第四十八章 台所の密談と、暴かれた偽名
蘇然は前を歩きつつ、数歩進んでは後ろをチラリと振り返った。
あのじゃじゃ馬娘が、本当にここまでついてくるとは夢にも思っていなかったのだ。
(……まあいい、船が橋のたもとに着けば自然と真っ直ぐ進む(成るようにしか成らん)さ)
今日の糜貞は動きやすい男装ではなく、可憐な女物の着物を身に纏い、小股で急ぎ足に蘇然の背中を追っていた。前を行くあの「悪党」が、少し歩くたびに心配そうに振り返って様子を見てくれる。その仕草に、彼女の胸の奥で何かが甘く疼いた。
(……これって、私を気遣ってくれているのかしら?)
どう言い訳すべきか千々に乱れる思考がまとまらぬうちに、蘇然がふと顔を上げると、もう自宅の門前だった。
「こ……ここだよ」
蘇然はきまり悪そうに振り返って呟いた。
糜貞はなぜか急におとなしくなり、小さく頷いて粗末ながら手入れの行き届いた家屋を見つめると、蘇然の後に続いて敷居を跨いだ。
「秀……」蘇然が声をかけた。
「夫君、おかえりなさ……」
秀が満面の笑みで奥から出迎えた瞬間、蘇然の後ろに佇む見知らぬ美少女の姿が目に飛び込んできた。
秀はその場にピタリと立ち尽くし、戸惑いの視線を夫へと向けた。
その瞳に浮かんでいるのが怒りではなく純粋な困惑だけであることを確認し、蘇然は胸を撫で下ろした。急ぎ足で歩み寄り、秀の耳元で囁く。
「覚えてるかい? ほら、以前話したあの店のじゃじゃ馬娘だよ……どういう風の吹き回しか、うちを見物したいって言い出してさ……」
「まあ?」
蘇然の必死の弁明を聞き、秀はすっかり安堵した。夫がどのような人柄であるか、自分が一番よく知っている。秀は糜貞へ視線を移し、柔らかな春風のような笑みを浮かべて会釈した。
「お嬢さん、よくいらっしゃいました。どうぞお上がりになって……」
「あ……ありがとうございます、お姉様……」
秀の前に立つと、糜貞は不思議といつもの気位の高さが出せず、縮こまってしまった。彼女は秀の端正な美貌と、全身から漂う奥ゆかしくも気品ある佇まいをつぶさに観察し、心の中で己と比べ合わせ——無意識のうちに悔しそうに唇を噛みしめた。
「これ、どこに置けばいい?」蘇然が両手の食材を掲げて尋ねた。
「お手数ですが、台所へ置いておいてくださいますか? すぐに秀が参りますので……」
秀は蘇然に微笑みかけると、糜貞の手を取って奥の客間へと案内した。
蘇然は肩をすくめた。(どうやら修羅場にはならずに済んだな)。胸のつかえが下りた彼は、鼻歌交じりに台所へと向かった。
客間にて。
「秀お姉様……」糜貞がおずおずと切り出した。「あなた……本当に、あの……あの人の妻なのですか?」
「ええ、何かおかしなことでも?」
秀は湯呑みに温かい茶を注ぎ、くすりと笑って手渡した。
「ですが、今のところはまだ半分だけ蘇家の人間、といったところかしら」
「え……?」糜貞はきょとんとした。
「夫君が黄巾賊を完全に退けられたら、正式に祝言を挙げて妾身を妻として迎えてくださると約束してくださっているのです」
「あ、あの人が……?」糜貞は目を丸くし、驚愕の声を上げた。「あの人が、黄巾賊を退けるですって!?」
「ええ、そうですわ」秀は不思議そうに小首を傾げた。「何か変かしら……? もしかして、貴女は我が夫の名をご存じないのですか?」
「あの悪党、そんなに有名な人なのですか?」
(悪党……?)
秀は糜貞の口調に憎しみの色が微塵もなく、むしろ別の感情が混ざり合っているのを敏感に感じ取り、心の中でそっと溜息をついた。
「我が夫は、姓は蘇、名は然、字を守義と申します」
「蘇守義……!?」
糜貞は息を呑み、身を乗り出した。「で、でも……あの人の名前は忠野林陣じゃ……」
「ただのりんじん……?」
秀は蘇然と暮らして長いため、夫が口にする現代の珍奇な造語の意味を完全に把握していた。
思わず口元を押さえ、吹き出してしまった。
「ただの隣人……ふふっ、あははっ……!」
「……お姉様?」糜貞は訳が分からず目を白黒させた。「あ、あの……あの悪党には、弟がいるのでは……?」
「弟?」秀は瞬きをしてすぐに合点がいき、首を横に振った。
「いいえ、夫君に兄弟などおりませんわ」
「——なっ! あの悪党めぇっ!!」
糜貞は眉を吊り上げ、真っ赤になって憤慨した。
なんのことはない、あの男はずっと自分の目の前を平然と行き来し、あろうことか「忠野林陣」だの「忠野多忍」だのとふざけた偽名を名乗って、自分を完璧におちょくっていたのだ!
秀はペロリと小さく舌を出した。
「もう日が暮れかけておりますわ。妹君、もし粗食でお口汚しでなければ、我が家で夕餉を召し上がっていかれませんか?」
糜貞は頬を膨らませ、ぷんぷんと怒ったまま返事もしない。
秀は可笑しそうに首を振り、「少し待っていてくださいね」と言い残して台所へと向かった。
台所に入った秀は、居間で悔しそうに唸っている糜貞の姿を一瞥し、その眉間に微かな翳りを宿らせた。
まな板の前でせっせと野菜を刻んでいる蘇然の背中を見つめ、秀はそっと歩み寄ると、後ろから夫の背中にピトッと頬を押し当て、ぎゅっと抱きしめた。
蘇然の手がピタリと止まる。
「……秀?」
背中に回された腕の温もりを感じつつ、顔が見えない蘇然は不思議そうに問いかけた。
「夫君……」
「どうしたんだい?」
「夫君……妾身は、夫君の妻……蘇家の正妻になれるのですよね……?」
なぜか、秀の声はかすかに震えていた。
「正妻?」蘇然は首をかしげた。
「夫君……」
「当たり前だろ!」
蘇然はくるりと振り返ると、秀の両頬を手のひらで包み込み、まじまじと見つめた。
そのあまりに熱い視線に、秀の顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
胸の内にある弱気な不安を見透かされたのかと思い、秀は慌てて目を泳がせる。
「ふ、夫君……なぜそのように妾身を見つめられるのですか……?」
「お前、どこか具合でも悪いのか?」
「妾身に……な、何かあるはずございませんわ……」秀はうつむいた。
「じゃあ、なんであんな妙なことを聞くんだよ?」
「へ、変……でしたでしょうか?」秀はハッとして顔を上げた。
「…………」
蘇然は秀の額に手を当て、首をかしげた。
「熱はないな……顔が真っ赤だけど、本当に大丈夫か?」
「な、何ともございませんってば……」秀は小さな手で自分の頬を覆った。
蘇然は眉をひそめて秀を見つめ、ふと居間の方角へ視線を走らせた瞬間——ポンと手を打った。
「あー……! なんだ、そういうことか! 秀のやつ、勘違いしてヤキモチ妬いてるんだな?」
「そ、そんなことございません!」
秀は羞恥のあまり声を上ずらせ、ニヤニヤと意地悪そうに笑う夫を睨みつけた。
「へへっ!」蘇然は秀の耳元に顔を寄せ、優しく囁いた。
「バカだなあ。俺の妻はお前だけだよ。あんなじゃじゃ馬娘と俺の間に、何の関係があるもんか」
最初の言葉を聞いた瞬間、秀の瞳がパッと輝き、温かな歓喜が胸いっぱいに広がった。(この人は……いつも私の欲しい言葉をくれる……)。だが、後半の言葉を聞いて、秀は心の中で可愛らしく唇を尖らせた。(何の関係もない女子が、わざわざ家までついてくるはずがありませんのに。鈍感な夫君……!)
「よしよし、もう拗ねるなよ」蘇然が秀の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「きゃっ! もう……!」
秀は恥ずかしさと愛おしさに耐えかね、真っ赤な顔で蘇然を台所の外へと押し出した。
「へっ、ヤキモチだったか。古代の女の子もちゃんと嫉妬するんだな……」
蘇然が頭をポリポリと掻きながら居間へ戻った瞬間、その足がピタリと凍りついた。
机の向こうで、糜貞が鬼のような形相で仁王立ちしていたのだ。その瞳には、燃え盛る怒りと裏切られた悔しさが渦巻いていた。
「あ……いや、その……」蘇然は冷や汗を流した。「お、お粗末な家で悪かったね……どうぞごゆっくり……」
「よくも『忠野林陣』だの『忠野多忍』だのと抜かしてくれたわね!!」
糜貞の声は悔しさで震え、その瞳にはうっすらと涙さえ浮かんでいた。
「わ、わっ、泣くなよ!」
蘇然は慌てて台所を気にしつつ、両手を振って詰め寄った。
「頼むから泣かないでくれ! 誰かに見られたら、俺が虐めたみたいに見えるだろ!」
「虐めてるじゃない! ずっと私を騙してたくせに!」
糜貞はツンと顔を背けたが、涙の決壊はなんとか食い止めたようだった。
「コホン……」蘇然は胸を撫で下ろし、機嫌を取るように言った。「別に悪気があって騙したわけじゃないんだよ……」
「じゃあ何のためにあんなデタラメな名前を教えたのよ! 架空の弟まで仕立て上げて……この大嘘つき!」
蘇然の額からタラリと冷や汗が垂れた。
「だってさあ……あの時のお前、ものすごい形相で突っかかってきただろ? 俺だって身の危険を感じるっていうか……」
「ものすごい形相……?」
糜貞は虚を突かれ、あの日の自分の剣幕を思い出してわずかに頬を赤らめた。だが、すぐにムキになって言い返す。
「じゃあ、その後に街で会った時はどうしてまた嘘をついたのよ!」
「それは……」
蘇然は完全に言葉に詰まった。言い逃れができない。再び少女の瞳が潤み始めたのを見て、慌てて手を振る。
「ま、待て待て! ほら、今日は嘘をつかなかっただろ? 正直に謝ったじゃないか!」
糜貞の射貫くような視線に、蘇然は居心地悪そうに視線を逸らした。
幸いにも、彼女はそれ以上追及してはこなかった。ただ、ポツリと静かに問いかけた。
「……大嘘つきのあなたに聞くけど。どうして今日は……私を騙さなかったの?」
(……今となっては、騙し通せばよかったと死ぬほど後悔してるよ!)
かつて現代の悪友が「女に嘘をつくなら一生墓場までつき通せ」と言っていた意味を、蘇然はこの時初めて骨身に沁みて理解していた。
「いや……ここ数日、風が冷たかっただろ……」
蘇然は頭を掻きながら、気まずそうに視線を泳がせた。
「あんな街角でお前が毎日突っ立ってて、風邪でも引かれたら後味が悪いし……それに今日も偶然出くわしちゃったし……だからさ……」
糜貞は息を呑み、じっと蘇然の顔を見つめた。
怒りでも、打算でもなく、ただ「寒風の中に立つ自分を案じてくれた」という不器用な優しさ。
彼女の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
「……ふぅん」
糜貞は小さく、それだけを呟いた。
(ふぅ……なんとか誤魔化せたか!)
沈黙の気まずさに耐えかねた蘇然は、「台所を手伝ってくる!」と言い残し、逃げるようにその場を去っていった。
一人残された居間で、糜貞はぽつりと呟いた。
「……蘇然……蘇守義……」
その唇に浮かんだ笑みは、もはや怒り狂っていたじゃじゃ馬娘のそれではなく、恋を知り始めた一人の少女の柔らかなものであった。




