第五十八章 押し付けられた密使と、謎の春聯
(それにしても……「従事」って一体どんな官職なんだ?)
蘇然は陳登に尋ねてみたい衝動に駆られたが、今さらそんな初歩的な質問をして「何でも知っている偉大な師匠」の看板に泥を塗るのも憚られた。
(……まあいいか。実際に役所へ行った時、周りの奴らがどんな仕事をしているのか横目で見て真似すりゃいいだろ)
師匠が徐州従事の推挙をあっさりと承諾してくれたのを見て、陳登の胸の内は爽快感で満たされていた。
——と同時に、ほんの少しばかりの「後ろめたさ」も感じていた。
父・陳珪の言う通り、師ほどの天稟があれば、天下の群雄のどこへ行っても最高位の礼をもって迎えられるはずなのだ。
それを我が陳家の手で徐州牧・陶謙へと推挙すれば、師の背中には否応なく「陳家の推薦」という小さな焼き印が押されることになる。
(だが……いずれ先生の名が天下に轟けば、弟子である私の顔も大いに立つというものだ……へへっ)
心の中でほくそ笑む陳登の視線に気づいたのか、蘇然が怪訝そうに眉をひそめた。
陳登はハッと我に返り、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで先生、本日は師母と仲睦まじく年越しの買い出しに出られたはずでは? なぜこんな街道を一人で歩いておいでなので?」
「……言わんでくれ」
それはまさに蘇然の古傷を抉る問いであった。
本来なら買い出しを終えて自宅へ戻り、秀と二人きりで甘い新婚生活を満喫するはずだったのだ。陳登や方悦といった無粋な連中をようやく追い払ったというのに、まさかあのじゃじゃ馬娘が家に居座る羽目になるとは!
蘇然の愚痴をひと通り聞かされた陳登は、口をあんぐりと開けたまま、慰めの言葉すら見失って立ち尽くした。
「……そうだ!」
蘇然の瞳がギラリと怪しい光を宿した。
「元龍よ。お前のその忠孝の心を見込んで、この極めて重要かつ過酷な任務を託すとしよう!」
「……は? 私にですか?」
陳登は目を丸くして自分の鼻先を指差した。
(や、やってしまった……! またしても絶妙に間の悪いタイミングで先生に捕まってしまったぞ……!)
「——任重くして道遠し、だ。励めよ!」
蘇然は現代の名句を軽やかに投げ捨てるや否や、背中を向けて脱兎の如く走り去っていった。
「せ、先生……!?」
陳登は虚しく宙に手を伸ばしたが、蘇然の姿はあっという間に砂埃の彼方へと消え去っていた。
残された愛弟子は泣く泣くため息を吐き、肩を落として呟いた。
「やれやれ……仕方ありますまい」
首を振りつつ、重い足取りで糜家の屋敷へと向かうしかなかった。
その頃、糜家の大屋敷——。
「兄上〜」
次男の糜芳がヘラヘラと笑いながら書斎へ滑り込み、机に向かって読書に耽る長兄・糜竺へと擦り寄った。
「弟からひとつご報告がございまして。兄上、決して怒らないでお聞きくださいね」
糜竺は弟の方へ視線すら向けず、竹簡を一枚めくって冷ややかに言った。
「申せ」
「ええと……」糜芳は照れ笑いを浮かべ、もったいぶるように咳払いをした。「まあ、大したことでもあり、大したことでもないと言いますか……」
糜竺は心底うんざりしたように弟を一瞥し、眉をひそめた。
「……貞児がまた抜け出したな?」
「おおっ!」糜芳は手を打って感嘆の声を上げた。「流石は我が兄上! 慧眼、実にお見事!」
糜竺は静かに書物をめくり、抑揚のない声で返した。
「……で、お前は何が言いたいのだ?」
「え……?」糜芳は肩透かしを食らい、目を瞬かせた。「あ、兄上……怒っておられないのですか?」
バァァンッ!!
糜竺は手にしていた書物を猛然と机へ叩きつけた!
青筋を浮かべ、低く怒声を響かせる。
「怒っていないように見えるか、二弟ッ!!」
「わっ、落ち着いてください兄上!」糜芳は慌てて手を振った。(今日の兄貴、やけに沸点が低くないか……?)
「妹もまだ子供なんですから、部屋に閉じ込めっぱなしじゃ息が詰まるのも無理はありませんって。兄上も大人気なく目くじらを立てずとも……」
「私はお前に怒っているのだ!」
糜竺は冷酷な眼差しで弟を睨み据えた。
「陶謙大人に対し、お前を『主簿』に据えるよう儂が幾度頭を下げて推挙したと思っている! それを貴様は……公良! 糜家はかつてのような安泰の身ではないのだぞ。お前と儂の二人が手を取り合い、この乱世で家業を守り抜かねばならぬというのに、貴様という奴は……!」
「あちゃあ……」
糜芳は苦笑いして頭を掻いた。どうやら完全に話の筋を読み違えていたらしい。兄は依然として仕官を拒み続ける自分の不甲斐なさに腹を立てていたのだ。
「兄上、俺は元から怠け者ですからねぇ。あんな小難しい書類仕事をこなす主簿の椅子なんて、とても務まりっこありませんよ……」
「戯言を抜かすな!」糜竺は机を叩いた。「陳家と我が糜家の財力を結集させれば、あの曹豹ごときが好き勝手できるはずもないのだ!」
「へいへい、仰る通りで……」
「はぁ……」糜竺は怒りを鎮め、深い諦念のため息を吐いた。
「まあよい……お前の心はそこにはないのだな。幼い頃から武芸を好み、腕っ節だけなら儂を遥かに凌いでおる。端から将軍を目指す腹づもりなのだろう……」
糜芳は珍しく口を噤み、静かに兄を見つめた。
「公良、よく覚えておけ。この広い世の中で、糜家を背負って立つ男はお前と儂の二人しか残っておらんのだぞ」
「妹もおりますぜ!」
「貴様はッ!」
糜竺は喉を詰まらせ、激怒のあまり息を荒げた。
「あのじゃじゃ馬なら、とっくの昔にあの蘇然の屋敷へ転がり込んでおるわッ!!」
「……へ?」
糜芳は目を丸くし、ニヤリと破顔した。
「なんだぁ、兄上もとっくにお見通しだったんじゃないですか」
「当たり前だ!」糜竺は弟をキッと睨みつけた。
「あの蘇然という男は、底知れぬ才覚を秘めた希代の傑物だ。もし貞児があの男に嫁ぐことになれば、我が糜家にとってもこれ以上の後ろ盾は……」
「ゴホン、ゴホン、ゴホンッ!」糜芳がわざとらしく激しく咳き込んだ。
「何を咳き込んでおるか! 仮に貞児がこの場にいたとしても、儂は同じことを言ってやるわ! 兄として妹に無理強いするつもりは毛頭ないが、あれが自ら選んで飛び込んでいったのだ。ならば家長として、糜家の行く末を計算に入れて何が悪いというのだ!」
「ゴホンッ! ゴホッ!!」
「いい加減に……」
糜竺が鬱陶しそうに顔を上げた瞬間、必死に目配せを送ってくる糜芳の顔と——書斎の入り口に佇む青年の姿が視界に飛び込んできた。
糜竺の表情が、見る見るうちに百面相の如く凍りついていく。
「……ええと、出直した方がよろしいでしょうか?」
入り口に立ち尽くしていた陳登が、完璧な蘇然直伝の現代風トーンで、引きつった苦笑いを浮かべて呟いた。
「こ、これは元龍殿……! よくぞ我が粗末な屋敷へお越しくだされた……」
糜竺は立ち上がり、気まずさを全身から発散させながら歩み寄った。
(……最悪のタイミングで踏み込んでしまった)
陳登も内心冷や汗ものであったが、名門の知恵者らしく「何も聞いていませんでした」という涼しいポーカーフェイスを張り付けた。
「子仲兄、夜分に不躾な訪問をお許しください……」
糜竺は弟を鋭い眼光でひと睨みしてから、咳払いで体面を取り繕った。
「元龍殿、もしや何か緊急の軍議でもおありですかな?」
「いえ、公務というわけではございませんで……」
陳登は事の顛末——糜貞が蘇然の屋敷に転がり込んでいること、蘇然に頼まれて無事を知らせに来たこと——をありのままに伝えた。
本来なら相手の怒りを買うかと案じていたが、先ほどの赤裸々な兄弟喧嘩を聞いてしまった後では、そんな心配など微塵も必要なかった。
「ふぅ……我が家の躾が行き届かず、お恥ずかしい限りです」
「滅相もございません」
横から糜芳が悪乗りして口を挟んだ。「兄上、いっそ今すぐ手勢を率いて連れ戻しに行きますかい?」
だが、二人の知恵者は完全に糜芳を無視した。居場所を失った糜芳はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「貞児が蘇先生の元に厄介になっているのであれば、身の安全については微塵も案じておりませぬ。ただ……先生にご迷惑をおかけしていないかだけが心苦しく……」
糜竺の如才ない受け答えを観察しながら、陳登は心の中でニヤリと笑った。
(父上が『子仲兄は若くして老練な古狸だ』と評しておられたが、なるほど、この抜け目のなさは流石だな……)
「では、伝言は確かにお伝えいたしましたので、某はこれにて」
「見送りもせず失礼いたします……」
陳登を屋敷の門まで送り届けて戻ってきた糜竺の耳に、腹を抱えて大爆笑している糜芳の笑い声が飛び込んできた。
糜竺は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「笑うな! 何がおかしいッ!」
「いやあ痛快痛快!」糜芳は涙を拭いながら笑った。「これで陳家と我が糜家の絆も、ますます深まるってもんじゃありませんか!」
「お前という奴は……!」
糜竺は言葉を失った。恥をかかされたのは自分なのだ。
だが……弟の言う通り、深く考えてみれば、これは糜家にとって決して悪い展開ではないのかもしれなかった。
「……もうよい! この話は二度とするな!」
一方、無事に自宅へ逃げ帰ってきた蘇然は、玄関をくぐるなりトレードマークのように声を張り上げた。
「秀ー! 帰ったぞー!」
間もなく、奥から秀が小走りで出迎えてくれた。
居間の卓で茶を啜る蘇然の元へ歩み寄り、優しく微笑みかける。
「夫君、ご用件は滞りなく済みましたか?」
「ああ、もちろん!」蘇然は街道で陳登を捕まえ、体よく押し付けてきた顛末を楽しげに語って聞かせた。
秀は頷き、愛おしそうに夫を見つめた。
「それは良うございました。……ただ、陳先生が夫君を徐州従事に推挙してくださったのですから、これからは今まで以上にお勤めに励まれませんとね」
「はいはい、分かっておりますよ……っと、あれ? あいつはどこ行った?」
蘇然がキョロキョロと首を巡らせる。
秀はスススと歩み寄り、少し唇を尖らせて耳元で囁いた。
「貞児妹さんは、台所でお料理を手伝ってくださっていますわ。……夫君、まさか妹さんのことが気になっておいでなのですか?」
悪戯っぽく、だがほんのり嫉妬の色の混じった秀の眼差しに、蘇然は慌てて手を振った。
「とんでもない! ただの好奇心だってば!」
「あら、そうでしたの」秀は納得したように微笑み、思い出したように告げた。
「貞児妹さんがね……今宵は妾身と一緒に寝室でお泊まりしたいと仰っているのですけれど……どういたしましょう?」
「——はぁッ!?」
蘇然は目をひん剥いて立ち上がった。
「断固拒否だ! 絶対にダメッ!!」
「——ふん、ケチくさい悪党ね!」
背後から冷ややかな声が飛んできた。
振り返ると、エプロン代わりに手巾を腰に巻いた糜貞が腕を組んで仁王立ちしていた。二人の視線がバチバチと火花を散らす。
秀は困ったように微笑み、糜貞の手を優しく取った。
「妹さん、ではこういたしましょう。客間のお掃除をして寝所を整えますので、もし粗末な部屋でお嫌でなければ……」
「大歓迎で嫌がってくれ!」すかさず蘇然が野次を飛ばす。
「……秀お姉様、ありがとうございます!」
糜貞はこめかみをピクピクと引きつらせながら、殺意のこもったジト目を蘇然へと突き刺した。
「ふん!」
(このクソガキ、人の新婚生活の邪魔ばかりしやがって……!)
蘇然は忌々しそうに鼻を鳴らしたが、ふと暦を思い出して手を打った。
「あ、そうだ! もうすぐ春節だろ? ちょうど頭の中にぴったりな『春聯』があるんだ。赤い紙を二枚見つけてきて、門の両脇に貼り出してやろう!」
「……しゅんれん?」
秀がきょとんと目を丸くした。
背後の糜貞もまた、怒りを忘れてポカンとした顔で首をかしげていた。




