第六十一章 宴席の舌戦と、痛烈なる直言
「おい、そこの二人!」
蘇然は遠くでニヤニヤと盗み笑いをしている方悦と陶応に向かって声を張り上げた。覗き見や立ち聞きをするなら、堂々と近くに来ればいいものを、なぜあんな遠くで縮こまっているのか。
二人はバツが悪そうにヘラヘラ笑いながら小走りで戻ってきた。蘇然は呆れて首を横に振り、秀をエスコートして司徒府の門をくぐった。糜貞は物珍しそうに豪壮な屋敷のあちこちを見回しながら、そそくさと秀の隣に張り付く。馬車や荷物は、心得た屋敷の下僕たちが丁重に引き取っていった。
一同が大広間の席に通されると、王允は下僕に命じて湯気の立つ茶を運ばせ、慈愛に満ちた眼差しで秀を見つめて口を開いた。
「秀児、この何年、さぞやつらい思いをして生きてきたのであろうな……。それにしても、なぜもっと早く伯父を頼って洛陽へ来なんだのだ? 見よ、このやつれようを……ああ!」
そう言って、王允は猛烈な殺気を込めて蘇然をギロリと睨みつけた。
(おいクソ爺、俺がいつ秀をやつれさせたってんだ! 秀がお前を頼って都に来てたら、後で董卓と呂布の間でいいように政治の生贄に仕立て上げられてただろうが!)
蘇然は心の中で悪態をつきながら、茶碗を手に取って苦い顔で啜った。
「伯父様、ご冗談を……」
秀は蘇然へ熱い情愛の視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「以前は確かに寂しく心細い日もございました。ですが、今は……」
秀は薄く紅を引いた唇を噛み、恥ずかしそうに頬を染めて、ただ甘く微笑んでみせた。
(ふん、見ろよ!)
蘇然は王允へ勝ち誇ったような視線を投げ返した。
(秀は俺のそばにいるのが一番安全なんだ。少なくとも、俺は自分の身代わりにして嫁を危険に晒すような真似は絶対にしないからな!)
「ふむ……」
王允は痛ましげに息を吐くと、広間の面々を値踏みするように見渡した。ふと糜貞の姿に目を留めて怪訝そうに眉をひそめ、蘇然を一瞥したのち、方悦たちに向かって尋ねた。
「して……こちらの偉丈夫の方々は?」
「河内の者にて、名は方悦、字は子楞と申す! 司徒大人にお目通りいたします!」
方悦は軍人らしく、節度ある見事な軍礼を執った。
「司徒大人に平穏あれ。某は徐州の陶応、字は子承。大人にご挨拶申し上げます!」
さすがは徐州刺史・陶謙の息子である。三公の一角たる「司徒」の権威を知りながらも、少しも物怖じせず涼やかに拱手してみせた。
「うむ! 実に頼もしい若武者たちよ!」
王允は満足げに目を細め、鷹揚に頷いた。先ほどの蘇然に対する冷淡な態度とは、まさに月と鼈であった。
「わたくしは徐州の糜家の娘、貞と申します……司徒様にご挨拶申し上げます」
糜貞が裾を揃えてしとやかに礼を捧げた。名門豪商の令嬢らしい非の打ち所のない礼儀作法に、王允の機嫌はさらに良くなった。
「秀児よ……」王允は再び懐かしげに秀を見つめた。
「あの忌まわしき別れから、もう随分と歳月が流れたな……」
秀は記憶を手繰り寄せるように目を伏せ、静かに語った。
「はい。父と母の遺志に従い、秀が洛陽を離れたのは……八歳の冬でございました」
「八歳であったか……」
王允は首を振り、深いため息を漏らした。
「あの『党錮の禍(宦官による清流派官僚の大弾圧)』の嵐は、あまりに苛烈を極めた……。伯父を恨まないでおくれ。あの時は、儂の力をもってしてもお前の父親を救うことは叶わなんだ。そして、母親までもが後を追うことになろうとは……」
「母は父と深く愛し合っておりましたゆえ、後追い自殺を選びました。あのような気高い母を持てたことは、秀の生涯の誇りにございます……」
「お前という子は……」王允は深く天を仰いだ。
(……おいおい、お茶は飲み干しちまったぞ。メシはまだ出ないのか?)
空腹に耐えかねた蘇然は、お腹をさすりながらキョロキョロと落ち着きなく辺りを見回していた。
その落ち着きのない姿を見咎めた王允が、咳払いをして冷ややかに口を開いた。
「……そなた」
秀が慌てて割って入った。
「伯父様、秀の夫のことは、あざなの『守義』とお呼びくださいませ」
「守義か……あざなだけは立派なものだな」
王允は呟き、秀の顔を立てて少しだけ口調を和らげた。
「守義とやら。お主、平生から書物を紐解き、学問に励んでおるのか?」
「え? 読ん、読んでますけど……」
「ほう」王允は頷き、試すように問うた。「主にどのような古典を修めておるのだ?」
(三国志演義なら隅から隅まで読み込みましたけど……)と蘇然は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
無言で口をパクパクさせる蘇然を見て、王允の額に青筋が浮かんだ。(……まさか我が姪は、学の欠片もない道楽者に騙されたのではあるまいな?)
「『易経』は読んだことがあるか?」
蘇然は口をぽかんと開けた。
「では『詩経』や『書経』は?」
「…………」
蘇然は顔を引きつらせた。(現代人がそんな退屈な古文書を原文で読むわけないだろ……)
「——ならば『論語』は読んだのかッ!?」
王允の声が一段と険しさを増した。
「ま、まあ……少しくらいなら……」
蘇然は居心地悪そうに答えた。嘘はついていない。小学生の国語の教科書にちょろっと載っていたのを覚えている程度だが。
王允は胸を撫で下ろした。儒学者として、論語すら読まぬ男に姪を委ねるわけにはいかないからだ。
「ふむ。して、何か心に残った章句はあるか?」王允は茶を一口すすり、高みから見下ろすように尋ねた。
「……三人行けば、必ず我が師あり」
「…………」
王允は茶碗を握ったまま固まった。
そして悟った。目の前の男が、当たり障りのない誰でも知っている一節でお茶を濁しただけだということを。
蘇然が秀を盗み見ると、秀は口元を押さえてクスクスと肩を揺らして笑っていた。
蘇然の顔が不貞腐れたように引きつる。(この頑固ジジイ、嫁の前で俺に恥をかかせやがって……絶対に許さん!)
もはや蘇然を試す気力すら失せた王允は、一同を宴席へと案内させた。
その道中も、王允は蘇然を親の仇のように睨みつけ続けた。
宴席が始まると、王允は甲斐甲斐しく秀に料理を勧め、方悦や陶応の武勇を褒めそやした。
だが、蘇然の前にだけは露骨に視線を向けようとしない。可愛い姪を誑かした「無能な白面書生」に、愛想笑いを浮かべる義理などないという態度であった。
王允は酒杯を傾け、憂いを帯びた声で秀に問いかけた。
「秀児、洛陽へ至る道中、賊徒に出くわしはしなかったか?」
「賊徒……? あ、伯父様、黄巾のことですか?」
「黄巾の『賊徒』だ!」
王允は苦虫を噛み潰したように訂正し、少し申し訳なさそうに秀を見つめた。
秀が「黄巾」と呼んだのは、完全に蘇然の影響であった。現代人の蘇然からすれば、過酷な重税と飢餓に追い詰められた農民たちが生きるために蜂起したのだから、一方的に「逆賊」と切り捨てるのは筋違いだという持論があったからだ。
秀は蘇然の顔色を窺い、控えめに答えた。
「はい……道中、大きな群れには出くわしませなんだ」
「それは重畳であった……!」王允は胸を撫で下ろし、憤然と髭を揺らした。
「大軍に巻き込まれでもしたらどうなることかと案じておったのだ。まったく、朝廷の威光を恐れぬ不届き者どもめが!」
(出くわしてたら、今ここでお前の高い飯を食えてるわけねえだろ)
蘇然は内心で毒づきながら、テーブルの豚の角煮にガツガツと箸を伸ばした。王允の性格は気に食わないが、司徒府の料理人の腕前だけは一級品であった。
「あの賊の災禍は、一時はこの洛陽をも脅かしかけたのだからな……」王允が重々しく嘆息する。
すると、酒を呷っていた陶応がニヤリと笑って口を挟んだ。
「司徒大人、某らも徐州でその黄巾賊と一戦交えましてな。もっとも、洛陽の守りは鉄壁でしょうから、賊軍ごときが攻め落とすなど土台無理な話でしょうが」
「ほう?」王允は目を瞬かせ、陶応を見直した。「そういえば……徐州刺史の陶謙殿は……」
「我が父にございます!」陶応が胸を張る。
「おお、陶謙殿のご子息であったか!」王允は得心し、興味深そうに身を乗り出した。「して、いずこで黄巾と戦ったのだ?」
「徐州城下にて! 奴らは五万の大軍で城を包囲いたしましたが、我が先生の立てられた神算鬼謀の数々によって、ものの見事に蹴散らされました。黄巾の賊など、恐るるに足りませぬ!」
(もちろん、小生の神がかりな活躍もあってのことだがな……!)と陶応は心の中で付け加えた。
「なに……?」
王允は驚愕して視線を巡らせ、そして——目の前で無心に骨付き肉に齧り付いている蘇然の姿を捉えた。その目尻がピクピクと痙攣する。
「し……守義殿。黄巾の大軍を打ち破ったというのは、まことにお主の仕業なのか?」
王允の眼光が鋭く光った。この粗野で礼儀知らずな若造が、本当に類まれなる軍略の才を秘めているというのか?
「食う時は喋らず、寝る時は語らず!」
蘇然は肉から顔も上げず、論語の名句を盾にして冷ややかに一蹴した。
「…………」
王允は言葉を失い、顔を真っ赤にした。
天下の三公たる司徒に向かって、これほど不遜な口を利いた者がかつていただろうか! だが……この場に及んで論語を引用してくるあたり、決して無学文盲の愚物ではない。もしや、儂の目が見誤っていたのか……?
「夫君……」
秀が困り果てたような懇願の瞳で蘇然を見つめ、卓の下でそっと夫の上着の裾を引いた。
(はいはい、分かりましたよ。嫁の頼みとあっちゃ、角煮を食べる手も止めなきゃな……)
蘇然は骨を皿に置き、手巾で口元と指先を拭うと、淡々と言い放った。
「事実ですよ」
「うむ……!」
王允は息を呑み、胸の内の疑念を確信へと塗り替えた。なるほど、これほどの武功があったからこそ、聡明な秀児がこの男に身を寄せたのだ。
だが、蘇然は一言答えたきり、再び黙り込んでしまった。
王允は待ちきれずに、咳払いをして先を促した。「……して、いかなる軍略を用いたのか、詳しく聞かせてはくれぬか?」
王允はまだ蘇然の「訊かれなければ一言も喋らない現代人オタク」の生態を知らなかったのだ。問われて初めて、蘇然は東門の塹壕戦や疲兵の計、そして相手の裏をかく『換位思考』の戦術を、理路整然と語り始めた。
……半刻後。
「……妙なり……実に見事な用兵術だ……」
髭を撫でる王允の瞳には、隠しようのない感嘆と衝撃が浮かんでいた。
己の老眼を呪わずにはいられない。目の前にいるのは無礼な書生などではなく、天下の兵法を軽々と操る希代の軍略家ではないか!
「伯父様……?」秀が心配そうに呼びかけた。
「いや、何でもない!」
王允は破顔し、上機嫌で手を振った。
「守義よ、お主が古典に疎いのは、儒学ではなく兵法謀略の道に没頭しておったからなのだな! これほどの才覚、実に天晴れだ!」
「まあまあ、普通ですよ……」蘇然が気のない返事をする。
「普通……?(謙虚な若者よな、と好意的に解釈しつつ)」
王允は身を乗り出し、目を輝かせて核心の問いを投げかけた。
「して守義、お主のその慧眼をもって、目下の朝廷の時局をどう見る? 遠慮はいらぬ、思うところを存分に語ってみよ! 国家を安寧に導く良策があるならば、是非とも聞かせてほしい。儂にお主の天下を論ずる器量を披露してみせよ!」
「……本当に言ってもいいんですか?」
蘇然は胡散臭そうに王允を見つめた。
「ハハハ! 構わん、無礼講だ。胸襟を開いて語るがよい!」
蘇然は酒をクイッと飲み干すと、現代の歴史教科書通りの事実を、あっけらかんと並べ立てた。
「皇帝は愚鈍で昏庸極まりなし。宮中では宦官と外戚が好き勝手に権力を貪り、朝堂の官吏どもは無能揃いで民を苦しめるばかり。その上、苛政と重税で民の生きる希望を根こそぎ奪い取っている。……一言で言えば、大漢帝国はもう詰みですよ。救いようがありませんね」
淀みなく言い放った蘇然は、ふと周囲の異様な静寂に気づいた。
(あれ? なんで誰も相槌を打たないんだ……?)
見回すと、方悦と陶応は杯を口に運んだまま石のように硬直しており、糜貞は口をあんぐりと開けて固まり、秀は青ざめて夫の袖を必死に握りしめていた。
そして正面の王允を見やると——。
老人は全身を小刻みにワナワナと震わせ、顔を真っ赤に沸騰させ、震える指先を真っ直ぐに蘇然へと突きつけていた。その双眸からは、今にも火炎が噴き出しそうであった。
バァァァンッッ!!!!
激怒のあまり、王允は卓を叩き割らんばかりに立ち上がった! 白髯を逆立て、雷霆の如き怒号を轟かせる!
「不届き者めがァッ!! 天子を愚弄し、朝廷を冒涜するかッ! 貴様のような逆賊の徒、断じて人の子にあらずッッ!!」
「…………」
蘇然はポカンと口を開け、目を丸くして立ち尽くした。
(……え? 『存分に語れ』って言ったの、あんたじゃん……?)




