第五十三章 紅絹の契りと、張角の落日
牢内で張燕と酒を酌み交わした蘇然は、首を振りつつ微かな溜息を吐いて牢外へと歩み出た。
そこへ、向こうから軽やかな足取りでやって来る陶応と鉢合わせになり、声を掛けた。
「先生、あの張燕の顔を見に来られたので?」(陶応の軽薄で気取らない気質は、蘇然もすでに心得たものであった)
「元龍から聞きましたぞ、先生が三日後に婚礼を挙げられるとか! こりゃ某も祝酒をよばれに押し掛けねばなりませぬな」
「はは、まあな」蘇然は苦笑いを浮かべ、首を傾げた。「ところで子承、お前はなぜここへ?」
「ああ、その張燕の件ですよ!」陶応は顔を顰めた。
「聞けば張燕は、奴らの言う『七十二方小渠帥』の一角だとか。洛陽の朝廷からは疾くに厳命が下っておりましてな。『渠帥の首領格は大小を問わず洛陽へ護送し、引き回しの上で処刑せよ。それ以外の賊将は現場で即座に斬首せよ』とのことです」
「そうか……」
蘇然は頷いた。洛陽の高官どもが民への見せしめに首を晒したいのだろう。惜しい男を……と胸中で惜しむ。
「……ん?」蘇然はふと不自然な点に気づき、眉を寄せた。
「張燕が小渠帥だと? なぜそれを知っている?」
陶応は鼻を鳴らし、得意げに胸を張った。
「ようやく先生の知らぬ話が出ましたな! 実は昨日、方悦が見回りに出た折、黄巾の細作を捕らえましてね。そいつらの口を割らせて判明したのです。それに、文が一通押収されまして……」
蘇然は合点がいった。しかし首を捻らざるを得ない。黄巾軍は完全に惨敗し、徐州の士気は天を衝くほど高い。もはや賊軍に徐州を揺るがす余力などないはずだ。一刻も早く撤退せず、まだ何か企んでいるのか?
「文だと?」
「ええ、実に笑止千万な文面でしてな。あの賊将ども、我が方に脅しをかけてきたのですよ。『速やかに小渠帥を釈放せねば、城外に出ている徐州の精鋭五千を皆殺しにする……無論、買い集めた兵糧も灰燼に帰すと思え』とね」
「子承、お前はどう思う?」蘇然の双眸が険しく細められた。
「某の目から見れば、単なる負け犬の虚勢ですな! 我が徐州の五千の兵は烏合の衆ではござらん。黄巾の敗残兵など高々一万余り、勝ち目の薄い賭けに出るはずもなし。張燕を洛陽へ護送し終えれば、先生の武名は天下に轟きますぞ!」
「ふん、そんな名声など要るものか……」
蘇然は自嘲気味に呟き——その刹那、脳裏に電光が走り、陶応を射抜くような眼光で見据えた。
「ハハ……ハ……え? 先生、何かおかしなことでも?」陶応の笑みが引きつる。
「……なるほど、そういうことか」
この二日間、陳登は目が回るような忙しさに追われていた。
婚礼の儀装を整え、招待状を城内の有力者——糜家、曹家、陶家、趙家など——へ手配しようとしたが、蘇然に「馬鹿を言うな」と一喝され、大半を削ぎ落としてごく身内の顔ぶれだけに絞り込まれた。
世家の体面もあり、曹家や糜家へ形式的に届けざるを得なかったが、先方がどう受け止めるかは未知数であった。
そして迎えた、吉日の朝。
秀は夜が明ける前から部屋に閉じこもり、蘇然が一歩たりとも足を踏み入れるのを許さなかった。
気も狂わんばかりに居間を行ったり来たりしていた蘇然は、堪り兼ねて扉の隙間から中を覗き込んだ。
「なんだ、化粧をしてたのか……」
覗き見しながら蘇然は唾を飲み込んだ。
秀は艶やかな黒髪を結い上げ、薄く紅を差し、微かに瞳を潤ませて微笑んでいた。銅鏡をじっと覗き込み、乱れがないかを確かめると、衣擦れの音を立てて静かに立ち上がった。
扉が開き、姿を現した秀を目にした瞬間、蘇然の思考は完全に停止した。
纏うは鮮やかな深紅の絹衣。濃淡の絶妙な薄化粧に、弧を描く細眉。半ば伏せられた切れ長の瞳には、見る者の魂を吸い寄せるような色香と輝きが宿っていた。指先を動かし、歩みを運ぶその一挙手一投足に、いつもの慎ましさを越えた艶やかな風情が満ち溢れている。
秀はしとやかに一礼を捧げ、鈴を転がすような声で「夫君」と呼びかけた。玉杯に落ちる美酒の如く、澄み渡る響きであった。
「あ……ああ……」
蘇然は口を半開きにして凝視し、小さく呟いた。「……今日の秀は、まるで別人のようだ……」
「吉時(よき刻限)にございます!」
門の外から、待ちきれない陳登の朗々たる声が響き渡った。
「そ、それじゃ……行こうか」
蘇然は秀の魅惑的な眼差しに当てられ、気恥ずかしさから目を逸らした。
「夫君……」
秀は紅絹の覆面を取り出し、蘇然へと差し出した。
「ああ……」
蘇然はごくりと喉を鳴らし、その紅い絹を秀の頭上からそっと掛けた。
秀は素直に頭を垂れて覆いを受け入れ、蘇然の腕へと自らの手を滑り込ませた。
集まった顔ぶれは、決して少なくはなかった。
糜竺、糜芳、糜貞、孫茂、陳登、陳珪、陶応、方悦。陶謙は激務のため代理の使者に祝品を託し、曹豹は陳登を嫌って祝いの品だけを届けさせ、敷居を跨ぎもしなかった。
そこへ、蘇然や秀と日頃親しくしていた近隣の町人たちが加わっていた。彼らにとっては、陳珪や糜竺といった雲の上の大人物と同じ席に着くだけで、生きた心地がしないほどの名誉であった。
——一拝天地(天と地に拝礼し)……
——二拝高堂(父母に拝礼す)……
両親が立ち会えないため、陳登が機転を利かせ、実父の陳珪に席へ座ってもらうよう手配していた。名門・陳家の重鎮が親代わりとして座を清めるなど、本来ならば破格の栄誉である。
陳珪は機嫌よく二人の喜茶を飲み干した。息子がこれほど心酔する奇才の門出を祝うことに、何の出し惜しみもなかった。
——夫妻対拝(夫婦互いに拝礼し)……
「寝室へ!」の号令で結ばれるはずであったが、現実は甘くない。
拝礼が終わるや否や、蘇然は方悦や陶応を中心とする男たちに囲まれ、強引に酒席へと引っ張られていった。今日集まったのは将兵たちの代表に過ぎず、数日後には軍営へ出向いて「全軍に振る舞い酒をする」という約束を果たさねばならないのだ。
その頃、城外へ向かう街道沿い——。
徐州の地下牢から引き出された張燕は、首に枷を嵌められ、洛陽への護送路を歩まされていた。
遠く城内から微かに届く祝いのざわめきを聞き、彼の冷たい瞳にふっと温かな色が宿る。
「ぐずぐずするな、歩け!」
背後の護衛兵が苛立たしげに背中を突いた。
張燕が冷たい眼光を返し、足を踏み出そうとしたその時、背後から呼び止める声がした。
「子安、待たれよ!」
「……先生?」
張燕は目を見開き、愕然と立ち止まった。
駆け寄ってきたのは、なんと花婿の装束を纏った蘇然であった。片手に酒袋、もう片手に二つの杯を提げている。張燕が護送される時刻を聞きつけ、どうしても言葉を交わすべく中座してきたのだ。
「先生……」
張燕は差し出された並々の酒杯を受け取り、熱いものが込み上げるのを覚えた。
「乾杯!」
蘇然が一気に飲み干し、張燕もまた喉を鳴らして杯を空にした。
「道中、達者でな。……だが、行くがよい」
蘇然は張燕の目を真っ直ぐに見据え、低く重い声で告げた。
「……先生?」張燕は怪訝そうに眉を寄せた。
「——二度と、徐州へ戻ってくるなよ」
短くそう言い捨てて礼を捧げると、蘇然は振り返りもせず踵を返し、風のように去っていった。
張燕の瞳が限界まで見開かれた。
(……何だと!?)
全身を貫くような衝撃と戦慄。于毒たちが立てた「護送部隊を襲撃して自分を奪還し、その足で徐州へ雪崩れ込む」という策すら、この男は疾くに見抜いていたというのか!?
天下に、これほどまで先を見通す怪物が実在するというのか……。
遠ざかる蘇然の背中を見つめ、張燕はかつて牢で交わした言葉を反芻した。深く、諦念に似た溜息を漏らす。
(……やはり我ら黄巾は、天下を治める器ではなかったのだな……)
時を同じくして、遥か遠方の黄巾軍本営——。
天公将軍、大賢良師・張角は、床に伏して死の淵を彷徨っていた。
「大賢良師……!」
「ゲホッ……ゲホッ……張白騎よ……儂の命数は、もはや尽きようとしておる……」
「滅相もございません! 恩師が仰られたあの太平の世を、某らはまだ目にしておりませぬ! いま旅立たれては困ります!」
「愚か者めが……」
張角は叱責しつつも、その声音は穏やかであった。
「儂はようやく悟ったのだ。南華仙人のお言葉……『天に逆らうべからず』の真意をな……」
だが次の瞬間、張角の瞳に凄絶な狂気の炎が蘇った。
「されど、儂は承服せぬ! かくも腐り果てた朝廷、愚鈍極まる暗君に、天下を統べる資格などあろうものか!」
張角は天を睨みつけ、血を吐くように咆哮した。
「漢室の天運がいまだ尽きぬと言うのならば……この儂の手で、漢室の命脈を完全に断ち切ってくれるわッ! ゲホッ……カハッ……!!」
激しく血を吐き散らし、崩れ折れる張角。
「大賢良師ーーッ!!」




