第五十五章 紅燭の夜と、涙の独白
婚礼の夜。
男にとって、これほど胸が高鳴り、甘美な憧れを抱く夜が他にあろうか。
赤く仄かに揺らめく蝋燭の灯火の下、蘇然は目の前に佇む秀を見つめ、眩暈を覚えるほどに心を奪われていた。
「夫君……」
秀は恥じらいにうつむきながら、蘇然の胸元に細く白い指を伸ばし、上着の留め具をひとつひとつ解いていく。
鼻腔をくすぐる処女ならではの清らかで甘い芳香に、蘇然は思わずごくりと喉を鳴らした。息の仕方を忘れてしまったかのように胸が詰まり、顔中が真っ赤に火照っていく。
「あ……あのさ、座って一杯……酒でも飲まないか?」
緊張のあまり、蘇然の額からは滝のような汗が吹き出していた。
秀が何かを言おうと口を開きかけた、その時であった。
——サササッ、ガサリ。
窓の外から、忍び笑いとともに微かな衣擦れの音が漏れ聞こえてきたのだ。
秀の頬が一瞬で朱に染まり、目配せをして蘇然に窓の外を促した。
蘇然は眉間に青筋を立て、抜き足差し足で窓辺へと歩み寄り、勢いよく木窓を押し開けた!
「ヤバい、ズラかれッ!」
鋭い囁き声とともに、窓の下に張り付いていた人影たちが蜘蛛の子を散らすように四方へ逃げ去っていく。
そしてその場に一人だけ取り残され、顔を真っ赤にして固まっていたのは——他でもない陳登であった。
「…………」
蘇然は無言のまま、人差し指を陳登の眉間に突きつけた。
「が、学生は……先生の護衛のために駆けつけた次第でして……!」
陳登は必死に知恵を絞って言い訳を取り繕った。
蘇然が遠くの闇へ目をやると、物陰から陶応や糜芳らしき人影がヒョコヒョコと首を出してこちらを覗き見している。すべてを悟った蘇然は、奥歯をギリギリと鳴らして吐き捨てた。
「……そりゃあどうも、涙が出るほどありがたいこったなァ!!」
「め、滅相もございません!」
陳登の額から冷や汗が噴き出した。彼はハッと何かに気づいたような芝居を打ち、手を打った。
「ああっ! 学生、急ぎ片付けねばならぬ軍務を思い出しました! これにて失礼仕るッ!」
そう叫ぶや否や、風のような速さで脱兎の如く闇の中へ消え去っていった。
「あの野郎ども……」
蘇然は引きつった顔で苦笑しつつ、窓をピシャリと閉めて閂を念入りに下ろした。耳を澄ませ、外の気配が完全に消えたことを確認する。
「夫君……もう誰も居りませぬわ……」
秀は澄ました耳で気配を読み、くすくすと忍び笑いを漏らした。
「まったく、とんだ悪友どもだぜ」
蘇然は決まり悪そうに寝台の縁へ戻ると、近づいてくる秀を見上げて照れ隠しに言った。
「……ええと、残りは自分で脱ぐよ」
秀は夫のガチガチに緊張した様子を見つめ、思わずコロコロと鈴を転がすように笑い声を上げた。
「普段ならそれでも構いませぬが、今宵ばかりは……妾身はすでに夫君の妻となったのですもの。殿方のお召し物を解くのは、妻の務めでございます……」
「そ、そうか……」
蘇然は乾いた唇を舐め、秀の艶やかな瞳を見つめて深呼吸をした。
「……よし、頼む!」
まるで死地へ赴く決死隊のように、全身を硬直させて突っ立ってみせる。
秀の柔らかな指先が、蘇然の上着を優しく滑り落ちるように脱がせていく。
「あ、あとは自分でやるッ!」
蘇然は目にも留まらぬ早業で袴を脱ぎ捨て、靴を蹴飛ばすと、一目散に布団の中へと潜り込んだ。
秀は思わず口元を押さえて吹き出した。
布団の端から目を丸くして覗き見ている夫の視線を受け止めると、秀は妖艶に微笑み、囁いた。
「夫君、そんなにお急ぎにならなくても……」
言いながら、秀は自らの腰帯の結び紐へと指をかけた。
蘇然は唾を飲み込んだ。
秀が銀の簪を引き抜くと、結い上げられていた艶やかな黒髪が一気に解け、絹の滝のように腰元まで滑り落ちた。
ハラリ……と衣擦れの音が響く。
紅い婚礼衣裳が足元へ滑り落ち、露わになったのは、肌着である一枚の紅い胸当てのみ。
蝋燭の仄かな紅潮に照らされたその肢体は、雪のように白く透き通り、息を呑むほどしなやかで、息が止まるほどに妖艶であった。
——ゴクリ。
寝室の中に、情けないほど大きな嚥下音が響き渡った。
秀は静かに息を吹きかけて蝋燭の火を消すと、すり足で寝台へと歩み寄り、暗がりの中で甘く囁いた。
「夫君……」
闇の帳が下りたことで、かえって輪郭の美しさが際立つ。蘇然はその艶めかしい影を見つめ、呆けたように呟いた。
「秀……か、風邪引くなよ……」
「ふふっ……」
秀は両手を背中に回し、肚兜の細い結び紐を静かに解いた——。
ふわりと布団が持ち上がり、火照るように熱い柔肌が蘇然の胸元へと滑り込んできた。蘇然は反射的に右手を差し伸べ、受け止めた。
「んっ……夫君……」
手のひらに伝わる信じられないほどの柔らかさと弾力に、蘇然は息を呑み、どうしてもその手を離すことができなくなった。
「あ、暖かく……しないとな……!」
蘇然は己の咄嗟の口実に内心で快哉を叫びながら、秀の華奢な体を力いっぱい自らの胸の中へと抱き寄せた。
秀は夫の胸板にペタリと身を預け、真っ赤に火照った頬をその肌に押し当てた。ひんやりとした黒髪が蘇然の首筋を撫で、全身に甘美な戦慄が走る。
秀は夫の胸に両手を突いて上体を起こすと、夜露を含んだような濡れた瞳で、真っ直ぐに蘇然を見つめ返した。その魂を吸い尽くさんばかりの眼差しに、蘇然の頭の中は秀の白銀の肢体と甘い香りで満杯になった。
荒くなる蘇然の呼気を感じ取り、秀は静かに身を沈め、その口元へと吸い付くように口づけを落とした。
その瞬間、蘇然の理性の箍が完全に吹き飛んだ。
秀を強く掻き抱き、身を翻して彼女を押し倒す。二人の呼吸が重なり、熱を帯びていく。
秀は寝台の端から自らの紅い肚兜を手繰り寄せると、シーツの上にそっと敷き詰め、潤んだ瞳で蘇然を見上げて愛を乞うた。
「どうか夫君……秀を、慈しんでいたわってくださいませ……」
「ああ……!」
蘇然は掠れた声で応じ、秀の紅い唇を貪るように塞いだ。
「ん……っ……」
夫の熱い手が柔肌を滑るたび、その軌跡が炎となって燃え広がり、秀の胸の内に甘い焔が渦巻く。
前世から紡いできた魂の全てを込めた、深くて長い口づけ。
「……っ……あ……!」
秀が短く悲鳴を漏らし、その細い指先が蘇然の背中に強く食い込んだ。背の肉に爪が食い込む痛痒すら、今の蘇然の熱狂には届かない。
「ど、どうした……!?」
「夫君……いた……い……」
蘇然は冷や汗を流し、酷く狼狽えた。「じゃ、じゃあ……少し待とうか……」
「いいえ……」
秀は自ら腕を伸ばして蘇然の首筋に抱きつき、離すまいと強く抱きしめた。
「夫君……秀は、耐えられます……」
そして秀は、自らその紅い唇を夫へと重ねた。
「ん……っ……」
暗がりの中、一筋の清らかな涙が秀の目尻を伝って滑り落ちた。
だがその瞳の奥には、女として愛する男に全てを捧げた、この上なく濃密な春の光が満ち満ちていた——。
同じ頃、糜家の大屋敷。
糜貞の部屋の扉の前で、長兄の糜竺は幾度も手を掲げては下ろし、苦悩のため息を漏らしていた。どうしても妹の部屋を叩くことができず、肩を落として立ち去るしかなかった。
部屋の奥、寝台の縁に腰掛けた糜貞は、机の上でユラユラと揺れる一本の蝋燭の火を、ただ虚ろに見つめていた。
その瞳には、隠しようのない哀しみの色が滲んでいる。
「……最初から、分かっていたはずじゃない……」
糜貞は膝の上で拳を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「どうして……どうしてこんなに、胸が苦しいの……?」
「あの時、あの人が私の袖を掴んだ時……どうして私はあんなに取り乱しちゃったの? どうしてあの手を振り払って、すぐに立ち去れなかったのよ……?」
「悪党……大嘘つきの、悪党のくせに……」
彼女の脳裏に、あの男と出逢ってからの記憶が、鮮やかに蘇る。
——『……嘘だね、そいつは小娘だ』
(ふん! 糜貞は唇を尖らせた)
——『喉仏もないのに女じゃなきゃ何だってんだ?』
(眉をひそめ、憤慨したあの日)
——『俺は……俺は……じ、十一貫出す!』
(思わず吹き出し、懐かしさに頬が緩む)
——『二十貫! はい、二十貫でお買い上げ! たった二貫の腕輪を二十貫で買うなんて、お大尽だなあ……ハハハ! 自分で掘った穴に自分で飛び込むマヌケなんて初めて見たよ、面白すぎる!』
(忌々しい! 糜貞は手元の手巾をギリギリと引き絞った)
——『ほらほら、お前の二十貫の腕輪だぞ。大事にしまっておけよ、落とすんじゃないぞ〜』
(あの悪戯小僧のような憎たらしい笑顔を思い出し、歯ぎしりする)
——『お嬢さん、俺のことを知ってるのかい? なんで通せんぼするんだ?』
(大嘘つき!)
「……ふふっ」
思い出を辿るうちに、なぜか糜貞の口からくすくすと笑い声が漏れた。
笑って、笑って……やがてその大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
糜貞は震える手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながら声を詰まらせた。
「……嘘つき。どうして……どうして最後まで嘘をつき通してくれなかったのよ……? こんな……こんなのって、ないじゃない……!」
静まり返った廊下。
心配のあまり引き返してきた糜竺は、扉の隙間から漏れ聞こえてきた愛妹の悲痛な泣き声に、胸を刃で抉られるような痛みを覚えて立ち尽くしていた。
固く閉ざされた扉を見つめ、糜竺は拳を強く握りしめた。
(……貞児。案ずるな、この件は兄に任せておけ。お前をここまで泣かせたあの男に……兄が必ずや、申し開きをさせてみせる!)




