第五十七章 市場の藁標と、徐州従事への推挙
晴れて蘇夫人となった秀であったが、契りを交わしたばかりで歩く姿にはなお微かなぎこちなさが残っていた。
今の蘇然にとって、秀はまさに掌中の珠であった。手の中に置けば凍えまいかと案じ、懐に抱けば溶けて消えまいかと気遣う始末で、外出の際にも秀の手を離そうとしない。
秀は呆れつつも夫の過保護ぶりに根負けし、幅広の袖がついた上着を蘇然に着せ、外からは二人が袖の中で手を繋いでいるのが目立たないように工夫した。
秀の思惑では、読書人の夫など年に数度しか街へ出ないものだと思っていたのだが……彼女は現代人・蘇然の「引きこもり(オタク)」気質の底深さを見誤っていた。
市場へ足を踏み入れた途端、蘇然は見るもの全てに目を丸くし、まるで初めて下界に降りてきた童子のようにキョロキョロと首を巡らせた。
整然と並ぶ露店は後世の市場よりも風情があったが、蘇然はある光景に首をかしげた。並べられた品物のあちこちに、一本の稲藁がちょこんと刺さっているのだ。
蘇然は秀の耳元に口を寄せ、あれは何のまじないかと尋ねた。
秀は目をしばたたかせ、やがて口元を袖で隠して吹き出した。
「あれは『標』にございますよ。あれを挿しておかねば、売り物であると通りを行く人に伝わりませんもの」
(なるほど! 稲藁は売り物の目印だったのか! ……ってことは、関羽の言っていたあの有名な台詞『插標売首(頭に藁を挿して首を売っているようなもの=雑魚め)』の語源はこれか!)
長年の謎が解けて膝を打つ蘇然の姿がおかしくてたまらず、秀はくすくすと笑いながら、繋がれた左手とは逆の右手でそっと夫の袖を引いた。
「夫君、あちらも覗いてみましょうか……」
「よし、行こう!」
大声を張り上げて客引きをしない古風な商人たちの商売ぶりに感心しつつ、二人は買い物を楽しんだ。
最終的に大きな籠がいっぱいになるほどの食材を買い込んだが、荷物持ちは当然のように蘇然の役目である。新婚の妻に重い物など持たせるはずがない。
「あら?」
ふいに秀が足を止め、小さく声を上げた。
蘇然が振り返ると、そこにいたのは——。
(げっ……またあのじゃじゃ馬かよ!)
「秀お姉様ー!」
跳ねるような足取りで駆け寄ってきた糜貞は、秀に愛想よく挨拶した直後、蘇然へ向かってギロリと恨みがましい眼光を突き刺してきた。
秀は可笑しそうに目を細め、優しく声をかけた。
「妹さん、どうしてこんな所へ?」
「私?」糜貞は目をぱちくりとさせ、口を尖らせた。「この前朝帰りしたせいで、大兄上に十日間の外出禁止を言い渡されちゃって……耐えられなくて抜け出してきちゃったの!」
「まあ、大兄上に見つかったら大変ではありませんか……」秀が案じる。
「そうだそうだ!」すかさず蘇然が便乗した。「お嬢さん、お兄さんが心配するからとっとと家に帰りな。ほら帰った帰った!」
「ふん!」糜貞は頬を膨らませ、蘇然を睨み据えた。「せっかく抜け出してきたのに、誰が帰るもんですか!」
秀は夫の袖をそっと引き、微笑みながら糜貞に言った。
「妹さん、それなら我が家へ少し寄っていらっしゃいませんか? ……夫君、お手数ですが、妹さんのご家族が心配なさらぬよう、糜家へ『貞児妹さんは我が家におります』と一報を入れてきてくださいますか?」
「ええっ……!?」
蘇然は目を剥いた。(俺があの生意気な小娘のために使い走りをするのか!? 行くもんか、絶対に……)
「夫君……お願いできますか?」
秀の潤んだ瞳で見つめられ、蘇然はあっけなく白旗を揚げた。
「……はいはい、行ってきますよ! すぐ行けばいいんだろ!」
忌々しそうに糜貞を睨みつけたが、当の糜貞は知らん顔で秀と楽しげに腕を組んで歩き出していた。
半刻(約一時間)後。
「あのクソガキめ、人をアゴで使いやがって……」と悪態をつきながら、蘇然は糜家の屋敷へと向かう道を歩いていた。
「先生、お待ちをー!」
「ん?」振り返ると、陳登が肩で息を切りながら走ってきた。
「元龍、何をそんなに慌てているんだ?」
「先生……吉報でございます! 天が味方いたしましたぞ!」陳登は興奮を抑えきれない様子で捲し立てた。「昨日、父が洛陽より急報を受け取りました。あの張角……張角が死にました!」
「死……死んだ!?」
蘇然は息を呑んだ。早すぎる。史実の流れからしても、この展開は唐突ではないか?
「どうやって死んだんだ?」
「それが……」陳登は奇妙なものを見るような顔で声を潜めた。
「天意に背いて邪法を用い、天の雷の罰を受けて灰燼に帰したとか……」
(嘘だろ……張角ほどの巨頭が雷に打たれて即死? 雨宿りでもして大木の下に立ってたのかよ……?)
蘇然は腕を組み、眉間に深い皺を寄せて考え込んだ。
「先生?」陳登は訝しげに師の顔を覗き込んだ。天下を揺るがす賊魁の死という大吉報を前に、なぜ先生は喜ぶどころかこれほど深刻な顔をしているのか?
「……何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
「いえ……学生の報せに欣喜雀躍されるかと思いきや、先生が愁眉を開かぬゆえ、もしや何か見落としがあるのかと……」
(雨宿りで感電死したのか推理してただけだよ……)とは口が裂けても言えない。
蘇然はわざとらしく咳払いをし、尤もらしい顔を作って言い放った。
「当然、手放しでは喜べん大問題があるからだ!」
記憶の引き出しを必死に手繰り寄せ、陳登を見据える。
「張角が斃れたことで、残された黄巾軍の士気が地に落ちて自滅すれば御の字だ。だが、もし奴らの中に骨のある者がいて、首領の死を逆手に取った『哀兵の勢(弔い合戦の狂気)』をもって洛陽へ一直線に雪崩れ込んだらどうなる?」
「洛陽が陥落すれば……天下は崩壊いたします!」陳登が息を呑んで応じた。
「その通りだ!」蘇然は手を打った。「黄巾に残された勝機はただ一つ、乾坤一擲の賭けで洛陽を落とせるか否かだ。それに失敗すれば、天下に奴らの居場所はなくなる」
「先生の慧眼、一言にして核心を突いております……!」
陳登は深々と感じ入った。同時に、師が黄巾軍を単なる「逆賊」と蔑まず、その動向を冷徹に分析している姿に、以前教えられた『黄巾とは、飢えと苛政に追われた哀れな民の成れの果てだ』という言葉を思い出し、胸を打たれていた。
「時に先生……これからの大漢の行く末、いか相成りましょうか?」
陳登は父・陳珪から託されていた問いを、慎重に切り出した。
「黄巾の勢いは凄まじいが根が浅い。張角が死んだ今、残党どもに大漢の命脈を覆す力はないだろう。……だがな、『反乱の先例』が作られてしまった傷は、そう簡単に塞がりはせんよ。これが第一だ」
「仰る通りにございます……」
陳登は鳥肌が立つのを覚えた。師は自分と同年代の若者であるはずなのに、口を開けば百戦錬磨の父と寸分違わぬ、いやそれ以上の大局観を語ってのけるのだ。
「そして第二に……黄巾を防ぐため、朝廷は各地の諸侯や豪族に私兵の募集を許してしまった。今や各地の群雄は『尾大にして掉わず』——主君たる朝廷が衰微し、家臣たる地方軍閥が肥大化する構造が出来上がってしまったんだ」
「必ずや大禍を招きますな!」陳登はたまらず身を乗り出した。「なれば……漢室の命運はもはや風前の灯火ということですか!?」
「おいおい、何をそんなに興奮してるんだよ」
蘇然は熱くなる弟子を気味悪そうに眺めた。
「ああ、先生ほどの天下一の偉才が、我が陳家の帳房などに埋もれているとは! 朝堂に巣食う無能な高官どもを差し置き、先生が野にあることこそ、大漢の損失、天下の悲劇にございます……!」
(役人……出世……?)
蘇然は少し鼻が高くなった。古代の高級官僚か、悪くない響きだ。……いや待てよ、乱世の官吏なんて暗殺と粛清の危険だらけじゃないか。秀を抱きしめて、陳家の帳房で適当に油を売っている生活の方が百倍気楽で安全だ。
「買い被りすぎだ、冗談はよせよ」蘇然は慌てて手を振った。
「冗談などでは断じてございませぬ! 先生が帳房に甘んじているなど、宝の持ち腐れにも程があります! あの城門令ですら、先生の器には狭すぎるのです!」
(おいおい、褒めちぎるのもいい加減にしろよ……まあ、悪い気はしないけどさ……)
「そこで学生、僭越ながら陶謙大人に直訴し、先生を『徐州従事(州知事の補佐官)』に推挙いたしたく存じます!」
「ちょ……ちょっと待て!」
蘇然は仰天して陳登の言葉を遮った。(本当に官僚にさせられるのか!? 俺、歴史の知識しかないただの現代人だぞ!?)
「先生の才能をもってすれば、従事の職など朝飯前でございましょう! 官位の低さに不満もおありでしょうが、どうか徐州の民のためとお思いになり、お受けくださいませ……!」
「あ、いや……」蘇然は引きつった愛想笑いを浮かべた。「ま、まあ……徐州の民のためなら、仕方ないのかな……?」
「先生がそう仰ってくださるならば、徐州の福、天下の幸いにございます!」
(官僚生活ってのも、案外悪くないのかな……?)
褒め言葉のシャワーを浴びてすっかりいい気分になった蘇然は、流されるように頷いてしまった。だが、愛妻との約束だけは忘れなかった。
「あ、だがこの話はまだ急ぐなよ。年が明けたら秀の両親の墓参りに行く約束があるんだ。話を進めるのはその後にしてくれ」
「承知いたしました!」
陳登は満面の笑みで頷いた。師のような大賢が下積みに甘んじていては、いずれ腐ってどこかへ去ってしまうのではないかと心配していたのだ。
——この時の陳登は知る由もなかった。
蘇然がこれまで陳家の帳房として、どれほど快適で気楽な極楽生活を満喫していたかということを。
そして……そんな気ままな隠遁の日々が、この先二度と戻ってこないということも。




