第五十章 牢獄の馬肉鍋と、名将・張燕との対面
翌朝、目を覚ました蘇然は、起きてきた糜貞を見るなり不機嫌そのものの視線を向けた。
(飲めないなら無理して飲むんじゃないよ、まったく!)
可哀想なのはこの俺だ……と、蘇然は心の中で血の涙を流していた。
昨夜、あの小娘が泥酔してしまったせいで、秀はその看病にかかりきりとなり、二人で寝室へ入ってしまったのだ。哀れな我が家の主人は、一人寂しく冷え冷えとした客間で夜を明かす羽目になったのである。
……とはいえ。
蘇然は目の前のお転婆娘をつま先から頭のてっぺんまでじっくりと眺め直した。まさかこの小娘までが、あれほど優雅に舞い踊れるとは夢にも思わなかった。昨夜、二人の絶世の美女がほんのり頬を染め、羽扇を手にして舞い戯れる姿は、現代人たる蘇然の目を心底奪い去るに十分な眼福であった。
——まあ、それとこれとは別問題! 俺の甘い夜を奪った罪は万死に値するがな!
「何よこの悪党! 朝からジロジロ見つめちゃって!」
秀が居ないのを見計らい、糜貞は昨日のしおらしさを脱ぎ捨てて生意気な口調に戻っていた。
「お前なぁ……」
「夫君……」
長い黒髪を後ろで束ねながら、秀が奥からしとやかに出てきた。
「貞児妹さんは昨夜、外泊してしまわれたのですもの。ご家族の方々がどれほどご心配なさっているか分かりませんわ。夫君、お屋敷まで送って差し上げてくださいな」
「「そんなの嫌だ(嫌です)!!」」
蘇然と糜貞の声が、綺麗にハモって重なった。
「あら、そうね」秀はくすりと笑って首をかしげた。「男子の夫君が送っては、かえって妙な噂が立ちかねませんものね。……よし、妾身が貞児妹さんをお送りしてまいりましょう。夫君、ご用がおありなら行ってらっしゃいませ」
糜貞は胸を撫で下ろした。もしあの悪党に送らせて、屋敷の前で大兄上(糜竺)に鉢合わせでもしたら何を言われるか分かったものではない。彼女は盗み見るように蘇然へ視線を送った。
(……でも、ちょっとくらいなら送ってくれてもいいのに……)
蘇然にしてみれば、今日は徐州の地下牢へ行って、捕虜になった張燕の面拝みに行く予定だったのだ。生意気な小娘の送り迎えなど真っ平ごめんである。
秀は二人の間で交わされる複雑な視線の機微を見逃さず、心の中で可笑しそうに微笑んだ。
「参りましょう、妹さん」
「……はい」糜貞は頬を膨らませ、どこか物足りなさそうにうつむいた。
その頃、徐州屈指の豪商・糜家の大屋敷では——。
「家門の恥辱だ! 我が糜家の名折れ、先祖代々の大不祥事であるッ!!」
次男の糜芳が、大袈裟に頭を抱えて悲壮な声を張り上げていた。
当主である長兄の糜竺は、茶を啜りながら冷淡な目で弟を見つめ、一言も発しない。
「ああ、先祖の霊に何とお詫びすればよいのか!」糜芳は天を仰いで嘆息を繰り返す。「世が世なら、一族郎党に合わせる顔が……」
「いい加減にせんか」
糜竺は眉をひそめ、弟の大根役者ぶりを一喝して遮った。
「貴様が日頃から甘やかし放題に放任しておるから、貞児があそこまで増長するのだ!」
「兄上ッ!」糜芳は顔を歪めて叫んだ。「そりゃあ酷い言いがかりですぜ! 貞児は俺の可愛い妹なんですよ? 兄貴だって目に入れても痛くないくせに、俺がどうして厳しく当たれますかい!」
「黙れ!」糜竺は頭痛をこらえるように額を押さえた。「お前の妹なら、私の妹でもあるわ!」
「当たり前じゃないですか!」糜芳は胸を張った。「長兄は父も同然! 俺にとっても貞児にとっても、兄上は永遠に……」
「もうよい!」糜竺はため息をついた。「貞児が帰ってきても、手荒な罰は加えん。その代わり、城内の然るべき名家を早急に調べ上げろ。良縁を探すのだ」
「兄上……」糜芳はふざけた態度を改め、真顔になった。「本気ですかい? それはちと拙いんじゃ……」
「何が拙いのだ? 貞児も今年で十五、とっくに及笄(成人の節目)を迎えた年頃だ。嫁ぎ先を探して何が悪い」
「はぁ……」糜芳は深く息を吐き、真剣な眼差しで兄を見据えた。「兄上、お袋様の遺言を忘れたんですかい?」
糜竺はハッとして息を呑んだ。うつむき、遠い日の記憶を手繰り寄せる。
「……公良、貴様、私が糜家の権勢のために政略結婚を企んでいるとでも思っているのか?」
糜芳は薄く笑い、肯定も否定もしなかった。
「糜家が家柄のために妹を道具にするような真似をすれば、あの世で先祖や母上に顔向けできんわ!」糜竺は吐き捨てるように言った。
「へへっ、その言葉が聞きたかったんですよ!」糜芳は相好を崩した。
「まったく、調子のいい奴め……!」糜竺は弟を指差し、苦笑した。「まあよい。ならば聞くが、今回の朝帰りの件、お前ならどう落とし前をつけるつもりだ?」
「えっ? お咎めなんてあるんですかい?」
糜竺の眉間がピキリと青筋を立てた。
その表情に怯んだのか、糜芳はチラリと兄の顔色を窺い、控えめに提案した。
「……じゃあ、十日間の外出禁止ってことで……」
「…………」
茶を飲もうとしていた糜竺の手が止まった。
「深窓の令嬢が朝帰りをして……き、禁足十日だと……!?」
「兄上、ちと重すぎましたかい?」糜芳は深刻そうな顔を作ってため息をついた。「俺だって妹に甘くしてやりたいのは山々ですが、こればかりは示しがつきませんからね! ええい、涙を呑んで禁足十日!」
「公良ッ!!」糜竺は机を激しく叩いた。
「へい! まだ何かご指示が!?」
糜竺は弟をしばらく凝視し、やがて力なく笑い出した。
「やれやれ……お前がそうやって甘やかすから、貞児があんなじゃじゃ馬に育ってしまったのだ。これでは相応しい良人に巡り合えんではないか」
目的を果たした糜芳はニヤリと笑った。
「いやいや兄上、案外その心配は要らないかもしれませんぜ?」
「む? どういうことだ?」
「兄上はご存じないでしょうが、あの妹、最近やたらと俺の耳元で『あの悪党が、あの悪党が』とブツブツ愚痴をこぼしておりましてね。己で気づいていないだけで、とっくに心に決めた男がいるんじゃありませんかねえ」
「なに……? 私には一言もそんな話はしてくれんかったが……」糜竺は寂しそうに肩を落とした。「そうか……貞児はお前によく懐いているからな。私のような堅物の兄には……はぁ……」
「兄上を敬遠してるんじゃありませんよ。あいつはまだ幼くて、物事の分別がつかないだけですって」
「お前という奴は……」糜竺は苦笑し、身を乗り出した。「して、その相手とは何者なのだ?」
「それが言えた義理なら苦労はしませんよ。あいつが俺に素直に教えるわけがないでしょう」
「それもそうだな。……だが、貞児の一生がかかっているのだ。公良、少し耳を貸せ」
二人は頭を寄せ合い、何事かをヒソヒソと囁き合った。
その頃、蘇然は案内役の兵に導かれ、徐州城の地下牢へと足を踏み入れていた。
薄暗い鉄格子の向こう、冷え切った石畳の上に、一人の男が座り込んでいた。二十代半ば、荒くれ者の多い黄巾軍にあって、どこか学者肌の端正な顔立ちをした男だ。
「あいつが、張燕か?」蘇然が隣の精鋭兵に尋ねる。
「はい、先生!」
兵士が鉄扉の錠前をガチャリと外し、抜刀した数名の護衛が警戒を露わにして踏み込んだ。男の四肢は太い鉄鎖で厳重に繋がれている。
張燕はゆっくりと目を開けた。鋭い虎のような双眸で室内を見回し、冷笑を浮かべる。
「お前が、張燕か?」
拍子抜けするほど軽やかな声に、張燕は怪訝そうに眉をひそめた。
「……いかにも、某が張子安(張燕)だ!」
蘇然は目を丸くして彼を眺めた。(これがあの伝説の黒山賊の首領、張燕か……!)
男が自分を無遠慮に凝視してくるのに対し、張燕は侮辱されたと感じたのか、激昂して吼えた。
「殺すなら疾く殺せ! 某が命乞いの声一つでも上げると思うたか!」
「誰を殺すって?」
現代の思考回路のままぼんやりしていた蘇然は、間の抜けた調子でオウム返しにした。
「…………」
張燕は喉を詰まらせ、異様な生き物を見るような目で蘇然を凝視した。
(なるほど、一本筋の通った侠客肌の男だな)
蘇然は内心で感心しつつ、ふと鉄格子の隅に置かれた器に目を留めた。手つかずの冷え切った粥が、カピカピに干からびている。
「お前、ここでこんな粗末な残飯を食わされてたのか?」
蘇然が振り返ると、背後の徐州兵たちは決まり悪そうに視線を逸らした。一人が進み出て言い訳がましく告げる。
「先生……目下、城内は兵糧が逼迫しておりますゆえ……賊将に回す飯など……」
兵士たちの表情を見れば、全ては察しがついた。家族や戦友を殺された彼らが、黄巾の将をまともに遇するはずがないのだ。よく見れば、張燕の着物の下には生々しい鞭の痕が幾筋も走っていた。
「……張将軍の鎖を外してやれ」蘇然が静かに言った。
「し、しかし……!」
「いいから外せ」
「……御意」
徐州兵は忌々しそうに舌打ちし、乱暴な手つきで重い鉄鎖を取り外した。
先日の激戦で深手を負っていた張燕は、さらに厳しい拷問を受けていたため、身体を支えていた鎖が外れた瞬間、どうと石畳に崩れ落ちた。だが彼は奥歯を噛み締め、壁に背を預けて這い上がると、蘇然を真っ直ぐに見据えて低く言った。
「……恩に着る」
蘇然は痛ましげに頷き、ふと思い立ったように尋ねた。
「飯、食ったか?」
「……は?」
張燕はポカンと口を開けた。
(飯を食ったかだと……? 死刑の前の尋問ではないのか……?)
蘇然は苦笑いを漏らし、頭を掻いた。現代の「ご飯食べた?」という日常の挨拶が、この戦乱の時代の虜囚に通じるはずもない。
彼は手近な兵を呼び寄せ、耳元で小声で指示を出すと、懐から一貫の銭を取り出して握らせた。兵士は一瞬躊躇ったが、すぐに頷いて走り去っていった。
「お前たち、下がっていていいぞ」蘇然が護衛たちに言った。
「先生、滅相もございません! 危険すぎます!」
「見ろよ、この怪我だぞ。俺を人質に取る体力なんて残っちゃいないさ」
蘇然のその一言に、張燕はプライドを刺激されてピクッと眉を動かした。護衛兵たちはしぶしぶ後退したが、牢の外から油断なく視線を注ぎ続けている。
張燕は粗末な羽織を纏った蘇然をじっくりと観察した。名門世家の出のようには見えない。この男は一体、何者なのだ?
間もなく、先ほどの兵士が戻ってきた。抱えてきたのは、三脚の青銅の鍋(食鼎)と薪の束。さらに別の兵が、手際よく切り分けられた生の肉塊を運んできた。
「馬肉だ」
蘇然は薪に火を熾しながら、事も無げに説明した。
「今の徐州城で肉を食おうと思ったら、目玉が飛び出るような大金がいる。この馬肉は、お前たちの……」
そこまで言って、蘇然は気まずそうに口籠もった。(『お前たちの騎兵が乗って突っ込んできて、射ち殺された軍馬の肉だ』なんて、本人の前で言えるわけがないだろ!)
「…………」
張燕は押し黙り、手際よく鍋に冷水を注ぎ、肉を放り込んでいく青年の横顔を冷徹に見つめていた。
やがてぐつぐつと湯気が立ち上り、肉の煮える匂いが冷たい牢内に広がり始める。
ただ黙って鍋を見つめ続ける蘇然のマイペースさに痺れを切らしたのか、張燕は低く重い声で問いかけた。
「……先生、名を伺いたい。某に飯を恵んでくださる貴殿の尊名を、知る栄誉を授けてはいただけまいか」
「俺?」
煮え立つ鍋から目を離さず、蘇然は当たり前のように答えた。
「蘇然っていうんだ」
「——なっ!?」
張燕は弾かれたように身を起こし、傷口の激痛も忘れて、目の前の青年を戦慄の眼差しで見つめた。
「そ、蘇然……!? 貴殿が……あの蘇守義殿なのか……!?」




