第五十六章 秀児の素性と、千年の巡り合わせ
翌朝。冬の柔らかな光が障子を透かして差し込む中、蘇然は寝台の上で気だるげに横たわり、腕の中の温もりを噛み締めていた。
抱き寄せているのは、紛れもなく自分の妻となった秀である。
「秀……」蘇然が小さく呼びかける。
「ん……はい、夫君……」
秀は身じろぎをして腕を突いて身を起こし、上から蘇然の顔を覗き込んだ。
「あ、いや……何でもない」蘇然は照れ臭そうに苦笑した。
「ふふ、何ですの、それ」秀は首をかしげる。
(天なる神様……俺、本当に結婚しちゃったのか……?)
蘇然は思わず自らの頬を抓ってみた。現実の痛みが走る。
(母さん、あんたの息子、本当に嫁さんをもらったよ……)
「夫君?」秀が心配そうに細い手を伸ばし、蘇然の額にそっと触れた。
「風邪引くだろ!」
蘇然は慌てて秀を引き倒すように抱き寄せ、布団を首元まで引き上げた。
「まあ。妾身は武芸を嗜んでおりますのよ。そう易々と風邪など……」
「それでもダメだ!」蘇然は目を剥いた。
「はいはい、仰せの通りに」
秀はふっと微笑み、夫の胸元に耳を当ててトクトクと刻まれる力強い心音に耳を澄ませた。
「もう……半年になるのか」蘇然がぽつりと呟いた。
秀は一瞬目を瞬かせ、すぐに言葉の意図を汲み取って柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ……夫君と出逢ってから、もう半年が経ちましたのね……」
(タイムスリップして半年か……。現代の母さんは元気にしているだろうか。息子は二千年近く前の世界で、とんでもない別嬪の嫁さんをもらいましたよ……)
「夫君……」
「ん?」
「そろそろ起き出しましょうか。年越しの支度やお買い物(年貨の買い出し)もございますし……」
「まだいいだろ、急ぐことないって……」
蘇然は秀の温もりを手放すのが惜しくてたまらず、かえって腕の力を強めて抱きしめた。
(もう、この人は……!)
秀は呆れと可笑しさに満たされつつ、夫の甘えをそのまま受け入れた。
ふと何事かを思い出し、秀は夫の首筋に顔を寄せながら切り出した。
「夫君、年が明けましたら……妾身の亡き父母のお墓参りに、ご一緒していただけますでしょうか?」
蘇然は秀が天涯孤独の身であることを以前から知っていた。愛おしそうにその艶やかな黒髪を撫でながら、力強く頷く。
「もちろん行くさ! 義父上と義母上には、これほど賢くて美しい娘さんを俺に嫁がせてくださったお礼を、頭が擦り切れるくらい言ってこなきゃな」
「まあ、口ばかりお上手なんだから」
秀の胸にじんわりと温かな歓喜が広がる。だが茶化す夫の顔を見ていると照れ臭くなり、わざと拗ねたように唇を尖らせてみせた。
「あ、ところでさ……」蘇然はポリポリと鼻の下を掻いた。「……義父上のお名前は、何とおっしゃるんだ?」
秀はツンと目を吊り上げ、華奢な指先で蘇然の胸板をチクリと突いた。
「夫君ったら、妾身のことなどちっとも気にかけてくださっていなかったのですね!」
「滅相もない! そんなことないって!」
「ふふ、嘘ですわ」
夫の狼狽えぶりに満足した秀は、可愛らしく微笑んで明かした。
「亡き父の姓は、刁と申します……」
「ちょう? 刁秀児……刁秀児か。響きが綺麗だな、刁秀児……刁……」
「あ、それから夫君。実は妾身には、洛陽の都に暮らす遠縁の伯父が一人だけおりまして。もしあの日、夫君に巡り逢えていなければ、侘しさに耐えかねて洛陽の伯父を頼って身を寄せていたはずでした。けれど今は、こうして夫君の妻となりましたゆえ、筋を通すためにも一度、洛陽へご挨拶に伺わねばと……」
「…………」
蘇然の顔が、突如として激しい驚愕に染まった。喉を震わせて問う。
「そ……その伯父さんのお名前は? いや……尊名は、何とおっしゃるんだ!?」
あまりの血相の変えように秀は目を白黒させ、怪訝そうに答えた。
「伯父の姓は王、名は允、字を子師と……」
「——王允ッ!?」
蘇然の目玉が今にも飛び出しそうになった。
「え、ええ……。夫君、妾身の遠縁の伯父をご存じなのですか?」
(知ってるどころの騒ぎじゃないだろーーッ!!)
蘇然の脳内で、天変地異のような激震が吹き荒れた。
刁秀児……司徒・王允の養女……。
(俺の嫁入りした秀って……歴史に名を刻む『三国志演義の貂蝉』その人だったのかァァッ!? 天よ神よ、貂蝉が俺の嫁!?)
「夫君……?」
秀は蘇然がガタガタと全身を激しく震わせ始めたのを見て、青ざめて呼びかけた。
「な、ななな、何でもない! 大丈夫だ!」
蘇然は両手で秀の顔を包み込み、穴が開くほどまじまじと見つめた。その熱烈すぎる視線に、秀は忽ち耳まで真っ赤に染まる。
蘇然は感極まって秀の頬に思い切りチュッ!と音を立てて口づけを落とすと、布団を跳ね除け、袴を引っかけながら脱兎の如く部屋を飛び出していった!
「ふ、夫君っ!?」
慌てて身を起こそうとした秀は、腰のあたりに走った微かな痛みに思わず「っ……」と眉をひそめ、動きを止めた。
「夫君ったら……」
「俺は平気だーーっ!」
外の庭から、空気を震わせるような蘇然の絶叫が響いてくる。
秀は呆れて肩をすくめ、くすくすと笑い声を漏らした。
(まったく、あのお方は時折、路地の童児のように無邪気になられるのだから……)
秀は錦の上着を羽織ると、寝台の敷布の上からそっと一枚の薄布を取り上げた。
それは昨夜、自らが身につけていた紅い胸当てであった。その白銀の絹地の中央には、二人が契りを交わした証たる鮮血の痕が、梅の花弁のように散らばっていた。
秀は慈しむように指先でその紅を撫で、幸福な微笑みを浮かべながら身支度を整えた。
まだ残る身体の痛みを堪えつつ、柱に手を預けて庭先へ出ると、蘇然が青空を仰いで仁王立ちしていた。
「夫君……?」
振り向いた蘇然は、秀の薄着を見るなり目を三角にして駆け寄ってきた。
「おいおい、なんでそんな薄着で出てくるんだ!?」
すぐさま羽織っていた上着を脱ぎ、秀の華奢な肩へと優しく包み込む。
夫の無条件の愛に包まれ、秀は細い指を蘇然の手に絡ませ、小首を傾げた。
「夫君、何をそんなに胸を騒がせておいでなのですか?」
(胸が騒ぐどころじゃない! 狂喜乱舞だよ!)
蘇然は秀の肩を抱き寄せ、再び天を仰いで心の中で絶叫した。
(母さん……あんたの息子、とんでもない大当たりを引いたよ……! 嫁にしたのが……あの貂蝉だったなんて! ……あ、母さんは三国志知らないか。教えてあげるよ、三国時代ナンバーワンの絶世の美女だよ!)
……待てよ?
蘇然の思考が、急停止した。
(嫁が貂蝉ってことは……呂布はどうなるんだ……? よし決めた、今後呂布の奴には絶対に近づかないようにしよう……!)
「夫君ったら!」
またしても上の空になった夫に、秀がちょっぴり唇を尖らせた。
「秀!」蘇然は秀を抱きしめた。「本当にありがとう……あの時、棒切れで俺の頭を殴り倒してくれて!」
「もうっ!」秀は恥ずかしさのあまり夫の胸を軽く叩いた。「そのような恥ずかしい出逢いを蒸し返さないでくださいませ……!」
「蒸し返すさ! あの時の一撃がなかったら、こんな最高の妻を迎えられなかったんだからな!」
その言葉に、秀の胸の奥は甘い蜜で満たされていくようだった。夫の胸板に身を委ね、甘えるように呟く。
「あの時の夫君は本当に不躾でしたのよ……妾身がちょうど湯浴みから上がったところへ、いきなり押し入ってこられて……ふふっ、情けなくて咄嗟に叩いてしまいましたけれど……」
蘇然はバツが悪そうに頭を掻いた。(いや、あの時は湯気で何も見えてなかったんだけどな……)。だが、頭の一撃で貂蝉が手に入ったのなら、安いどころか儲けものどころの話ではない。
「妾身も……心から天に感謝しております」
秀は潤んだ瞳で蘇然を見上げ、静かに微笑んだ。
「夫君は温かく、誠実な君子で、秀をこれほどまでに慈しんでくださる。この乱世にあって、夫君の妻となれたこと以上の望みなどございません……。願わくは、これからもずっと、秀をこのように愛してくださいませ……」
「当たり前だろ! 俺の長所はたくさんあるが、一番の特技は『嫁を死ぬほど大事にする』ことなんだからな!」
「ふふっ、またそんな冗談を……」
秀はくすくすと笑い、蘇然の手を引いた。
「夫君、一緒に市場へ参りましょう? 今まではずっと……一人きりで買い出しをしておりましたから……」
「よし、行こう!」蘇然は胸を叩いた。「秀の行く所なら、地の果てまでどこへだって付き合うぞ!」
「あら、殿方は天下の功名こそを第一とすべきですわ」秀は首を振って微笑んだ。「妾身はただ、夫君が遠くへ行かれる際、秀を置いていかずに連れていってくだされば……それだけで十分ですの。相思の寂しさに耐えるのは、もう嫌ですから……」
(功名だぁ?)
蘇然は心の中で鼻を鳴らした。貂蝉を娶れた時点で、この異世界生活の目的は九割方達成されたようなものだ。立身出世など知ったことか。できることなら現代へ連れて帰って、母さんに紹介してやりたいくらいである。
「さあ、お時間が押してまいりました。夫君、部屋に戻って着替えを手伝ってくださいな。それからお出かけいたしましょう」
「合点承知!」
蘇然は秀の手を取りつつ、ふと彼女のぎこちない歩き方に目を留めた。
(……痛むのかな? 昨夜、俺がちょっと無我夢中になりすぎたせいか……?)
思わずじっと足元を観察していると、秀の視線とバッチリかち合ってしまった。
「——夫君ッ!!」
顔から火が出るほど赤くなった秀の、可愛らしい悲鳴が冬の庭に響き渡った。




