臣の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。
『天子は昏庸極まりなく、宦官と外戚が朝政を貪り、官吏は無能にして民を苦しめ、苛政と重税で民には生きる道すらない……』
蘇然の放った痛烈な刃が、王允の老いた胸を容赦なく抉り続けていた。
「高祖よ……四百年の大漢は、真に……真にここで尽き果てるというのか……」
王允は呻くように息を吐き、書斎の扉を開けて庭先へ出た。
冷たい月光が、初老の臣のやつれた顔を照らし出す。
大将軍・何進と、十常侍の張譲。私利私欲のために権力を奪い合う者たちの顔が浮かんでは消える。
中庭に植えられた老木の幹に手を触れると、冬の寒風に晒されながらも、微かに樹皮の下に瑞々しい生命の気配が残っていた。王允は小枝を一本折り取り、その青い断面を見つめて、微かに口元を緩めた。
「我が大漢の命脈は、百世の後まで受け継がれねばならぬ……!」
王允は小枝を握り締め、暗がりの中で激しく呟いた。
「蘇然、蘇守義……。傲慢にして無礼、礼節を知らぬ頑迷な若造よ。……されど、その大局を見通す眼力、天下を測る謀略は、紛れもなく古今に稀なる天稟……!」
王允の瞳に、執念の炎が燃え上がった。
「あのような怪物を、大漢のために使わずに放置しておけるものかッ!!」
老人は踵を返し、迷いのない足取りで蘇然たちの客房へと向かった。
ドンドンドン! ドンドンドン!
「夫君……!」
秀が蘇然の肩を揺すり、緊張した面持ちで囁いた。「夫君、どなたかが戸を叩いておいでです……」
「放っとけって……」蘇然は毛布を引き寄せ、寝ぼけ眼で愚痴った。「さっき激しく体力を消耗したばかりで死ぬほど眠いんだよ……こんな夜中に誰だよ……」
「陶将軍たちでしょうか……? いえ、まさか伯父様が旧情を捨てて兵を……!? 妾身が見てまいります!」
「待て待て!」
飛び起きようとした秀を制し、蘇然が慌てて立ち上がった。
「俺が出る! お前は冷えるから布団に入ってろ!」
寒さに震えながら上着を引っ掛け、足音荒く扉へと向かう。
苛立ちに任せて閂を乱暴に外すと、蘇然は怒鳴りつけた。
「夜中に人の邪魔すんじゃねえよ、どこの不届き……も……の……」
途中で、言葉が喉に張り付いた。
扉の前に立っていたのは、他でもない王允であった。
その両眼は深く落ち窪み、血走り、青白くやつれ果てたその顔は、わずか数刻の間に十歳も年老いたかのように見えた——。




