第四十七章 買い物帰りの悪夢と、招かれざる珍客
陳登を首尾よく追い払ったことで、屋敷の中はようやく二人きりの静寂を取り戻した。
蘇然はムズムズと沸き立つ胸の高鳴りを抑えきれず、秀の華奢な肩を抱き寄せ、少しすねたように口を尖らせた。
「なあ秀、これからは夜に元龍を飯に誘うのはやめにしよう。俺たち二人きりで……へへっ」
秀は小さく身をよじって抵抗してみせたが、結局は夫の胸元におとなしく身を預け、呆れたようにジト目を向けた。
「まあ……あの方は一応、夫君を師と仰ぐお弟子さんですのよ。もう、夫君ったら!」
「それがどうしたってんだ!」蘇然は不満げに鼻を鳴らした。「あいつはいつも勤務時間外に押し寄せてきて俺の邪魔をするんだぞ。残業代を請求してないだけありがたいと思ってもらわなきゃ困るね!」
「もう、またわけのわからない言葉ばかり……」
秀はくすりと笑い、ふと何事かを思い出して少し口ごもった。
「……それにしても、先日のようなことは、妾身としては何だか……」
「先日のようなこと」とは何だったのか?
実は数日前、現代の娯楽が何一つない古代の退屈な夜を持て余した蘇然が、秀を誘って一杯やろうと言い出したのが始まりだった。
蘇然の感覚からすれば、この時代の度数の低い濁酒などジュース同然で、大した酔いなど回らないと高を括っていたのだ。ところが、夫に付き合って無理やり杯を重ねた秀は、あっけなく酔っ払ってしまった。
その時の光景を、蘇然は一生忘れることができない。
酔った秀は、普段の控えめで淑やかな姿から一変、潤んだ瞳を微かに細め、紅い唇をゆるりと開いて、言葉を失うほど妖艶な雰囲気を醸し出したのだ。蘇然をこれ見よがしにからかって翻弄した挙句、奥の部屋から二本の羽扇を持ち出してきて、夫の目の前でひらひらと優雅に舞い踊ってみせた。
蘇然は完全に度肝を抜かれた。
後世の現代にいた頃は、「古代のぐるぐる回るだけの舞踊なんて、何が面白いんだ?」と疑問に思っていたものだが、とんでもない間違いだった。テレビ画面越しで見るのと、息がかかるほどの至近距離で絶世の美女が自分だけのために舞うのを目の当たりにするのとでは、天と地ほどの差がある。
その夜、蘇然は男としての猛烈な理性を総動員して、なんとか秀に手を出さずに耐え切った。「正式な祝言を挙げるまでは手を出さない」と男の約束を交わしていたからだ。
……ただし。
翌朝、目が覚めた蘇然は、決まり悪そうに秀を部屋から追い出し、こそこそと下着を取り替え、汚れたそれを自らの手でこっそり洗う羽目になったのだが……。
「なあ秀、いいだろ?」蘇然は秀の細い手をぶんぶんと揺すってねだった。
「もう……分かりましたわ、分かりましたから!」
秀は溜息をついた。あの夜の泥酔の記憶は、思い出すだけでも顔から火が出るほど恥ずかしい。まさか自分が夫の前であんな大胆な振る舞いをしてしまうとは……。ただ、夫が最後まで手を出さずに自分を大切にしてくれたことには、深い感謝と幸福を覚えていた。もしあそこで流されていたら、初夜を迎える時にほんの少しの後悔が残ったかもしれないからだ。
「よし、約束だからな!」
「はいはい……」
秀は呆れたように返事を引き延ばした。夫は時折、駄々をこねる子供のようになる。
だが……あの戦場で、徐州の精鋭を指揮して黄巾軍を退けた時の夫の凛々しさは、今思い出しても胸が熱くなるほどだった。
武芸など何一つ持たない文弱の書生が、自分と徐州の民を守るためだけに、命を危険に晒して敵へ立ち向かってくれたのだ。そんな夫に巡り合えたことだけで、秀の人生は満ち足りていた。
「夫君……」秀は悪戯っぽく微笑み、夫をからかった。「ですが、生憎とお家に酒の買い置きがございませんわよ?」
「えっ!?」
蘇然は青ざめた。酒がないということは、今夜あの魅惑的な舞踊が見られないということか? こんな長い冬の夜をどうやって過ごせばいいんだ!?
「か、買ってくる! ついでに美味い食材も仕入れてくるよ!」
秀は目を丸くした。「夫君……今、街へ……『買い出し』に行くと仰いましたの?」
「何かおかしいか?」
「おかしいというか……そのような下働きは、私たち女子の務めであって、男子たる夫君がなさるようなことでは……」
「そんなのどうでもいいよ!」
蘇然はあっけらかんと笑い飛ばした。「ちょっと行って買ってくるだけだ。帰ったら美味い飯を作ってくれよな。秀の作る飯が一番美味いんだから!」
秀はあっけにとられて見送るしかなかった。やがてクスリと苦笑いを漏らす。
(……まあいいわ。夫君は出会った最初の日から、世の常識とはまるで違うお方でしたものね……)
蘇然は懐の銭をチャリンと鳴らしながら、何を買おうかと思案して通りを歩いた。
(まったく、あの黄巾のせいで徐州の物価は跳ね上がりっぱなしだ。前ならこれだけあれば豪勢な買い物ができたのに、今じゃ一食分がやっとだぞ。俺の月給が十一貫しかないのを知らないのか! 俺だって所帯持ちなんだから養わなきゃならんのだ! 頼むから張牛角のオッサン、負け戦続きなんだからとっとと軍を引いてくれよな。そうすりゃ時期を見て張燕も釈放してやるからさ……)
そういえば、捕らえられて徐州の地下牢に放り込まれた張燕は、今頃どうしているだろうか。牢番たちには丁重に扱うよう厳命しておいたから、粗相はされていないはずだ。明日あたり、様子を見に行ってみるのもいいかもしれない。何と言っても歴史に名を残す名将なのだから、無下に扱うのは惜しい。
そんなことを考えながら歩いていた蘇然の足が、不意にピタリと止まった。
通りの辻に、寒風に吹かれながら佇む小さな人影が見えたのだ。
(……ウソだろ? あのじゃじゃ馬娘、本当に毎日ここで待ってたのか……!?)
蘇然は内心で頭を抱えた。自分とあの娘の間に、そこまで執着されるような深い因縁などあっただろうか?
だが、凍てつく風の中で健気に立ち尽くしている華奢な姿を見ていると、現代人としての良心がチクリと痛んだ。
(……まあいいや。さっさと謝って、この件をきれいに終わらせるとしよう)
「あ……あなたね」
近づいてきた蘇然に気づいた糜貞は、大して気にも留めない様子で呟いた。蘇然は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめ返した。
「何よ、黙っちゃって……って、きゃあッ! あなた、あの時の悪党ね!?」
糜貞は目を丸くして叫んだ。
蘇然の口元が引きつった。「お嬢さん、一体どうしてほしいんだ?」
「私に謝りなさいよ!」糜貞は胸を張ってぷんぷんと怒った。
「はいはい、分かりましたよ」
蘇然は深々と腰を折り、見事な礼を執って頭を下げた。
「糜のお嬢様、大変失礼いたしました。この通り、心よりお詫び申し上げます! ……これで満足していただけましたか? では、失礼!」
「…………」
糜貞は呆然と立ち尽くしていた。
頭を下げて謝罪する蘇然の姿を見つめているうちに、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、何とも言えない虚しさが広がっていったのだ。
毎日寒風に耐えて立ち尽くし、待ち焦がれていたのは、たったこれだけのことだったのか?
謝ってもらえれば胸がすくはずだったのに、なぜこんなにも寂しく、腑に落ちない気持ちになるのだろう?
糜貞は複雑な面持ちで唇を噛み、呟いた。
「私……何日も待って、ただこの一言を聞きたかっただけなの……?」
「どうしたんだ?」蘇然は怪訝そうに眉をひそめた。(まさかこの娘、頭のネジがどこか飛んでるんじゃないだろうな?)
「ダメッ!」
突然の糜貞の絶叫に、蘇然はビクッと飛び上がった。
「何がダメなんだよ!?」
「だ、ダメなものはダメよ!」糜貞自身、自分が何を口走っているのか分かっていなかった。だが必死に言葉を絞り出す。
「この悪党め! 私をあんなに待たせておいて、頭を下げただけで許されると思ったら大間違いよ!」
「…………」
蘇然は心底から己の軽率さを呪った。(さっさと逃げておけばよかった……自分の顔面を思い切り殴り倒してやりたい!)
「……で、今度は何をお望みで?」
「な、何って……」
糜貞は言葉に詰まった。自分でも、この悪党に何をさせたいのか見当もつかない。
「ごゆっくりお考えください。俺は買い物の途中なんでね、これにてドロン!」
蘇然は脱兎の如くその場から逃げ出した。
「あっ、待ちちなさいよ!」
糜貞は地団駄を踏んだ。逃げていく背中を見つめ、カッと頭に血が上る。(絶対に逃がさないんだから!)と、ドレスの裾を持ち上げて小走りで後を追った。
それから間もなく。
片手に酒の革袋、もう片手に野菜と肉の包みを提げた蘇然が、鼻歌交じりに戻ってきた。
通りを行き交う人々は、成人男性が自ら市場で食材を買い込んでいる珍奇な姿を見て、侮蔑に似た怪訝な目を向けていた(彼らは『蘇先生』の名は知っていても、その顔までは知らないのだ)。
だが、現代人の感覚を持つ蘇然にとっては痛くも痒くもない。他人の目を気にして美味い飯が食えるか、という話である。
ご機嫌で後世のヒット曲を口ずさみながら角を曲がった瞬間、蘇然の足がピタリと凍りついた。
「ふん!」
腕を組んで仁王立ちしていた糜貞が、冷ややかに口端を吊り上げた。
「どこへ逃げても無駄よ! ……って、あれ?」
糜貞の視線が、蘇然の両手に提げられた食材へと釘付けになった。
「あ、あなた……そ、それ……お買い物……?」
この時代において、名のある男が自ら「野菜の買い出し」をするなど、男の沽券に関わる恥辱とされる。あまりの衝撃に、彼女は『買い出し』という言葉すら口ごもってしまった。
「それが何か?」蘇然は不思議そうに手元を見やった。
「あ、あなた……お嫁さんがいるんでしょ!?」
「ああ」蘇然は悪びれる風もなく破顔した。「本当は秀が出てこようとしたんだが、今日は風が冷たいだろ? 風邪でも引かせたら大変だから、俺が代わりに買ってきたのさ。すぐ近所だしな」
「…………」
糜貞は呆然と蘇然の手元の包みを見つめた。
胸の奥に、得体の知れない激しい感情が渦巻く。羨望、驚き、そして嫉妬——。
良家の男たちが女子を単なる付属物や飾りとしてしか扱わないこの乱世にあって、こんなにも自然に、当たり前のこととして妻を慈しみ、世間の目も気にせず寒風の中に買い出しへ出る男がいるなんて。
糜貞はキュッと唇を噛みしめ、蚊の鳴くような声で小さく呟いた。
「……あなたの家に、連れていってくれない? ……ほら、さっきの謝罪の埋め合わせとしてよ」
「はぁ!?」
本来なら即座に断るべきところだった。だが、いつもの強気な態度を崩し、どこか寂しげに瞳を揺らす糜貞の姿を見た蘇然は、魔が差したように答えてしまったのだ。
「……まあ、別に減るもんじゃないし、構わないけど……」
直後、蘇然は内心で自分の頭を思い切り殴りつけた。(俺のバカ! 何を口走ってんだ!)
糜貞はパッと顔を輝かせ、初めて見るような純粋な微笑みを浮かべた。そして改めて、目の前の不思議な青年をつぶさに見つめ直した。
「こ、こっちだ……」
蘇然は引きつった足取りで先導しながら、内心で冷や汗を滝のように流していた。
(どうするんだよこれ……秀になんて説明すればいいんだ!? ああもう、今夜の甘い晩酌計画が完全にパーになっちまったじゃねえか……!)
寒風吹きすさぶ徐州の小道に、蘇然の深いため息だけが虚しく響き渡っていた。




