第六十章 風雲告げる洛陽と、司徒府の火花
蘇然たちが徐州を発ち、揺られる馬車に揺られながら洛陽へと向かった一、二か月の間にも、天下の大勢はめまぐるしく激動していた。
まず、黄巾軍は洛陽の地に一歩たりとも近づけなかった。大賢良師・張角の死が伝わると、賊徒の士気は一気に地に堕ちた。張宝と張梁の二将が必死に統率を取り繕ったものの、瓦解の危機は覆いようもなかった。
地公将軍・張宝は八、九万の大勢を率いて中郎将・朱儁を攻め立て、まさに官軍を蹴散らさんとしていた。だがその刹那、横合いの山道から一隊の義勇軍が疾風の如く突入してきた。
先頭に立つ将は、身長七尺五寸、耳は肩に届き、手は膝を過ぎ、両目を巡らせば自らの耳を見ることができるほどの偉容。面は冠玉の如く、唇は脂を塗ったように赤く、両手に双股剣を掲げて見事に陣頭指揮を執っていた。
その左右を固める二将の気迫たるや、鬼神をも泣かしめるものであった。
左の将は、身長八尺、豹頭環眼、燕頷虎須。丈八蛇矛をしならせ、雷鳴の如き咆哮とともに敵陣へ突撃する。一撃ごとに血煙が舞い、黄巾兵どもは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
右の将は、身長九尺、髭の長さ二尺。面は熟した棗のように赤く、丹鳳眼に臥蚕眉、相貌堂堂たる威風を放ち、手には青龍偃月刀を提げていた。駆け寄る敵将を迎え撃つや、虎の目をカッと開き、一刀のもとに馬ごと両断してみせた。
(——そう、これぞ伝説の、劉備・関羽・張飛の義兄弟である!)
この強力な援軍の出現に勢いを得た朱儁は、敗残兵をまとめて反撃へ転じた。
張宝の副将・高升が形勢の逆転を許すまいと怒り狂って馬を駆り出したが、張飛の雷霆の一撃によって、わずか一合で馬上から突き落とされた。
「我が名は燕人・張翼徳なり! 命の惜しくない奴から前に出よッ!」
この怒号に賊軍の胆は冷え、劉備の指揮する全軍が怒濤の勢いで押し寄せた。朱儁も「今こそ賊を滅ぼす時ぞ!」と檄を飛ばす。張宝は前線の総崩れを見てやむなく鳴金を鳴らし、引き揚げざるを得なかった。
翌日、劉備と朱儁は山背に伏兵を構える策を敷き、張宝軍を誘い込んで挟撃した。
逃走する張宝の背後から劉備が放った一矢がその左腕を射抜き、手負いとなった張宝は陽城へ逃げ込んで籠城を決め込んだ。十万を誇った黄巾の大軍は、この一戦で大半を喪失した。
時を同じくして、人公将軍・張梁の軍勢と対峙していた皇甫嵩は、七戦七勝の快進撃を続け、曲陽においてついに張梁の首級を挙げた。張角の遺骸を探そうとした皇甫嵩であったが、「天の雷劫を受けて灰燼に帰した」と聞くや天を仰いで大笑いし、張梁の首を洛陽へ送った。残党はことごとく降伏した。
この皇甫嵩の大勝において、際立った功績を挙げた一人の英傑がいた。
沛国譙県の人、姓は曹、名は操、字は孟徳。
幼名を阿瞞、あるいは吉利。知勇を兼ね備えた曹操の武略に皇甫嵩は大いに感じ入り、朝廷へ推挙して済南の相に任じさせた。
張梁の討死を知った陽城の張宝は絶望に打ちひしがれ、最後は部下の厳政に裏切られて首を刎ねられた。朱儁は陽城を落として諸郡を平定し、勝利の奏上を洛陽へ届けた。この朱儁の推挙により、劉備もまた洛陽へと赴くこととなった。
——しかし、都・洛陽の朝廷は、戦果とは裏腹に腐敗の極みに達していた。
老いて昏昧を極めた霊帝の周りでは、張譲や趙忠をはじめとする十常侍が権勢を牛耳り、官位を金で売り買いし、私腹を肥やしていた。諫言した郎中の張鈞は杖刑に処されて追放された。
十常侍はさらに、黄巾討伐で功のあった将兵たちに莫大な賄賂を要求した。皇甫嵩や朱儁がこれを拒絶するや、誣告して官位を剥奪した。あろうことか、霊帝は趙忠を車騎将軍に任じ、張譲ら十三名を列侯に封じたのである。
朝政は乱れ果て、民の怨嗟は天に満ちた。
長沙では区星が蜂起し、漁陽では張挙・張純が叛乱を起こして「天子」や「大将軍」を僭称した。各地からの急報の奏上が雪片の如く届いたが、十常侍はそれらをすべて握りつぶした。
命を賭して直諫した諫議大夫の劉陶や司徒の陳耽は、宦官どもの讒言によって処刑された。
大漢の屋台骨は、まさに音を立てて崩壊しようとしていた——。
ある晴れ渡った春の日、一台の馬車が洛陽の城門へと差し掛かった。
「ここが……洛陽か」
馬車の窓から顔を出した蘇然は、空を突くようにそびえ立つ雄大な城壁と宮殿の威容を見上げ、思わず感嘆の息を漏らした。
隣で外を眺める秀の横顔には、懐かしさと一抹の寂しさが漂っていた。
「へっ!」
御者台に腰掛けていた陶応と方悦が手綱を引き、馬車を止めた。方悦が振り返る。
「先生、洛陽に到着いたしましたぞ」
門前で警備の兵が数名近づき、槍の柄を突き出して誰何した。
「止まれ! どこから参った!」
陶応が知らん顔で空を見上げているため、方悦が苦笑いを浮かべながら拱手した。
「徐州より参った。我が主たる先生が、城内の親族をお訪ねになるためだ」
兵士は方悦と陶応の精悍な身のこなしを見て、ただ者ではない軍旅の者と察したのか、少し口調を和らげた。
「半月前より宮中のお達しでな、入城する者は一人頭、一貫の通行銭を納める決まりとなっておる」
「一貫だと!?」方悦が眉をひそめた。
「某らが言いがかりをつけていると思うなよ。宮中の宦官様方のお言いつけだ。逆らえば首が飛ぶ」
馬車の中からそのやり取りを聞いていた蘇然は、(なるほど、十常侍どもの露骨な小遣い稼ぎか……)と苦々しく合点がいった。
「子楞、払ってやれ。早く入りたい」
「承知いたしました」
方悦は懐から五貫の銭を取り出して手渡した。
兵士は満足げに頷き、馬車の前へと回った。「役目ゆえ、無礼を許されよ」
そう言って馬車の帳をめくり、中を覗き込んだ瞬間——その兵士の顔が見事に硬直した。
中にいたのは、まだ若い書生風の男と、息を呑むほど美しい二人の娘——秀と、ふてくされた顔の糜貞であった。
「……通せッ!」
兵士は引きつった顔で帳を下ろし、去っていく馬車の後ろ姿を見送って首を振った。
(若造のくせに『先生』と呼ばれ、あんな傾国の美姫を二人も侍らせているとは……世の中、不公平極まりないな!)
城内へ入ったものの、碁盤の目のように広がる大通りを前に、方悦は途方に暮れた。隣の陶応は腕を組んで舟を漕いでいる。
方悦は仕方なく馬車の中へと声をかけた。
「先生、いずこへ向かえばよろしいので?」
「司徒・王允の屋敷だ!」
「承知!」方悦が鞭を打った。
馬車の中で、蘇然の膝に手を置いていた秀が、不思議そうに首を傾げた。
「夫君……どうして伯父の官職をご存じなのですか? 妾身すら、伯父が朝廷でどのようなお役目に就いているのか詳しく知らなかったのに……」
「えっ? あ……いやぁ、ほら、噂だよ、噂! 徐州でも有名だったからさ……」
蘇然は冷や汗を拭いながら誤魔化した。
(司徒・王允なんて、三国志好きなら小学生でも知ってるわ! この老いぼれが後で秀を董卓と呂布の間で利用すると思うと、今からでも胃が煮えくり返りそうだぜ……)
秀は怪訝そうに眉を寄せつつも、夫が時折見せる「何でもお見通しの癖」に慣れていたため、クスリと笑ってそれ以上は追及しなかった。
一方、向かいに座る糜貞だけは、「ふん、またデタラメばかり言って……」と面白くなさそうに唇を尖らせていた。
その頃、司徒・王允の屋敷。
朝廷の朝議から戻ったばかりの王允は、十常侍の専横と大漢の衰微を思い、書斎で深いため息をついていた。
そこへ、下僕が慌ただしく駆け込んできた。
「旦那様、遠方より客人が参っております」
王允は白髯を撫で、不快そうに眉をひそめた。
「誰だ?」
「若い書生風のお方で、姓は蘇、名は然と名乗っておられます」
「知らんな」王允は冷たく吐き捨てた。地方から仕官の口利きを求めてやってくる無礼な書生など、今の気落ちした状態では相手にする気にもなれなかった。「追い返せ!」
下僕は一度下がったが、間もなく再び戻ってきた。
「まだ帰らぬのか!?」王允が声を荒らげる。
「は、はい……その先生が仰るには、『妻の姓は刁である』と……」
「ちょう……?」
王允は呟き——その刹那、ガタリと椅子を蹴倒して立ち上がった。
「刁だと!? ……まさか、あの秀児か!?」
喜色を満面に浮かべた老人は、長衣の裾を翻して大股で玄関へと走り出した。
司徒府の大門の前。
「まったく、あの爺さん、いい身分になりやがって待たせやがるな……」
腕を組んだ蘇然がブツブツと文句を垂れていた。
「夫君ったら……」秀が困ったように袖を引く。
ギギギ……と重々しい門扉が開き、王允が風を切って現れた。
一行を見回し、やがてその視線が秀の姿を捉えた瞬間、老人の顔が破顔した。
「おお……! やはり我が良き姪、秀児ではないか!」
秀はしとやかに歩み寄り、深々と礼を捧げた。
「伯父様、ご無沙汰しております。お健やかそうで何よりでございます……」
「おお、息災だとも! すっかり見違えるほど美しくなって……伯父は嬉しいぞ。この何年、さぞや辛い思いをしてきたであろうに……ん?」
王允の言葉が途切れた。秀が立ち止まったその隣に、腕を組んでふてぶてしく立っている若い男に気づいたからだ。
(こいつが王允か……。老いぼれめ、この俺の嫁に手を出す気配でも見せてみろ、タダじゃおかねえぞ)
蘇然は前世からの偏見と怨念を瞳に宿し、王允をジロリと睨み返した。
(何だこの無礼な若造は!?)
目上の者に対する敬意の欠片もないその態度に、王允の眉間に青筋が立った。手塩にかけた可愛い姪の隣に、こんな不届き者が侍っていること自体が我慢ならない。
「夫君……!」
見かねた秀が蘇然の腰をツンと小突き、窘めるように睨んだ。
(……やれやれ。天下広しと言えど、嫁の言いつけには逆らえんからな)
蘇然は仕方なく腕を下ろし、大袈裟に深々とお辞儀をした。
「蘇然、字は守義。伯父上にご挨拶申し上げます!」
王允は鼻を鳴らし、面白くなさそうに「うむ」とだけ応じた。礼儀を知らぬこの男への評価は、初対面にしてすでに最悪の域に達していた。
(ふん! せっかく頭を下げてやったのに、偉そうにしやがって!)
蘇然もまた憮然として顎をしゃくった。
門前で、睨み合って一歩も引かない頑固老人と現代人青年。
その一触即発の火花を眺めながら、背後で糜貞がクスクスと笑い声を漏らし、陶応と方悦はとっくに気配を察して遠くの馬車へと避難していた。
「夫君……」秀は困り果てて蘇然の手をそっと握り、王允に向き直った。
「伯父様、こちらが妾身の夫、蘇然にございます」
王允は値踏みするように蘇然をつま先から頭のてっぺんまで眺めた。(面構えこそ悪くないが、目上の者を敬う気風がなく、見るからにひ弱な書生ではないか。こんな男に我が姪を任せて大丈夫なのか……?)
だが、秀の顔を立てて露骨な侮蔑は呑み込み、不機嫌そうに喉を鳴らすに留めた。
「夫君、こちらは幼い頃から妾身を我が子のように慈しんでくださった伯父様ですのよ」
「ああ、そうかい……」蘇然は棒読みで返した。
王允はため息をつき、蘇然など視界から消し去るように秀へ優しい笑みを向けた。
「秀児、遠路はるばる大儀であった。さあ入れ、伯父が直々に長旅の疲れを癒やす宴を用意してやろう!」
「伯父様……」
秀はそっと蘇然の手を引いて離さず、困ったように微笑みながら王允を見つめ返した。「夫君も、一緒でよろしいですね?」
(この娘め……!)
王允は姪の健気な態度に抗えず、苦虫を噛み潰したような顔で蘇然を睨みつけた。
「……蘇然とやら、お主も入れ!」
(恩着せがましいジジイめ……)
蘇然は心の中で舌を出し、引きつった笑みを浮かべた。
「司徒様、どうぞお先にお通りください」
「ふん!」
王允は袖を払って大股で屋敷へと踏み込んだ。
「者ども! 直ちに宴の支度をいたせッ!」




