第四十六章 英雄の評判と、換位思考の教え
鬨の声が天を衝き、徐州城内の民衆は歓喜に沸いて街中を駆け巡り、黄巾賊の撃退と敵将の生け捕りを口々に讃え合っていた。街のあちこちで交わされる噂話は、どれもこれも尾ひれがついて止まらない。
「おい、聞いたか? あの蘇先生が黄巾の悪巧みをすっかり見破り、将計就計(罠を逆手に取る計略)で賊軍を完膚なきまでに叩きのめして、敵の頭領まで生け捕りにしたそうだぞ!」
「蘇先生? どこの蘇先生だ?」
「お前……まさか蘇先生を知らんのか!? (心底軽蔑した顔で)陳家の若旦那の師匠であらせられる、あの蘇然先生のことだよ!」
「ああ……っ!(得心したように膝を打ち)あの蘇先生か!」
「当たり前だろ、他にどなたがおられるってんだ!」
「噂じゃ、蘇先生は天上の星宿が地上へ降りてこられたお方でな。過去五百年、未来五百年の全てを掌を指すように見通せるそうだぞ」別の男が口を挟む。「賊軍の浅知恵を破るくらい、飯を食うより造作もないことよ!」
「そんな天の星宿を師匠に迎えることができた陳家の若旦那も、途方もない強運の持ち主だな。いや、わしは昔からあやつの面構えを見て、天の加護がある星の下に生まれたと見抜いておったが、案の定じゃ……」
通りがかりの老人のしたり顔に、周囲の民は白い目を向けつつも頷き合った。
何はともあれ、蘇然と陳登の二人の名は徐州城の隅々にまで轟き渡った。城外の黄巾の脅威が完全に去ったわけではないが、この二人がいれば二度目、三度目とて同じように蹴散らしてくれるに違いないと、民衆は無邪気に安堵していたのだ。
——だが、その頃。
城中の人々から「生き神様」の如く崇められている当の陳登はといえば、縮こまって頭を垂れ、蘇然の凄まじい雷撃のようなお説教を浴びていた……。
「お前は何を考えてるんだッ!」
蘇然は怒髪天を衝く勢いで机を叩いた。
「あんな一大事の土壇場に、精鋭二百人も寄越して俺を家の中に閉じ込めるとは何事だ! 戦の最中に総大将が自宅に引きこもってどうする! 俺だって前線で黄巾の賊を何人か討ち取った実績があるんだぞ! なぜ現場に行かせなかった! 言ってみろ! 今日という今日は、納得のいく理由を聞くまで絶対に許さんからな!」
陳登は首をすくめ、心の中で泣きそうになりながら愚痴った。
(……学生は先生のお命を心配しただけでございますのに。大体、先生のあの素人に毛が生えた程度の武芸など……言えません、言ったら先生のプライドが粉々に砕け散ってしまいます……)
「夫君……」
見かねた秀が、困ったように口を挟んだ。
陳登は普段から自分を「師母、師母」と敬い、礼儀を尽くし、何かと理由をつけては上等な酒や肉を届けてくれる気の利く弟子なのだ(お金を渡そうとしても秀が断固拒否するため、陳登も心得て食材を届けるようにしていた)。その彼がここまでボロクソに怒鳴られているのは、見ていて居たたまれなかった。
「秀は黙っててくれ!」
蘇然はプンプンと鼻息を荒くした。
昨夜の屈辱は思い出すだけでも腹が立つ。黄巾襲来の報せを受け、秀と共に東門へ駆けつけようとした矢先、陳家の私兵部隊が雪崩れ込んできて強引に連れ戻されたのだ。それどころか、屋敷の周囲を幾重にもガッチリ固めて厳重警備を敷き、完全に「軟禁」状態にされたのである。これではまるで過保護な親に閉じ込められた子供ではないか!
蘇然は陳登の配慮に腹を立てていたが、秀は心底から感謝していた。
夫が戦場に出るたび、秀の心臓は生きた心地がしなかったのだ。万が一のことがあれば、いくら自分に武芸があろうと守りきれないかもしれない。戦場など行かずに済むなら、それに越したことはないのだ。
東門の残敵掃討戦は凄惨を極め、追い詰められた黄巾の死兵たちの狂乱によって、徐州精鋭もさらに百名余りの犠牲を出したと聞く。もしあの中に夫が突っ込んでいたらと思うと、秀は背筋が寒くなる思いだった。
(陳先生は純粋な善意で動いてくださったのだわ。このままでは陳先生がお可哀想……でも、怒り心頭の夫君を真正面から宥めようとしても火に油を注ぐだけね……)
ふと名案を思いついた秀は、淑やかに身を起こし、柔らかな笑みを浮かべた。
「夫君、陳先生とのお話はどうぞごゆっくりなさってくださいませ。妾身、市場で少し買い出しをしてまいりますね。陳先生、今宵は粗食ですが我が家で夕餉を召し上がっていってくださいな」
「だーーっ! ダメだダメだ!」
案の定、蘇然が弾かれたように叫んだ。
陳登を睨みつけ、脳内で「秀の手料理を二人きりで堪能する幸福」と「陳登にお説教を食らわせる満足感」を天秤にかけ——コンマ一秒の迷いもなく前者を最優先させたのだ。
「次からは気をつけろよ!」
あれほど猛り狂っていた怒号が、嘘のように軽やかな一言で締めくくられた。蘇然は湯呑みを手に取り、ズズッと茶を啜った。
(茶を啜る=これにて用件終了。とっとと帰れ、俺たちの二人きりの邪魔をするな!)という、現代でいう露骨な「お引き取り願おう」のサインである。
しかし、普段は聡明無比な陳登も、この時ばかりは師匠の「愛妻家特有の都合」に気づけなかった。
(先生の怒りが解けたぞ! ……だが、先生は学問こそ天下無双なれど、少し忘れっぽいところがある。ここで退散して後から怒りを蒸し返されたら厄介だ。そうだ、先生は『深みのある問い』を投げかけると機嫌が良くなるはず……!)
陳登は殊勝な反省の面持ちを作り、目を輝かせて言った。
「先生のお叱り、骨身に沁みました。二度とこのような越権行為はいたしませぬ……! ですが先生、どうしても学生の頭では解せぬ疑問がひとつございまして」
「……何だ?」蘇然は秀を着席させながら、生返事で返した。
「先生は一体いかなる方法をもって、黄巾賊の『東を騒がせて北を突く』の計を見破られたのですか?」
「ん? ああ……『換位思考(相手の立場に立って考える)』を使っただけだ」
蘇然は上の空で答えつつ、秀に向かって必死に目配せを送った。(買い出しなんて行かなくていいって! こいつはすぐ帰るから! 飯なんて食わせないからな……!)
「換位思考……!?」
陳登の目がギラリと光った。
(ま、まさか……思いがけず、先生の真の奥義に触れてしまったのではないか!?)
心臓がトクトクと激しく高鳴る。(先生、仰ってください! その腹の中の知恵を、全てこの元龍に授けてください……!)
しかし、蘇然は「聞かれなければ自分から語らない」面倒くさい現代人オタク気質である。陳登は前のめりになって問いを重ねた。
「先生! その『換位思考』とは、一体いかなる兵法の大道にございますか!?」
(こいつ……なんでこんな時に限って勉強熱心なんだよ!)
蘇然は辟易としつつ、さっさと答えて追い返そうと口を開いた。
「換位思考っていうのはだな……」
陳登は唾を飲み込み、耳を澄ませた。
「……文字通り、位置を変えて思考することだ」
「……は?」
陳登はポカンと口を開けた。
(いや、そうとしか説明しようがないだろ! 言葉通りの意味なんだからさ!)
蘇然も困惑しつつ、溜息をついて噛み砕いた。
「いいか、まずお前に聞く。もしお前が黄巾の賊将の立場に置かれたとしたら、どんな手を使って徐州を攻め落とそうとする?」
すると陳登は眉をキュッと吊り上げ、 憤然と言い放った。
「この元龍、いかに落ちぶれようともそのような卑劣下劣な賊の真似事などいたしませぬ! 陳家の先祖に泥を塗るような所業、天地神明に誓って断じて——」
「…………」
蘇然は開いた口が塞がらなかった。
「……だから、『仮定』だ! もしも、の話をしているんだよ!」
陳登は蘇然の元で学んで久しいので、「仮定」という言葉の意味は理解していた。だが名門の誇りが邪魔をして譲らない。
「仮定であれ何であれ、逆賊の行いを思い描くこと自体が陳家の名折れに——」
「『仮定』っつってんだろがッ!!」
蘇然の堪忍袋の緒がブチ切れた。
「もしもの話だって言ってるのに、何をごちゃごちゃ屁理屈こねてんだ! これ以上人の話を遮ったら、破門にして叩き出すぞコラ!」
陳登はヒュッと首を縮め、青ざめた。
(し、しまった……先生のおっしゃる通りに聞いておけばよいものを、なぜ反発などしてしまったのだ……破門にだけはされたくない……!)
陳登は捨てられた子犬のような目で蘇然を見上げた。「せ、先生……どうぞお続けください……」
傍らで秀が口元を手で隠し、クスクスと笑い声を漏らした。
夫と二人きりでいる時も、時折飛び出す謎の言葉に首をかしげることが多いのだ。後になって意味を知り、恥ずかしさで顔から火が出そうになることもしばしばであった。たとえば『ベビードール』とか……。秀の頬がボッと赤く染まる。
蘇然は咳払いをし、講義を再開した。
「いいか。仮に自分が張燕の立場になりきり、手持ちの黄巾兵を使って徐州を落とすための作戦を、片っ端から自分で考え出してみるんだ。そして今度は、徐州東門の守備将の立場に戻り、先ほど自分が考えた敵の作戦を一つずつ潰すための対策を並べていく。これが『換位思考』だ。相手の立場、相手の役職、相手の置かれた切迫した状況に完全に成り代わって敵の手を先読みし、その裏をかいて罠に嵌めるんだよ」
「……なんという……」
最初は「賊の真似など」と反発していた陳登だったが、聞くうちに全身の血が沸騰するように熱くなり、心臓が早鐘を打った。己の頑迷さを激しく悔いる。(あやうく、これほど深遠な学問をドブに捨てるところだった……! 先生が……先生がついに、乱世を平定するための真の兵法を教えてくださったのだ……!)
「恐るべき大道……『換位思考』……!」
感動のあまり震えが止まらない陳登は、心に固く誓った。(屋敷に戻り次第、この教えを一字一句書き記さねば。いずれ世に出す『蘇氏兵法』の第一巻はこれだ! これを修めてこそ、真の名将と呼べるのだ!)
「元龍の浅慮、あやうく千載一遇の好機を逃すところでございました。恥じ入るばかりにございます……」陳登は深々と頭を下げた。「先生はまさにその『換位思考』をもって、張燕の狙いを見破られたのですね?」
「ふん」蘇然は鼻を鳴らし、得意げに胸を張った。(やっと理解したか、この堅物め)
秀は静かに首を振り、二人の湯呑みに温かい茶を注ぎ足した。
「師母、かたじけなく存じます」陳登が恭しく礼を執る。
蘇然は秀の手を引いて自分の隣にちょこんと座らせると、早くこの邪魔者を追い払うべく、最後の仕上げの言葉を投げた。
「覚えておけよ。この換位思考で最も重要なのは、『相手の将軍の性格』と『そいつの好む戦術の癖』を徹底的に知り抜いておくことだ。そこを読み違えれば、全てが空振りに終わるからな」
「おお……!」陳登は膝を打ち、感銘を受けた。だが、すぐに新たな疑問が湧き上がった。
「ですが先生、先生はどうして一度も会ったことのない張燕の性格や癖をご存じだったのですか? 先生は確か……」
「そりゃ俺が……」
言いかけて、蘇然の喉がピタリと止まった。
(……ヤバい。『三国志演義や正史で読んだから、張燕が知勇兼備だけど戦術が少し素直すぎるタイプだって知ってた』なんて言えるわけがないだろ!)
「…………」
蘇然は、純粋無垢な優等生の眼差しで自分を見つめてくる陳登を、数秒間じっと見つめ返した。
そして、わざとらしく外の空を見上げた。
「……あー、もうこんな時間か。日が暮れてきたな」
「え?」陳登はきょとんとした。
蘇然はカッと目を剥き、苛立ちを露わにして言い放った。
「その答えは、自分で屋敷に持ち帰ってじっくり考えろ! 明日の朝までに答えを出して報告に来い! ほら、さっさと帰った帰った!」
「え……あ、はい……」
陳登は目を白黒させたが、蘇然の横で小さく微笑んでいる秀の姿を見て、ハッと我に返った。
(……しまった! 普段は知恵者を自負していながら、何という間の悪さだ! 先生と師母のお邪魔をしていたのか!)
陳登は慌てて立ち上がり、礼を尽くして退出した。だがその足取りは決して重くはなかった。先生の言った通り、学問とは一口ずつ噛み締めて消化するものなのだ。
「換位思考、換位思考……」と呪文のように呟きながら、陳登は小走りで帰路についた。一刻も早く書斎へ駆け込み、この偉大なる教えを筆録するために!




