第五十一章 牢裏の酒論と、大乱の予言
「何だ? 私の名前に何かおかしなところでもあるのか?」
蘇然は手際よく薄切りにした馬肉を青銅の鍋の熱湯へとくぐらせながら、何気ない調子で尋ねた。
「あ……貴殿が、貴殿こそがあの蘇然・蘇守義殿であられたのか……!」
張燕はようやく合点がいった。目の前の素朴な身なりの青年こそが、自分に手痛い敗北を幾度も味わわせ、そしてかの大賢良師・張角が名指しで執着していた人物その人だったのだ。その声には、敵愾心を通り越した敬意が滲み出ていた。
「そうだ、俺が蘇然だ」蘇然は怪訝そうに張燕を一瞥し、鍋を指差した。「火鍋だ。食うか?」
「……か、火鍋?」張燕は眉をひそめた。
(あ、しまった。この時代の人間には通じないよな)と蘇然は心の中で苦笑した。
ちょうどその時、先ほどの徐州兵が薬味の小皿を運んできた。蘇然が最も欲していたものだ。兵士は張燕を憎々しげに睨みつけると、音を立てて退出していった。
蘇然は箸で火の通った馬肉を一枚つまみ上げ、フーフーと息を吹きかけて冷ますと、薬味をちょんとつけてハフハフと美味そうに口へ放り込んだ。
肉の煮える芳香と蘇然の咀嚼音に、張燕の喉仏がゴクリと大きく上下した。
「ほら、遠慮するな。一緒に食おうぜ」
蘇然が気さくに促すと、張燕は乾いた唇を舐め、痛む体を引きずるようにして鍋の前へと這い寄った。
「おっと!」蘇然が手を打った。「飯があるのに、酒がないなんて話があるか!」
そう言うや否や、蘇然は鉄牢の扉を開け放ったまま、小走りで外へと駆け出していった。
「…………」
開け放たれた鉄扉を見つめ、張燕の瞳に一瞬だけ脱走の衝動が走った。だが、すぐに深く溜息をつき、自嘲気味に呟いた。
「……外には精鋭が張り付いている。出られるはずもなかろうに……」
それが脱出を諦めるための言い訳なのか、それとも己の義理立てなのか、自分でも判然としなかった。
(蘇守義……実に食えない男だ)
張燕は姿勢を正し、乱れた衣を整えた。煮えたぎる肉の湯気にも目をくれず、静かに瞑目して蘇然の帰りを待った。
間もなく、蘇然が革袋の酒と二つの漆器の杯を抱えて戻ってきた。端然と待つ張燕の姿を見て、破顔する。
「張将軍、流石の風格だな! さあ、飲もう!」
蘇然は張燕の杯に酒を並々と注いだ。
張燕の胸が熱く震えた。震える手で杯を掲げ、まず蘇然に返杯しようとしたが、蘇然はすでに下を向いて肉を口に運んでおり、「将軍、早く食えよ!」と促す始末だ。
張燕は気まずそうに杯を掲げたまま固まっていたが、諦めて一気に酒を干した。そして薬味もつけずに熱々の肉を一切れ口に放り込む。
飢えのせいか、これまでの人生で口にしたどんな山海の珍味よりも美味く感じられた。貪るように立て続けに三切れ平らげ、ようやく一息ついた張燕は、恥じ入るように蘇然を見つめた。
蘇然は彼が牢獄の干からびた残飯に口をつけなかった誇り高さを察し、あえて何も言わなかった。
張燕は酒袋を手に取り、蘇然と己の杯を満たすと、重々しい口調で切り出した。
「蘇先生、某に一つ解せぬことがございます。どうかご教示願いたい……」
「張将軍……」
「子安とお呼びくだされ」
「ああ……では子安殿。何が解せないんだ?」
「無礼をご容赦願いたい。某の目から見て、先生は利権に群がる名門世家の士大夫には見えませぬ。……なればなぜ、我が黄巾が天下を平定するのを阻まれるのですか!」
「へ……? 天下を、平定……?」
蘇然は目を丸くした。黄巾軍の幹部が、自分たちを「天下を平定する義軍」だと本気で信じ込んでいることに絶句したのだ。
「今の天下の、どこが定まっていないと言うんだ?」
張燕は言葉に詰まり、蘇然の顔をまじまじと見つめた後、深く首を横に振った。
「先生はご存じないのです……。徐州はまだ恵まれておりますが、他国の地では……民の苦しみは地獄そのもの。飢饉が起きても朝廷は苛政と重税で絞り上げるばかり。もはや……耐え切れぬのです!」
蘇然は黙って酒を啜り、耳を傾けた。
「先生は『易子而食(飢えた親が互いの子を交換して食らう)』という言葉をご存じですか?」
「……我が子を殺して食うに忍びず、他人の子と取り替えて……食べる、あれか」
蘇然は思わず口をつぐんだ。現代人には想像を絶する凄惨さだ。
張燕は驚いて蘇然を見つめ、自嘲気味に笑った。「流石は蘇先生、博学であられる。……その通りにございます」
生まれながらにして全てを知る者が本当にいるのかと、張燕は畏怖を抱かざるを得なかった。
「だが……いくら何でも、今の天下がそこまで酷いとは……」蘇然が眉をひそめる。
張燕は悲痛に溜息をつき、黙り込んだ。蘇然もかける言葉が見つからず、ただ黙々と肉を噛み締めた。
「先生……」張燕が拳を抱えて問う。「先生は、我ら黄巾をどのように見ておられるのですか?」
「……俺の、見方?」
蘇然は躊躇った。しばらく張燕の真っ直ぐな瞳を見つめた後、静かに口を開いた。
「徐州の兵をどれほど殺したか、という恨み言はここでは言うまい。ただ一つだけ言わせてもらうなら……お前たちは乱世を平定したのではない。乱世の引き金を引いただけだ」
張燕の目がカッと見開かれた。「そんなはずはないッ!」
立ち上がりかける勢いで絶叫する。
「我が黄巾の天軍は天命に従い、天下を平定するために立ったのだ! 乱世を招いたなどと……そんなデタラメ、認められるものか!」
「落ち着けよ子安、ちゃんと説明するから」
蘇然は溜息をつき、静かに問いかけた。
「黄巾軍の実力はどれほどのものだ?」
意図を測りかねつつも、張燕は胸を張って答えた。
「先生もご存じの通り! 各地の官軍など敵ではありません。洛陽の禁衛軍のみが辛うじて抗し得る程度。洛陽さえ落とせば、天下は平定されます!」
「洛陽を落とす日など、永遠に来ないさ」
蘇然は淡々と言い放った。
「忘れるな、ここはまだ大漢の天下だ。朝廷から天子の詔が一通下れば……お前たちなど」
蘇然は凍りつく張燕を見据え、低く囁いた。
「……天下の群雄を甘く見るな」
張燕は激しく動揺し、眉を寄せて問うた。
「我が黄巾と渡り合える軍勢が、天下のどこにいるというのです!」
「いくらでもいるさ」蘇然は苦笑した。
「西涼・董卓の軍勢、幽州・公孫瓚の白馬義従、天子の足元を固める禁軍……いや、それらを挙げるまでもなく、徐州の丹陽精兵を貴様らも身をもって知っただろう?」
「西門の戦いは某も聞き及んでおります。だが、あの丹陽兵がいかに勇猛であろうと、先生の神算鬼謀の足元にも及びませぬ……」
(おいおい、俺の策は小さな小細工どころか、必死に頭を絞ったんだぞ……)と蘇然は照れ臭さを覚えたが、首を振って本題に戻した。
「子安、よく考えろ。黄巾の勢いが凄まじいからこそ、朝廷は天下の力を結集せねば鎮圧できない。現に朝廷は詔勅を出し、大将軍・何進の名で各地の豪族や諸侯に勝手な募兵と軍の私有を認めたはずだ」
張燕は頷いた。
「その詔が出た瞬間、天下はどうなる? 群雄割拠を朝廷自らが公認したも同然だ! 各地の諸侯や名門世家は黄巾討伐を大義名分にして私兵を膨れ上がらせ、いずれ天下を切り取り合って争うことになる。漢室の権威など、大河を漂う木の葉のように粉々に砕け散るぞ」
張燕の顔から血の気が引いていった。深く思索するほど、蘇然の言葉が恐ろしい真実を突いていると悟ったからだ。
「そして、野心を抱く者が現れれば……」蘇然は張燕を真っ直ぐに見据えた。「漢室を見限り、お前たちの真似をして各地で旗揚げするだろう。……天下は大乱に陥る。その最悪の先例を作ったのは、他でもないお前たち黄巾軍だ!」
張燕の精神は完全に打ちのめされていた。震える声で問う。
「で……では先生、その先はどうなるのですか……?」
(その先? 三国鼎立して、最後は司馬氏に全部持っていかれて、その後に五胡乱華の地獄が待ってるんだよ……なんて言えるわけないだろ)
蘇然は口元を引きつらせ、言葉を濁した。
「今の時局すら目も当てられない惨状だというのに、その先など語る価値もない」
張燕の全身から、それまで彼を支えていた信条という名の骨組みがガラガラと崩れ落ちていくようだった。
「我らは……天下を救うどころか、乱世を招いた元凶だったというのか……? 天下はあの暗君の手にあるべきで、民はただ地獄に耐えるしかなかったというのか……?」
(うわ……言い過ぎて精神崩壊させちゃったか?)
蘇然は焦り、目の前の抜け殻のようになった張燕を覗き込んだ。
「先生の仰せ、我が魂を根底から揺るがすものにございました。……子安、静かに考えとうございます。先生、どうかお引き取りを」
張燕は立ち上がり、蘇然に向かって深々と、地に着くほどの礼を捧げた。
「子安に迷妄を破る教えを賜り、心より感謝申し上げます……」
「あ、ああ……よく考えてくれよ」
蘇然は気まずそうに牢を後にした。(刺激に弱すぎるだろ……俺は歴史の事実をちょっと喋っただけなのに!)
蘇然が去った薄暗い地下牢で、張燕は呆然と虚空を見つめ、血を吐くように独りごちた。
「黄巾……天下……。ああ、大賢良師よ……我らの行いは天に従うものだったのか、それとも天に背く大罪だったのか……」




