第五十二章 吉日の約定と、動き出す暗流
徐州城を去ること百里の荒野——。
打ち破られ、散り散りとなった黄巾の残党たちが、吹きすさぶ寒風の中で身を寄せ合っていた。
大帥・張牛角は暗雲を垂れ込めたような険しい顔で、一人苦い酒を煽っていた。
知勇兼備の自慢の義子が立てた完璧な内応の策が、まさか完全に看破されていたとは。義子の張燕は徐州の地下牢へと囚われ、手塩にかけて育てた精鋭も壊滅的な打撃を受けた。これほどの惨憺たる敗北を、彼はかつて経験したことがなかった。
「渠帥……」
于毒が幕舎へ歩み寄り、声を潜めて呼びかけた。
「……少帥(張燕)を救い出す手立てが、まだ一つ残されております」
「何だと!? 疾く申せ!」
張牛角は血走った目をカッと見開き、卓を叩いて身を乗り出した。
于毒は進み出ると、張牛角の耳元に顔を寄せ、低く密計を囁きかけた。
聞くにつれて張牛角の眉間が解け、激しく頷く。
「よし……その手で行こう! 直ちに全軍に通達せよ!」
「ハッ!」
一方、徐州城内。
秀は糜貞に付き添い、糜家の屋敷へと向かっていた。道中、糜貞はずっと唇を噛みしめ、うつむいたまま何事かを思い詰めていた。
「貞児妹さん……貞児妹さん?」
「はっ……!?」
糜貞は弾かれたように顔を上げ、慌てて秀を見つめた。
「……糜家のお屋敷に着きましたわ」
「あ……秀お姉様、送ってくださってありがとうございました……」
糜貞はホッと胸を撫で下ろした。
「おい、妹よ!」
その時、糜家の大門から一人の青年が転がり出るように駆け寄ってきた。
「おいおい俺の可愛い妹よ、とんでもない大騒ぎを起こしてくれたな! 兄上が中でカンカンに……って、こ、こちらは……?」
青年の視線が秀の姿を捉えた瞬間、言葉が喉に張り付いた。
(……世の中に、これほどまでに澄み渡る気品を湛えた美姫がいるのか……!?)
糜芳は魂を抜かれたように、ただ呆然と秀を見つめて立ち尽くした。
糜貞は呆れて溜息をつき、秀に紹介した。
「秀お姉様、これが私の次兄です……」
「某は糜芳、字を公良と申す! して、そちらのご令嬢は……」
「妾身の夫は蘇と申します。名は秀と呼んでいただけますれば……」
「お、夫……!?」
糜芳の目が点になり、凄まじい悔恨の色がその顔を覆い尽くした。
「もう、二兄上ったら!」
糜貞が肘鉄を食らわせる。「いつまでみっともなく突っ立ってるのよ!」
「いや、違うんだ妹よ……今回は本当に……」
糜貞は兄を完全に無視し、秀の手を取って門内へ誘おうとした。
「お姉様、私の部屋で少しお茶でもいかがですか? あの悪党も、こんなに早くは戻らないでしょうし……」
秀は口元を袖で隠し、くすりと笑った。
「ふふっ、妹さんは我が夫をまだご存じないのね。阿然は世の殿方とはまるで違いますのよ……」
「え……」糜貞は言葉に詰まった。
その時、横から糜芳が恐る恐る口を挟んだ。
「妹よ……奥で大兄上が本気で雷を落とす準備をして待ってるぞ……」
「ひえっ!」糜貞の顔が一気に青ざめた。
「秀お姉様、ごめんなさい、今日はお引き止めできません……! また日を改めて、必ずお屋敷へ遊びに伺いますから!」
秀は心の中で優しく溜息をつき、淑やかに頷いた。
「ええ、それがよろしいでしょう。もし手が空きましたら、いつでも遊びにいらしてくださいね……」
秀は糜芳に向かって優美に一礼を捧げると、風のように軽やかに去っていった。
「何という絶世の……」糜芳は未練がましく見送った。
「人妻よ! 鼻の下を伸ばして恥ずかしくないの!?」
糜貞はぷんぷんと怒りながら敷居を跨いだ。これから待ち受ける長兄のお説教を思い、足取りは重い。
去っていく妹の背中を見送り、糜芳は顎を撫でてニヤリと笑った。
「……姓は蘇、か。まさか、あの城門令の……?」
秀が自宅へ戻ると、すでに蘇然が帰宅していた。卓に肘をつき、「惜しい……実に惜しい男だ……」とブツブツ呟いている。
秀は音もなく近づき、その肩にそっと手を置いた。
「何が惜しいのですか、夫君?」
「お、秀! おかえり!」
蘇然は嬉しそうに秀の手を取り、自分の膝の上へ引き寄せた。
「いやさ、あの張燕に会いに行ってきたんだよ。なかなかの器量人でな、敵にしておくには惜しい男だと思ってさ……」
秀は居住まいを正し、真剣な眼差しで夫を見つめた。
「夫君……公私の情を混同してはなりませぬよ」
「分かってるって!」蘇然は秀を抱きしめ、頭を撫でた。「陶謙大人が張燕をどう処遇するかも分からんしな。まあ、その話はもういいや!」
蘇然は悪戯っぽく笑い、秀の手を愛おしそうに握り直した。
「……それよりさ。黄巾の夜襲も完璧に蹴散らしたし、そろそろ……へへっ」
秀の白い頬が一瞬で朱に染まった。うつむき、蚊の鳴くような声で囁く。
「……妾身、万事の手配を済ませてお待ちしておりますわ。あとは……吉日を待つばかりです」
「吉日!? いつだ!? いつなんだ!?」蘇然は身を乗り出した。
秀は恥ずかしそうに上目遣いで夫を見つめ、指先を三本立てた。
「……三日後にございます」
「よっしゃあーーーッ!!」
蘇然は歓喜の雄叫びを上げ、秀の柔らかな頬にブチュッと音を立てて口づけを落とすと、脱兎の如く庭へ飛び出していった。
そして徐州の空を見上げ、両手を広げて絶叫した。
「母ちゃん! あんたの息子が、ついに結婚するぞーーッ!!」
庭で狂喜乱舞する夫の姿を見つめ、秀は濡れた頬を手でそっと押さえ、呆れたように小さく笑い声を零した。
「もう……本当に子供のようなお方……」
その夜、興奮のあまり一睡もできなかった蘇然に付き合わされ、秀もまたほとんど眠れぬ夜を過ごした。だが、夫がこれほどまでに自分を大切に想い、婚礼を待ち望んでくれていることが、何よりも誇らしく、幸福であった。
翌朝。一睡もしていないはずの蘇然は、驚くほど気力に満ち溢れて跳ね起きた。
一方の秀は、眠たげに小さなあくびを噛み殺し、夫の元気すぎる後ろ姿に呆れ半分のジト目を向けつつ、幸せそうに微笑んだ。
蘇然が飛び出していった後、秀は奥の箪笥から、丁寧に仕舞い込まれていた深紅の婚礼衣装を取り出した。
冷たい絹の肌触りを愛おしそうに撫でるその瞳に、懐かしさと、薄氷のような哀しみが宿る。
「……母上。秀は……お嫁に行きます……」
「先生が大婚を!?」
知らせを聞いた陳登は目を輝かせ、即座に胸を叩いた。
「万事、この元龍にお任せください! 学生が保証いたします、必ずや……」
「何を保証する気だ?」蘇然が怪訝そうに眉をひそめた。
「徐州城中の誰もが知る、空前絶後の盛大な祝宴にしてみせます!」
「やっぱりそう来ると思ったよ!」
蘇然はカッと目を見開いた。
「今がどんな時世か分かってるのか!? 城内には避難民が溢れて食糧難だって時に、そんな馬鹿騒ぎして民衆に迷惑をかけられるか! 身内だけで静かにやるんだよ!」
陳登は深々と平伏した。
「民を慈しむ先生の至高の仁心、学生の遠く及ぶところではございませぬ……!」
(いや、俺だって本当は派手に祝いたいんだよ……! 秀がどうしても『内輪だけで慎ましく』って言うから我慢してんだよ……!)
蘇然は内心で歯ぎしりしつつ、咳払いをした。
「そういうわけだから、三日後、うちに来て酒を飲んでくれればそれでいい」
陳登は手ぶらの蘇然をまじまじと見つめ、首をかしげた。
「して……招待状は?」
「招待状?」蘇然はポカンと口を開けた。
「…………」
(やはり手ぶらで来られたか……!)
陳登は心の中で苦笑し、恭しく拝礼した。
「もし先生がお嫌でなければ、そのあたりの手配も全て学生が代行いたしましょう」
「礼儀作法とか、よく分からんから助かるよ。くれぐれも大袈裟にするなよ?」
「心得ております!」
「頼んだぞ!」
蘇然は上機嫌で陳府を後にした。
陳登は呆れと敬愛の入り混じった溜息をつき、奥の書斎へと向かった。
「父上……我が師・蘇然先生が、三日後に大婚を挙げられます」
竹簡をめくっていた陳家の家長・陳珪が手を止めた。
「ほう……あの蘇然がか」
「はい、父上」
「ふむ……あの若造の器量を、儂は見誤っておったようだな」
「見誤るどころの騒ぎではございませぬ!」陳登が笑う。
「口を慎め」陳珪は息子の頭を軽く小突き、目を細めた。
「元龍よ、お前がそこまで心酔する理由を、儂にも納得させてみよ。あの蘇然という男、真にそれほどの神算を持つのか?」
「敵の動向を百里先から見透かし、繰り出す奇策は千変万化、編み出す戦術は古今に類を見ず……学識に至っては、ただ『博学無双』としか申しようがございませぬ」
陳珪は目を丸くした。あの誇り高く、徐州の誰をも見下していた息子が、ここまで一人の男を全肯定するなど前代未聞であった。
「よかろう。すぐに引き出物の手配をいたせ。三日後、儂もお前と共に祝いに参ろう」
「感謝いたします、父上!」
その足で、蘇然は再び徐州の地下牢へと向かった。
鉄格子の向こうで、張燕は静かに座していた。
「……大婚にございますか」
張燕は自らの重い枷を見つめ、自嘲の笑みを零した。
「ならば張子安、一足先にお祝いを申し上げますぞ、蘇先生」
「いやあ、すまんすまん。冷やかしに来たわけじゃないんだが……」蘇然は照れ臭そうに頭を掻いた。
「先生の御心は痛いほど分かっております」
張燕は穏やかに首を振った。
「某のような敗軍の虜囚を『友』として扱ってくださるなど、身に余る光栄。先生のような希代の知恵者に目をかけていただき、子安、恐縮するばかりにございます」
この若き名将の行く末を思い、蘇然は胸を痛めて静かに立ち上がった。
「友は友だが、公は公だ。そこは曲げられん……悪く思うなよ、子安」
「達者でな、子安」
蘇然が背を向けて歩き出した。
薄暗い牢の奥で、張燕はその青い背中を見送りながら、静かに、だが確信に満ちた笑みを口元に浮かべた。
「……ご達者で、蘇先生。いずれまた……必ずや相見えましょうぞ」




