第五十四章 龍哭の異象と、紅絹の帳
黄巾の首魁・張角は、戦局を覆すべく度重なる逆天の術を行使し、太平の理想郷を築かんと妄執した。しかし、天意とは冷徹な刃の如きもの。四百年の大漢の気運は、いまだ完全に尽き果ててはいなかった。
人の身をもって天意に抗した報いは惨憺たるものであり、張角は百病に冒され、枯れ木のように床に伏して余命幾ばくもない境遇へと落ち延びていた。
だが、張角は死に臨んでもなお、腐敗した漢王朝が再び天下に君臨することを潔しとしなかった。
彼は天書『太平要術』のうち「天」の巻の末尾に記された秘術『奇門遁甲』を強引に発動し、漢室に遺された百年の命脈を無理やり数年にまで縮めるという、天道への大いなる反逆を敢行したのだ。
天地の理が、これを許すはずもない。
一代の妖人・張角は術の成就とともに息絶え、その骸は天から降り注いだ九九八十一筋の神雷によって木っ端微塵に打ち砕かれ、塵芥と化して消滅した。まさに万死に値する大罪の報いであった。
張角は滅びた。しかし、大漢の気運もまた急激に崩壊の坂を転がり落ち始めた。
洛陽の空に一条の禍々しい黄光が吹き上がり、都の上空を幾重にも旋回したかと思うと、四方八方へと飛び散った。
その光の奥で、一条の巨龍が悲痛な断末魔を上げ、霧消していくかのように見えた……。
とある仙境の深山。碧い眼に童顔を湛えた南華老仙が洞窟の前に端座していた。
ふと双眸を開いて指を折り数えると、深く眉をひそめた。
「あの小僧、よもやこれほどの暴挙に出ようとは……やれやれ」
老者は嘆息し、虚空へ向けて手を一振りした。だが次の瞬間、怪訝そうに目を瞬かせた。
「……おや? 奇妙なこともあるものだ」
一方、張角が雷火に散った直後の本営。
弟子の張白騎は、師の机の上に置かれていた三巻の書物が青い燐光を放ち、虚空へ飛び去ろうとするのを目撃した。師の臨終の言いつけを思い出し、必死に身を投げて書物を押さえつける。
だが書物は六つに裂け、辛うじて一巻を張白騎が胸に抱き留めたものの、残る五巻は一条ずつの黄光と化し、天下の各方角へと飛散していった。
仙山の老者は白髭を撫で、苦笑を漏らした。
「ふん、死に際に我が術をかわす小細工を弄しおって……まあよい。望み通り『太平要術』をあと三十年の間、下界に漂わせてやるとしよう」
汝南の地。名高き鑑定家・許劭が、ひとりの若者と対談していた。
ふいに胸の奥を激震が走り、許劭は慌てて屋敷の庭へ飛び出した。洛陽の方角へ飛び散る光を目撃し、その顔色を蒼白に変える。
背後から追ってきた若者が、不機嫌そうに催促した。
「おい、早く我が人物を評してみせよ!」
許劭は振り返り、その若者を複雑極まる眼差しで見つめ、絞り出すように言った。
「——子は、治世の能臣、乱世の梟雄なり!」
若者(曹操)は大いに喜び、拝礼して立ち去った。
「乱世が訪れ、大漢は滅びゆくか……」
許劭は呆然と立ち尽くし、暗然として屋敷の奥へと引き返していった。
また別の名山にある道観。
紅顔の老道が童子と戯れていたが、ふと眉を震わせて天空を仰いだ。巨龍の悲鳴を聞き届けると、手にした払子を一振りする。天空に星図が浮かび上がり、無数の星々が怪異な明滅を始めた。
老道が凝視すると、天頂の帝星は力なく揺らぎ、天機は深い混沌に呑まれていた。
「漢室はここで尽きるか……」
その時、天空の五つの星が異常な光を放ち始めた。指を弾いて占うと、それらは天下を動かす「将星」であった。
「帝星が翳り、将星が先に輝くか?」
天機を読み解こうとするも霧は深く、辛うじて二つが荊州へ、一つが青州へ、一つが揚州へ向かい、最後の一つが徐州に留まっていることだけが判じた。
「いよいよ天下大乱か……」
老道が術を収めようとしたその時、傍らの童子が指差して声を上げた。
「お師匠様、あの星の動き、とても不思議です!」
「む?」
見上げた老道は息を呑んだ。
徐州の地に留まるその将星は、ある時は北地と繋がり北の気運を爆発的に増大させ、ある時は蜀の地と結ばれて西の気運を押し上げ、またある時は江南と呼応して南の気運を跳ね上げていた。
変幻自在に他者の命運を書き換えるその異様な星の光に、老道は驚愕のあまり絶句した。
「これほどの天命を持つ星が……下界におるというのか……!?」
天下の星々が激変を迎えていたその頃——徐州の蘇然邸。
陳珪が老齢を理由に早々に退出したのち、庭先では残った面々が祝い酒に酔いしれていた。
そこへ、夜空を裂いて一条の黄光が走った。
陳登が目を輝かせ、膝を打った。
「先生! やはり今宵は百年に一度のめでたき吉日にございます! ご覧ください、天に瑞祥の光が!」
酒に弱いくせに次々と杯を押し付けられ、すでに千鳥足になっていた蘇然は、ぼんやりと空を見上げた。
視界の端で、巨大な龍が天へ昇り、苦悶の叫びを上げて消え失せるのが見えたような気がした。
蘇然は目を丸くして口をあんぐりと開けた。(……え? 龍……!?)
ゴシゴシと目を擦ってもう一度空を見上げたが、星が瞬くいつもの冬の夜空が広がるばかりであった。
「……俺、相当酔っ払ってるな……」
「まだまだ!」
陶応が豪快な酒あくびを噛み殺しながら絡んできた。
「先生の大喜の日ですよ、飲まずにどうします! なあ公良、そう思わんか?」
糜芳も杯を揺らして笑った。
「蘇先生の神謀、この糜芳も心底から感服いたしました。さあ、もう一杯!」
「俺も付き合うぞ!」陶応も杯を掲げる。
「貴様ら、人の道を知らんのかッ!」
陳登が目を怒らせて割って入った。先生の晴れの初夜を、この悪童どもが酔い潰して台無しにしようとしているのが許せなかったのだ。
陳登の殺気立った視線に気圧され、陶応は苦笑いして杯を下ろした。糜芳は未練がましいため息をつく。
「……あのような絶世の麗人が、今宵ついに人妻となるのか。某の胸の内たるや……」
「二弟!」
長兄の糜竺が咳払いをして睨みつけると、糜芳は慌てて取り繕った。
「あ、いや! 蘇先生、某は糜芳と申します! これから末長くよしなに……」
「あー……はいはい、よろしく……」
泥酔した蘇然には生返事を返すのが精一杯だった。
ふと周囲を見回した糜竺が、眉を寄せて尋ねた。
「公良、貞児の姿が見えぬが、どこへ行った?」
「ヒック……さあ? 蘇夫人のお部屋にでもお邪魔してるんじゃないですか?」
「な、何という無作法を!」糜竺は青ざめかけたが、泥酔する蘇然を見て言葉を飲み込み、嘆息した。「……まあよい、あの子の気の済むようにさせておくか」
「もう飲めん……これ以上は無理だ……」
蘇然はふらふらと立ち上がり、寝室のある母屋へと足をもつれさせながら向かった。
冷やかしに行こうとする陶応と糜芳の襟首を陳登がガッチリと掴んで仁王立ちし、糜竺も頭を振って弟を連れ戻す。
悪友どもを追い払った陳登は、寝室の扉を見つめ、心の中でニヤリと笑った。(先生、あとはご武運を……コホン)。
ギィ……と戸を開け、蘇然は寝室へと滑り込んだ。
赤々と灯る蝋燭の光の中、二人の女性の影が揺れている。蘇然は目をしばたたかせた。
「あれぇ……? 秀、なんで二人に増えてるんだ……?」
そのうちの一人がジト目で蘇然を一瞥し、くすくすと意地悪そうに笑った。
「では秀お姉様、妹はこれにて失礼いたしますね。今宵は……どうぞごゆっくり、ふふっ」
「もう、貞児妹さんったら……!」
秀が恥ずかしそうに頬を染め、蘇然へと愛おしげな視線を向ける。
その睦まじい空気に、糜貞の胸の奥がきゅっと痛んだ。彼女は寂しげに瞳を伏せ、音を立てずに部屋を出ようと歩み寄る。
「なんで秀が二人いるんだよ……」
泥酔した蘇然が眉間に皺を寄せて考え込み、そのうちの一人が通り過ぎようとした瞬間、バッと手を伸ばしてその袖を掴んだ。
「秀! どこ行くんだ、行っちゃダメだ!」
「ひゃっ……!? お、お姉様……!」
糜貞は真っ赤になって取り乱し、助けを求めるように秀を呼んだ。
秀は可笑しそうに歩み寄り、夫の胸元へそっと身を寄せた。
「夫君……妾身は、ここに居りますわ……」
「あれ……?」
蘇然は秀の顔をまじまじと見つめ、ヘラリと笑った。
「あ、本当だ……秀だ……。じゃあ、あっちの奴は……?」
振り返った時には、すでに扉の向こうに人影はなかった。
糜貞は冷たい夜風の中を足早に駆け抜けながら、奥の部屋を振り返った。胸の奥に走る鋭い痛みを紛らわせるように、唇を強く噛みしめる。
「夫君、ずいぶんと召し上がりましたね……」
秀はふらつく蘇然を寝台へと優しく座らせ、淹れたての温かい白湯を手渡した。
何口か喉を潤すと、蘇然の頭の靄がようやく晴れてきた。
「うぅ……あいつら、容赦なく飲ませやがって……」
「ふふっ……」
秀は鈴を転がすように微笑むと、静かに立ち上がって扉を閉め、木製の掛け金をカチャリと下ろした。
そして、紅い婚礼衣装の裾を優雅に揺らしながら、ゆっくりと蘇然の前に歩み寄ってきた。
「夫君……もう、お休みになりましょうか……?」
上気した頬、潤んだ瞳。伏し目がちに呟かれたその声は、甘く蕩けるような色香を孕んでいた。
「ブフォッッ!!」
蘇然は口の中の湯を豪快に吹き出した。
心臓の鼓動が耳元で破裂しそうなほどの速さで跳ね上がる。
「お、お休みに……そ、そうだな……休むか……」
震える手で自らの帯を解こうとする蘇然を見つめ、秀はそっと歩み寄り、その両肩に柔らかな手を重ねた。
紅い衣擦れの音とともに、甘やかな吐息が耳元をくすぐる。
「……どうか妾身に、夫君のお召し物を解かせてくださいませ……」
紅絹の帳が、静かに夜の闇を閉ざしていった——。




