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三国夢  作者: 玄雨竜


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第四十九章 幼き日の追憶と、酒盃に映る幻影

「母上……」

四歳の小さな糜貞(ビテイ)は、小走りに母の元へ駆け寄り、不思議そうに首をかしげた。

「母上、どうして貞児には、あんなにたくさんのおば様(側室たち)がいるの?」


糜貞の母はふっと瞳を曇らせ、何も言わずにただ優しく小さな娘の黒髪を撫でるばかりだった。


……


「母上、母上!」

少し大きくなった糜貞が、大事そうに本を抱えて駆け寄ってきた。

「見て母上! 貞児ね、大きくなったら大将軍になるの! この本に書いてある英雄みたいにね、父上が母上を守ってくれないなら、貞児が母上を一生守ってあげるんだから……」


「まあ、この子は……。女子(おなご)は大将軍にはなれないのよ。お前の二人の兄上ならともかくね……」


「どうして女子は将軍になっちゃいけないの?」

幼い糜貞は母の顔をじっと見つめた。


「……どうしてって……」母は言葉に詰まり、困ったように微笑んだ。「……女子が将軍になるなんて、昔から決まりのないことだからよ」


……


六歳になった糜貞は、手元の針仕事を放り出し、窓辺へと歩み寄った。

中庭で長兄と次兄が楽しげに木剣を合わせ、武芸に励んでいる姿を羨ましそうに見つめる。小さな顔には、隠しようのない寂しさが滲んでいた。

(……やっぱり、女子は本当に将軍にはなれないんだ。みんな、そう言うもの……)


……


八歳になった糜貞は、少し照れくさそうに母の着物の裾を握りしめて言った。

「貞児、お嫁になんて絶対に行かない! ずっとずっと、母上のそばにいるんだから!」


「おかしな子ね」母は微笑んで娘の頭をポンポンと叩いた。

「貞児はこんなに器量良しに育っているのだもの。年頃になったら、求婚の使者が我が家の敷居を踏み折ってしまうくらい押し寄せるわよ」


「やだ! やだやだやだ!」糜貞は両手で耳を塞いだ。


「けれどね、よく覚えておきなさい、貞児……。女子にとって婚姻とは、己の一生そのものを預けることなのよ。良き夫に巡り合えれば幸せだけれど……もしそうでなければ……ああ、けれど結局のところ、女子は己の行く末すら自分で選べないのよね……」


……


「母上ッ!」

病床の傍らに泣き崩れる糜貞の声が響いた。

「行かないで、母上……!」


「……泣くんじゃ、ないよ……」

母は痩せ細った手を弱々しく伸ばし、愛娘の濡れた頬を撫でようとした。

「ほら……顔が、涙でぐしゃぐしゃじゃないか……。貞児……母上がいなくなっても……自分の体を、大切にするんだよ……」


糜貞は袖で乱暴に涙を拭い、唇を噛んで母の薄れゆく瞳を見つめた。

周囲に控える使用人たちを見回した母は、手招きをして娘の耳元へ顔を寄せさせた。


「貞児……母上が最後に、女子として慎みのないことを言っておくよ……。女子の婚姻は……己の一生を左右するもの……。母上はお前が……辛い思いをするのだけは、見たくないんだ……。家柄や身分なんて、どうでもいい……。ただ……ただお前を心から慈しみ……自らの手でお前を養い……苦労を背負わせない男なら……そんな男になら……嫁ぎ……なさい……」


「母上……」


糜貞は口元を両手で覆い、堰を切ったように止めどなく涙を流していた。

なぜだろう。あの青年が妻の寒さを気遣い、自ら市場へ買い出しに出たと言ったあの瞬間から、幼い頃に母と交わした記憶の数々が、走馬灯のように胸を駆け巡っていたのだ。


ちょうどその時、出来上がった料理の皿を両手に抱えた蘇然(そぜん)が、台所からひょっこりと顔を出した。

そして、居間で一人静かに涙を流している糜貞の姿を目にし、完全に思考停止した。


(……え? なんで泣いてんの!?)


糜貞は蘇然に気づくや否や、サッと俯いて懐からハンカチを取り出し、手荒に涙を拭った。


「あ……あの……お嬢さん?」


「……何でもないわよ」

糜貞はプイと横を向いた。


「あ、そう……」

わけのわからない蘇然はおずおずと料理を卓に並べ、気まずさに耐えかねて台所へ戻ろうとした。


「——待ちなさい!」


「え?」蘇然が首をかしげて振り返る。


「……女子は、本当に大将軍にはなれないの? どうして女子じゃダメなのよ!?」


「…………」

蘇然はあんぐりと口を開けた。

(この時代に花木蘭(ファ・ムーラン)の先駆けかよ!? この娘のジェンダー観、時空を二千年くらい先取りしてないか!?)


真剣な眼差しで食い下がってくる糜貞を前に、蘇然は頭をポリポリと掻きながら、口ごもりつつ答えた。

「いや……絶対になれないってわけじゃないと思うけどさ。ただ……ほら、今の社会……っていうか、この時代と朝廷の仕組みが、それを許さない空気になってるだけなんじゃないかな」


糜貞は蘇然の顔を見つめ、失望を隠せないように吐き捨てた。

「……女子は、生まれながらに男の付属物に過ぎないってわけね」


「いやいや、そんな極端な話じゃないだろ!」

現代人の感覚を持つ蘇然は、放っておけずに慌てて口を挟んだ。

「本をたくさん読んで、世の中の仕組みを知るのだって素晴らしいことじゃないか。男と女が一緒に暮らすのに、どっちが付属物だなんて上下関係があるもんかよ。人生っていう長い道のりは、互いに支え合って並んで歩いていくものだろ?」


糜貞は呆然と蘇然を見つめた。やがて、少し棘を含んだ声で鼻を鳴らす。

「本を読め、ですって……? ふん、女子なんて『三従四徳』さえ弁えていれば十分だって、世の中の男は皆そう言うわ。妻に余計な学問をつけさせようとする男が、一体どこの世界にいるっていうのよ……」


そこまで言いかけて、糜貞の言葉がピタリと止まった。

彼女は息を呑み、目の前に立つ青年をまじまじと見つめ返した。


「な……何だよ?」蘇然が居心地悪そうに身を引く。


糜貞の胸の奥で、今まで味わったことのない未知の期待がパチパチと弾けていた。

紅い唇をキュッと結び、やがてふっと、悪戯っぽく可憐な笑みを零す。


「ふふっ……悪党のくせに、ずいぶんと耳障りのいいことを言うのね。女子を役立たずの飾りとしか見ていない世の男たちとは、まるで大違いじゃない」


(当たり前だろ! こちとら男女平等の新社会で生まれ育った現代人なんだよ! 高校時代の女子学級委員長なんて死ぬほど怖かったぞ、毎日宿題出せって追い回されてトラウマだわ……)


糜貞は目を細めて蘇然を見つめた。見れば見るほど、この男の放つ空気は不思議で、心地よかった。

彼女は薄く唇を噛むと、意を決したように言った。

「ねえ悪党。そういえばあなた、まだ私の本当の名前を知らないでしょ?」


「あ、そういえばそうだな」蘇然は呟いた。「……で、何て名前なんだ? ……いや、お嬢さんの芳名をお聞かせ願えますか?」


糜貞はツンと白目を剥いてみせた後、ゆっくりと立ち上がり、乱れのない見事な所作で淑やかに一礼を捧げた。

「某(それがし)は糜家の娘、名は貞と申します。……蘇先生、よしなにお見知りおきを」


(なるほど、さっきの偽名劇場の怒りは秀に全部バラされたからだったのか……。それにしても、糜家の娘で貞って……糜貞……?)


「——糜貞(ビテイ)ッ!?」

蘇然は目を剥き、素っ頓狂な叫び声を上げた。

「お、お前……お前が、あの糜貞なのか!?」


「な、何事ですの?」

ちょうど台所から大皿を運んできた秀が、部屋の異様な空気に驚いて目を瞬かせた。


糜貞もポカンと口を開けていたが、顎が外れそうになっている蘇然の滑稽な表情を見て、思わずクスリと笑ってしまった。この悪党、実に表情豊かで面白い。


(糜貞!? あの劉備の妻になって、長坂坡の戦いで足手まといになるまいと井戸へ身を投げた、あの女中豪傑の糜夫人かよ!?)

蘇然は目の前のお転婆娘を食い入るように見つめ、胸の内を激震が駆け抜けた。三国志に名を残す絶世の烈女が、まさかこんな間近にいたとは……! 今まで単なる生意気な町娘だと思って完全に油断していた!


秀は夫が若い娘を無遠慮に凝視し続けているのを見て、流石に眉をひそめた。無礼であるばかりか、妻の前であまりに露骨である。秀はスススと歩み寄ると、蘇然の腰を後ろからツンと小突いた。


「あ痛っ!」

我に返った蘇然は、冷や汗を拭いながら咳払いをした。


「……先生は、奴家(わたくし)をご存じでしたの?」

糜貞は秀の前ということもあってか、先ほどまでとは打って変わってしおらしく、鈴を転がすような猫撫で声で尋ねてきた。


「え、あ、いや……」蘇然は背中に冷や汗を流しつつ、必死で言い訳をひねり出した。

「糜竺殿が、君のお兄さんだろ?」


「ええ……」糜貞は頷いた。「大兄上にございます。もう一人、糜芳という次兄もおりますが……」


「ほら、やっぱりそうだった!」

蘇然は胸を撫で下ろし、怪しむ秀に向かってわざとらしく弁解した。

「以前、元龍の屋敷で糜竺殿と顔を合わせたことがあってね。『うちには貞児というお転婆な妹がいて手を焼いている』って苦笑いされていたのを思い出したんだよ。だから、つい……」


「貞児」という愛称が蘇然の口から滑り出た瞬間、糜貞の呼吸がふっと止まった。

頬が一気に林檎のように赤く染まり、胸の中で小鹿が暴れ回るようにトクトクと鼓動が跳ね上がる。(な、何なのこれ……私、どうしちゃったの……?)


秀は糜貞の急変した様子を怪訝そうに見つめつつ、夫の辻褄の合った説明に一応は納得して頷いた。名門の深窓の令嬢の諱(いみな)など、近親者でなければ知り得ないはずのものだ。糜竺から聞いたというなら筋は通る。

(……けれど、夫君がこの方を見る目は、美貌に鼻の下を伸ばしているというより、どこか敬服しているような不思議な色が含まれていたわね……。まあいいわ、夫君の底知れなさは今に始まったことではないもの)


(まさか、あの糜夫人がこんなじゃじゃ馬だったとはなあ……)

蘇然は心の中で呟きつつ、卓の上に二つの酒杯を並べた。秀が手際よく三人分の碗と箸を配膳する。


すると、蘇然は当たり前のように酒袋を傾け、まず秀の杯にトクトクと酒を注ぎ入れた。


糜貞は目を丸くし、息を呑んだ。

(この人……今、妻にお酌をしたの……?)


その驚愕を敏感に察した秀は、誇らしげにクスリと笑った。

「我が夫は世の殿方とは少々変わっておりましてね。我が家にはそのような男尊女卑の堅苦しい掟はございませんのよ、ふふっ」


妻に自ら酒を注ぎ、それを客人の前で平然とやってのける夫など、この天下のどこを探せば見つかるというのか。糜貞は信じられない思いで立ち尽くしていた。


そんな熱烈な視線を浴びせられ、居心地が悪くなった蘇然は、手持ち無沙汰を紛らわせるように言った。

「……お前も、少し飲むか?」


秀が「まあ、未婚のお嬢様に何をお勧めになるの」とジト目で蘇然を睨む。


「……いただくわ!」

糜貞はキュッと唇を噛み、即座に答えた。蘇然の手にする酒器を見つめながら、(お酒って……どんな味がするのかしら?)と好奇心に瞳を輝かせる。


蘇然は「えっ、飲むの?」と口を開け、酒袋を持ったまま秀をチラリと見た。

秀は呆れたように息を吐き、立ち上がって新しい杯を持ってくると、糜貞の前に置いて少しだけ酒を注いであげた。


糜貞は両手で大切そうに杯を掲げ、恐る恐る口唇をつけ、小さくひと口啜った。

喉元をカーッと熱い塊が通り過ぎていく。そして次の瞬間、胸の奥までポカポカとした温もりが広がっていった。


卓の向こうでは、蘇然と秀が仲睦まじく顔を見合わせ、楽しげに笑い合っている。

その温かな光景をぼんやりと見つめながら、糜貞の胸の奥で、幼い頃から夢に描いていた「未来の夫」の幻影が、目の前で笑う青年の姿と、音もなく重なり合っていった——。

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