第五十九章 春聯の祈りと、洛陽への旅立ち
「つまりだな……対句を書いた飾り紙のことだよ」
蘇然はうまく説明できず、書斎から紅い紙を引っ張り出して机の上に広げた。
秀がすっと歩み寄り、硯に水を差して静かに墨を磨り始める。
筆を執った蘇然は、息を整えて紙の上に流麗な文字を走らせた。
上聯:和順一門有百福(和順なる一門に百福あり)
下聯:平安二字値千金(平安の二字は千金に値す)
横批:万象更新(万象あらたまる)
「どうだ?」蘇然は得意げに胸を張った。
秀は文字を見つめ、潤んだ瞳で蘇然をしっとりと見上げた。
「妾身には、夫君の仰る『春聯』の決まり事はよく分かりませぬが……夫君の書かれた『和順』と『平安』の二つの言葉、心に深く沁み入ります……」
(実を言うと、後世の正月の対句で覚えてるのがこれくらいしかなかったんだよな……)
蘇然は頭を掻き、秀の素直な賛辞にちょっぴり照れ笑いを浮かべた。
傍らで仲睦まじい二人の姿を見つめていた糜貞は、小さく口を尖らせ、その瞳に微かな寂しさを滲ませていた。
「よし、門の外に貼ってこよう!」
夫の嬉しそうな様子に、秀も目を細めて頷いた。「はい、夫君、いってらっしゃいませ」
門扉の両脇に糊で紅紙を貼り付け、蘇然は三歩下がって腕を組み、仕上がりを眺めた。
三国時代へやって来てから、初めて迎える新年である。
ここにはお年玉もなければ、煩わしい会社の新年会もない。そして何より……口うるさかった現代の母親の小言もない。
(母さん……今年の正月は、帰って顔を見せてやれそうにないよ。どうか身体を大切に、元気に長生きしてくれ。息子の心配はいらないからさ……)
「夫君……」
いつの間にか隣に歩み寄っていた秀が、冷えた蘇然の右手をそっと両手で包み込んだ。
蘇然は秀の横顔を見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「俺には……お前がいる。秀、俺にはお前がいるんだ」
秀は夫の横顔に宿る深い哀愁に一瞬驚いたが、すぐに春の陽だまりのような微笑みを返し、ぎゅっと指を絡めた。
「妾身は夫君の妻ですもの……どこへ行かれようと、いつもお側に居りますわ」
「……あ、雪だ」
背後から糜貞の小さな呟きが聞こえた。
蘇然が見上げると、鉛色の空から白いひとひらがひらひらと舞い落ちてきた。
(これからは、秀こそが俺の世界のすべてだ……)
「秀、ほら見てみろよ」
蘇然はおどけて、手のひらに舞い降りた一片の雪を秀の目の前へ差し出した。
秀はその雪を見つめ、どこか痛ましげに眉をひそめて小さく呟いた。
「……戦乱がようやく収まったと思えば、この厳しい雪。天下の民は、この冬を無事に越せるでしょうか……」
蘇然は胸を衝かれ、秀の肩を抱き寄せた。「きっと良くなるさ。徐々に、な」
「ええ……」秀は頷き、悪戯っぽく囁いた。「夫君、年が明けたら、妾身の両親のお墓参りに行くお約束……忘れてはおられませんね?」
「忘れるわけないだろ!」蘇然は胸を叩いた。「ところで、どこへ向かえばいいんだ?」
「洛陽にございます」
「ろ……洛陽ッ!?」
蘇然は目をひん剥いた。(うそだろ!? 洛陽だって!?)
驚愕する夫の様子に、秀は丁寧に事情を解き明かした。
「昔、両親が戦火で行き倒れました折、洛陽の伯父が手を差し伸べてくださり、洛陽城の外にお墓を建てて手厚く葬ってくださったのです。ですから今回の旅は、亡き父母への墓参りと、伯父へのご挨拶を兼ねておりますの。伯父には実子がおらず、お年も召して身体も衰えておいでだと聞いておりますゆえ……」
「わ、分かった、行こう……!」
秀が寂しげな顔をするのを見るのが何より辛い蘇然は、二つ返事で頷いた。
「洛陽!? 私も行くわ!」
「お前が行ってどうするんだよ!」
蘇然は振り返り、呆れ果てて手を振った。
「秀は両親の墓参りと伯父さんへの挨拶、俺は義理の両親への挨拶と秀の親戚回りだ! お前には何の関係もないだろ、じゃじゃ馬娘! 邪魔するんじゃない!」
「ふん! あなたになんか頼んでないわよ!」
糜貞はプイと横を向くと、秀の手を握りしめて上目遣いで甘えた。
「秀お姉様、お願い! 貞児も一緒に連れていって!」
「それは……」秀は困ったように蘇然を見やった。「貞児妹さんの二人の兄上が許してくださるか……それに、我が夫のお許しがないと……」
「へっへーん!」
途端に蘇然が得意満面のドヤ顔を糜貞に向けた。
糜貞は鼻にしわを寄せて言い返した。
「二兄上は私の言うことなら何でも聞いてくれるもの! 絶対に許してくれるわ!」
「じゃあ長兄の糜竺殿はどうなんだよ?」蘇然が意地悪く突っ込む。
「あなたには関係ないでしょ、ケチ! 意地悪!」
(はいはい、また俺が悪者ですか……)蘇然は天を仰いだ。
「連れていってくれないなら、一人で勝手に抜け出して後を追うもん!」
糜貞はムキになって言い放った。「もし途中で野盗に襲われて死んじゃったら……」
「めっ! めったなことを言うものではありません!」
秀は眉をひそめ、糜貞の額をコツンと軽く指で小突いた。そして困り果てた顔で蘇然を振り返る。
蘇然は両手を挙げ、ため息をついた。「……秀、お前に任せるよ」
「ありがとうございます、夫君」
秀は嬉しそうに微笑み、糜貞へ向き直った。
「年が明けてから、お二人の兄上にお伺いを立てましょう。もし兄上たちのお許しが出たなら……一緒に行きましょうね」
「わーい! ありがとうお姉様!」
糜貞は歓喜のあまり、秀の白い頬にチュッと音を立てて抱きついた。
(……おい! 人の嫁の頬っぺたに何してやがるッ!)
蘇然は横でギリギリと奥歯を噛み締めていた。
テレビもパソコンも、電灯すらない古代の世界であったが、蘇然にとってこの年越しは生涯で最も温かく、満ち足りた時間となった。
一夜明けて、元旦。
トントントン……!
「夫君……誰か門を叩いておいでですよ……」
「放っとけ……」蘇然は布団を頭から被り、寝ぼけ眼で愚痴った。「元旦のクソ寒い早朝から門を叩くなんて、頭のネジが外れてるに決まってるだろ……」
「もう、夫君ったら」秀は夫の体を揺すり、苦笑いした。「新年のご挨拶にいらした客人に決まっておりますわ。粗相があっては外聞が悪うございます」
哀れな引きこもり現代人・蘇然は、心底うんざりしながら起き上がり、服を引っ掛けた。
(正月早々、新妻を抱きしめて二度寝する至福の時間を邪魔する不届き者はどこのどいつだ……!?)
恨めしげに門扉を開けた瞬間、蘇然の眉間がピキリと引きつった。
外に並んでいたのは——方悦、陳登、陶応、孫茂……いつもの悪友オールスターズであった。
「……明けましておめでとうございます」蘇然は乾いた声で拱手した。
「先生! 新春の慶賀を申し上げます! 先生の御身体の万福と無病息災を……」
言うまでもなく、優等生の陳登である。
(お前、俺と年がほとんど変わらんだろうが……)と蘇然は心の中で突っ込んだ。
「先生、おめでとうござ……」
「はいはい、分かったから! 寒いから中に入りな!」
方悦の挨拶を適当に遮り、蘇然は一行を客間へ招き入れた。身支度を整えた秀がしとやかに出てきて、客人のために茶を淹れようとする。
「滅相もございません、師母の手を煩わせるなど!」
陳登は恐縮のあまり飛び上がり、秀から急須を奪い取って自分で湯を注ぎに走っていった。
蘇然は茶を一口すすり、ふと思い出したように告げた。
「ちょうどいいところに集まってくれたな。みんなに伝えておくことがあるんだ」
方悦、陶応、孫茂が顔を見合わせた。「先生、一体何事ですかな?」
「明日から秀を連れて、洛陽へ出かけることにした。秀の両親の墓参りと、洛陽にいる伯父さんへの新年の挨拶を兼ねてな」
「洛陽へ!?」
急須を持って戻ってきた陳登が素っ頓狂な声を上げた。
「先生、洛陽まではあまりに遠路! 賊の残党もおりますし、道中の危険は計り知れませぬぞ!」
「ならば某がお供いたそう!」方悦が即座に名乗りを上げた。「先生のお口添えがなければ、某は東門で討ち死にするか、河内の寒村へ逃げ帰る身でした。先生をお守りするためなら、城門将の地位など何の未練もござらん!」
「俺も行くぜ!」陶応がニヤリと破顔した。「徐州の親父の顔を見るのも飽き飽きしてたところだ。先生のお供にかこつけて、都の洛陽で豪快に遊んでくるのも一興だからな!」
陳登は蘇然を徐州に縛り付けておきたかっただけに、二人の勝手な立候補を見て「何ということを……!」と地団駄を踏んだ。
蘇然は目を丸くして二人を見つめた。「お前たち、持ち場はどうするんだよ?」
「先生のお命に比べれば、持ち場など些末なこと!」方悦が胸を叩く。
「先生、しかし……陶謙大人への徐州従事の推挙は……」陳登がおずおずと切り出した。
「あ、それな!」蘇然は手を打った。
「元龍、俺が洛陽から戻ってくるまで、お前が代わりにその従事の椅子に座っておいてくれよ。帰ってきたら返してくれればいいからさ!」
客間の中が、一瞬の静寂ののちにドッと吹き出した。
官職の代理などという前代未聞の暴論を、これほど平然と口にする男が他にいるだろうか。
陳登は完全に自業自得の形となり、天を仰いで嘆息した。
(やれやれ、これでは先生を縛るどころか、自分が先生の身代わりとして刺史府で馬車馬のように働かされる羽目になるではないか……!)
「……相分かりました。先生、道中のご無事をお祈り申し上げます!」
「うむ、留守を頼んだぞ!」
蘇然は上機嫌で頷いた。
(よし……待ってろよ、王允のジジイめ。歴史通りに俺の可愛い嫁を董卓や呂布の間で『連環の計』の生贄に使おうなんて企んでやがったら、ただじゃおかねえからな……!)
すでに秀を完全に「自分のもの」として独占欲を滾らせる蘇然の瞳の奥で、洛陽の風雲を迎え撃つ静かな闘志がメラメラと燃え上がっていた。




