第四十五章 請君入瓮の罠と、両門の激突
深夜の徐州城。街路からは人影が完全に消え失せ、東門の周辺ですら、数名の巡回兵が眠たげに往来するばかりであった。
城壁の石垣にもたれ、方悦は大きなあくびを噛み殺した。
(あの忌々しい黄巾め、いつまで待たせる気だ……?)
城楼の上の静けさを見やり、(まさかこちらの意図が露見したのか?)と胸中で訝る。イライラと数歩歩き回り、やがて漆黒の闇に沈む街路を睨むと、長槍を握り直して闇の中へと巡回に消えていった。
カラン、カラン、カラン……。
子の刻(深夜二十三時〜一時)を告げる夜警の鐘が響き渡る。
方悦が立ち去って間もなく、東門を守備していた徐州兵の耳に、暗がりから微かな怒声と女の泣き声が届いた。
部隊を率いていた副将が顎で合図し、二名の精鋭兵が槍を構えて闇の奥へと向かった。
副将は門外の暗闇を見やり、ふと首を傾げる。(……本当に蘇然先生の仰る通り、こんな真夜中に賊軍が攻め寄せてくるのだろうか?)
それにしても、戻りが遅い。
副将の胸に疑念が芽生えかけたその時、闇の中から二つの人影がふらりと現れた。身につけているのは見慣れた徐州兵の甲冑である。
「手際が悪いぞ!」副将は苦笑して声をかけた。「どうした、色街の揉め事にでも首を突っ込んでいたのか?」
戻ってきた二人は何も答えず、ただ低く笑いながら手首を振ってみせた。
その異様な沈黙に、副将は背筋を粟立たせた。直後、路地の角から忍び寄る足音が聞こえ、副将は咄嗟に向き直って怒号を飛ばした。
「誰だ! 姿を現せッ!」
同時に、傍らの弩兵たちが一斉に手弩を構え、闇の角へと狙いを定める。
「お、お役人様……」
震え声とともに、数名の町民風の男たちが手を上げておずおずと進み出てきた。
「撃たないでくだされ……わしらは、城内の民でございます……」
「この非常時に夜間外出禁止令を知らぬわけではあるまい!」副将は眉を吊り上げた。「合言葉を言えッ!」
「あ、合言葉……?」先頭の男は狼狽え、おずおずと口を開いた。
「……『多からず、多からず』……でございましょうか?」
副将の険しい表情が僅かに緩んだ。だが、なおも厳しく釘を刺す。
「今回は不問にしてやる。疾く長屋へ戻れ! もし細作と疑われでもしたら……」
男は怪訝そうに副将を見つめた。
副将が立ち去るよう手を振った——その刹那であった。
脇腹に、焼け火箸を突き立てられたような激痛が走った。
驚愕して振り返った副将の視界に映ったのは、先ほど戻ってきたはずの「味方の兵」の凶悪な笑みだった。
短刀が深々と肉を抉り、悲鳴を上げる間もなく太い手が副将の口を圧殺した。続けざまに繰り出される無慈悲な刺突。
(……貴様……味方では……)
力尽きて崩れ落ちる瞬間、副将は男の首元に巻かれた黄色い布切れを捉え、事切れた。
背後にいた二名の弩手が一瞬硬直した隙に、民衆姿の男が低く命じた。
「やれッ!」
雪崩を打って飛びかかった男たちにより、二名の徐州兵は声にならぬ呻き声を漏らして絶命した。
先頭の男が合図の手を振ると、闇の中から十数名の「民衆」が湧き出し、手際よく兵士たちの遺体を路地裏へ引きずり込んでいった。
間もなく、徐州兵の甲冑に身を包んだ数名の男たちが現れ、頭領風の男へ無言で頷いた。
「おい! 何かあったのか?」
遠くから巡回中の陳家の私兵たちが、白い息を吐きながら近づいてきた。
民衆姿の者たちは瞬時に闇へ溶け込み、徐州兵に化けた黄巾兵だけがその場に残る。
「何でもない!」黄巾兵の頭領が声を低くして手を振った。「宵禁を知らぬ町民が紛れ込んでいたので、追い払ったところだ!」
「そうか」私兵たちは頷き、寒そうに身を縮めた。「まあ無理もないさ。悪いのは全てあの黄巾賊だからな……」
私兵の不用意な言葉に、黄巾兵たちの眉が一瞬ピクリと跳ね上がった。頭領が歩み寄りながら笑いかける。
「ところで兄弟、合言葉をまだ聞いておらぬのだがな」
「おいおい、用心深いな!」私兵は笑って手を振った。「俺たちが黄巾賊なわけがあるまい……」
「ハハ……そうだな」
頭領は愛想笑いを浮かべながら間合いを詰め——至近距離から抜き放った短刀を、私兵の胸板へと突き立てた!
同時に背後の仲間も飛びかかり、四、五名の陳家私兵は声を立てる間もなく屠られた。
「お前は違ってもな……俺は黄巾力士だ!」
頭領は吐き捨て、左右に指示を出して遺体を闇へ隠させた。こうして黄巾の細作たちは、東門周辺で百人分余りの本物の甲冑を手に入れたのである。
見張りの交代まであと半炷香(約十五分)。頭領は身支度を整え、東門の城門直下へと向かった。
「止まれ! 誰何を申す!」
城門の手前で鋭い誰何の声が上がり、弓弩の弦が軋む音が響く。
「味方だ、味方だ……」頭領は声を潜めて進み出た。
守備の隊長は訝しげに目を細めたが、相手が徐州兵と陳家の甲冑を身につけているのを見て、少し肩の力を抜いた。だが、面白くなさそうに舌打ちする。
「交代の時間にはまだ間があるぞ。何をしに来た?」
「冷え込みが厳しいため、陳先生と蘇然大人から『早めに交代させ、熱い酒でも飲ませてやれ』とお達しがありましてな」
その言葉が出た瞬間、隊長の目の奥に冷徹な光が閃いた。
城中の将兵で知らぬ者はいない。蘇然先生は時間と軍規に最も厳格な御方だ。定刻前の勤務離脱など厳罰の対象であり、先生が酒食を振る舞うとすれば、それは当直を終えた後の兵に対してだけである。当直中に持ち場を離れさせるなど、天地が引っくり返ってもあり得ない。
隊長は内心の殺気を完璧に隠し、親しげに破顔してみせた。
「おお、それはありがたい! 身体が凍りつきそうだったのだ。……だが兄弟、すまぬが定例の合言葉だけは頼むぞ。これを怠れば某が軍棍を食らう羽目になるからな」
「承知しております」黄巾の頭領は安堵し、胸を張って答えた。
「合言葉は——『多からず、多からず』だ!」
「ハハ……」隊長は笑みを浮かべ、内心で冷笑した。
(掛かりおったな、間諜どもめ! その合言葉は一般民衆に与えられたものだ。軍中専用の返答を知らぬということは、紛れもなく敵の内応部隊!)
蘇然先生の恐るべき先見の明に身震いしつつ、隊長は平静を装って頷いた。
「よし、引き継ぐとしよう。……あ、そうだ。城壁の上の奴らにも交代を知らせねばな」
隊長は振り返り、隣の伝令兵の肩をポンと叩いた。「許よ、上へ行って『交代だ』と伝えてまいれ!」
肩に置かれた手の尋常ならざる重みと、上官の鋭い視線。利発な伝令兵は、合言葉に後半の句が抜けていたことと合わせ、瞬時に事態を察知した。
「へへっ、承知しました! 上へ行ってまいります。ですが隊長、某の分の酒を残しておいてくださいよ!」
「分かっておる、早く行け」
伝令が戻ってくるまでの間、隊長はさりげなく黄巾の頭領に話しかけた。
「ところで……城壁の上の連中のために、身体を温める酒は持ってきてくれたか? 一晩中立ち尽くすのは骨が折れるからな」
「え……?」頭領は虚を突かれた。(城壁の守備兵は交代しないのか? ではどうやって上から排除すれば……酒……?)
「あ、ああ、それなら今すぐ買いに走らせましょうか?」
(馬鹿め、当直中の兵が酒を飲むはずがなかろう。貴様のような偽者が持ち場にいられるものか!)
「いや、いい。後で俺たちが届けてやる」
隊長は何食わぬ顔で百名余りの部下を引き連れ、東門を明け渡すフリをして立ち去った。
そして視界から消えた瞬間、顔色を一変させて部下たちへ密命を飛ばした。城内の兵舎へ急行させて本隊を武装させ、自身は脱兎の如く陳府へと走った。
その頃、陳府の大屋敷は完全に戦時体制にあった。
五百の徐州精鋭がすでに腹ごしらえを済ませ、武器を手にして庭先に息を潜めていた。
書斎の陳登は、卓の上に長剣を置き、静かに戦機を待っていた。
扉が勢いよく開け放たれ、東門の隊長が転がり込んできた。
「陳先生! 先刻、城内の細作が門へ現れ、某らを謀って城門を奪おうといたしました!」
「ほう!」陳登の瞳が爛々と輝いた。「首尾を申せ!」
隊長が一部始終を報告すると、陳登は机を激しく叩いて立ち上がった。
「見事だ! よくぞ機転を利かせた!」
「城壁の上の兵たちにも合図を送り、疲弊して油断している芝居を打たせております。敵は完全に信じ切っておりましょう!」
「よし、よしッ!」陳登は手を打って破顔し、部屋を飛び出して号令を下した。
「兵を招集せよッ!」
わずか数息のうちに、庭の兵士たちが一斉に抜刀し、整列を完了させた。
「出陣だ!」陳登は冷徹な眼光を放ち、去り際に牙将へ振り返った。
「貴様は直ちに蘇然先生の元へ走り、事の次第を報告せよ。急げッ!」
(ついに網にかかったか、黄巾賊め……! 内外呼応の奇襲だと? 我が師が仕掛けた『壺の中へ飛び込む罠』の味、とくと味わうがよい!)
東門を難なく手中に収めた黄巾の頭領は、城壁の上の徐州兵が気になり、自ら階段を登っていった。
上から警鐘を鳴らされては元も子もないからだ。
だが、城壁の上に足を踏み入れた瞬間、彼の不安は歓喜へと変わった。
数百名の徐州兵たちが、あちこちの篝火の周りに群がり、肩を寄せ合って暖を取っていた。城壁の縁で見張りに立っているのはほんの数名で、寒さに耐えかねて手を擦り合わせている。
やがてその見張り兵たちも火のそばへ戻り、革袋を取り出して美味そうに呷り始めた。
「おい、一口残せよ!」
「ふう……死ぬほど寒い。酒でもなきゃやってられん!」
「全くだ、忌々しい黄巾のせいだ!」
(本当に酒を飲んでやがる……!)頭領はほくそ笑んだ。
「俺は少し仮眠を取るぞ。もし陳先生が来たら叩き起こせよ」
「俺だって寝たいわ!」
「勝手にしろ、賊が来たら全員首を刎ねられるぞ」
愚痴を言い合いながら、数名の見張りを残して大半の兵が火のそばで丸くなって寝息を立て始めた。残された見張りも適当に外を一瞥しただけで、すぐに火のそばへ座り込んで動かなくなった。
(徐州の兵など、この程度の腑抜けか……神は我らに味方した!)
頭領はほくそ笑みながら階段を駆け下りた。
——無論、彼が背を向けた瞬間、寝たフリをしていた徐州兵たちが目を開け、冷酷な嘲笑を交わし合っていたことなど知る由もなかった。
ギギギ……と、東門の城門が一人通れる幅だけ押し開けられた。
一人の黄巾兵が外へ滑り出ると、外堀の向こうで松明を掲げ、頭上で三度大きく円を描き、消し、再び灯して振った。
「合図だ……!」
遠くの丘の上からその火光を視認した張燕は、狂喜に胸を震わせた。
「人には声を禁じ、馬には銜を噛ませよ……全軍、出撃ッ!」
張牛角から預かった三百の精鋭騎兵を含む大軍が、夜陰に紛れて地を滑るように進撃を開始した。
徐州城の真下まで忍び寄ると、東門は確かに細く開かれており、城壁の上には人影一つない。
(徐州城は我が手に落ちた……!)
張燕は歓喜に目を血走らせ、馬腹を蹴って一気に城門へと突入した!
「全軍突撃ィッ! 徐州を呑み込めぇッ!」
時を同じくして、北門では
于毒、穆固、厳平の三将が率いる別動隊もまた、潜入させた細作の手引きによって北門を突破せんと、暗闇の街道を怒涛の勢いで突き進んでいた。
東門の城内へ雪崩れ込んだ黄巾の頭領は、手勢数百を率いて一気に城楼の上を制圧しようと階段を駆け上がった。
だが、登り切った瞬間、彼の全身の血が凍りついた。
篝火の赤々とした光の中に、数十、数百という徐州の弩兵たちが、微動だにせず冷酷な眼差しで、矢をつがえた手弩を一斉に自分たちへ向けて構えていたのだ。
「な……っ!?」
一方、城内へと躍り込んだ張燕は、静まり返った徐州東門の異様な静寂に違和感を覚え、手綱を引き絞った。
次の瞬間——!
ドォォンッ!!
夜空を切り裂く砲声とともに、大地を揺るがす軍鼓が鳴り響いた!
闇の中から無数の徐州兵が松明を掲げて湧き出し、四方から黄巾軍を完全に包囲したのだ。
先頭に立つのは、長槍を構えた猛将・方悦!
「伏兵だと!?」
張燕が息を呑んだ直後、背後から凄まじい絶叫が響いた。
城壁の上から、待ち伏せていた弓弩隊が一斉に矢の雨を撃ち下ろし、後続の黄巾兵をなぎ倒していた。同時に、開け放たれていた東門が物凄い地響きとともに固く閉ざされ、退路が完全に遮断されたのだ!
袋の鼠となった黄巾兵たちが恐慌に陥る中、包囲の奥から朗々たる笑い声が響き渡った。
「ハハハハ……!」
張燕は歯ぎしりし、叫んだ。「誰だッ!」
松明の列が割れ、長剣を携えた青年の将が歩み出た。
「徐州の陳登、字は元龍……。張将軍、しばしの別れでございましたな」
「また貴様か……!」
張燕は憎悪を込めて睨みつけた。
「無礼な出迎えとなり、元龍も心苦しく存じます」陳登は嘲笑を浮かべた。「それゆえ、将軍を我が陳府へご招待し、数日ほど旅の疲れを癒やしていただこうかと。徐州の歓待の礼を尽くさせてもらいますぞ!」
張燕は周囲の絶望的な包囲陣を見回し、唇を噛んだ。(……東門は罠だったか。だが、北門さえ成功すれば……!)
徐州城の奥から上がる無数の喊声を聞き、張燕は不敵に笑ってみせた。
「陳元龍、勝ち誇るにはまだ早いぞ! 今頃、北門は我が友軍によって踏み破られているはずだ!」
だが、陳登は哀れむような目を向け、冷ややかに言い放った。
「……まさか将軍、北門が落ちたと本気でお思いなのですか?」
「何……だと!?」張燕の表情が凍りついた。
「将軍の策も見事でした。……しかし、我が師・蘇然先生の智謀は、遥かにその上を行っていたのですよ。東を騒がせて手薄な北を突くなど、先生には最初から全てお見通しだったのです!」
蘇然は北門の戦闘が不自然に緩やかだったことから、敵の狙いが「油断している北門」にあると即座に見抜いていた。そしてすぐさま陶応を北門の救援へと急行させ、さらに万一に備えて南門の糜竺、西門の曹豹へも厳戒態勢を敷かせていたのだ。
「蘇然……蘇守義……!」
張燕の口から、乾いた苦笑が漏れた。
大賢良師(張角)があれほどまでに恐れ、自らの元へ連れてくるよう渇望した理由が、今になって痛いほど理解できた。敵の動きを寸分の狂いもなく先読みし、裏の裏をかいて網を張る……恐るべき知謀の怪物。
「……もはやこれまでか」
張燕は天を仰いで嘆息し、次の瞬間、凄絶な光を宿して宝剣を抜き放った!
「黄巾力士たちよ! 命を捨てて道を切り開けッ!!」
「オオオオーッ!!」
絶体絶命の窮地にあっても、狂信の軍勢は怯むことなく、輝く弓弩の列へと猛然と突撃を開始した!
「放てぇッ!」
陳登の冷酷な号令が下り、夜空を黒い矢の豪雨が埋め尽くした。
三段撃ちの絶え間ない弾幕が黄巾兵を容赦なく薙ぎ払い、地獄の如き阿鼻叫喚が東門を包み込む。
「陳元龍、討ち取ってくれる!」
怒髪天を衝く張燕が馬を駆り、陳登へ向けて一直線に刃を振るった。
だがその切っ先を、横合いから電光の如く割り込んだ一本の白銀の長槍が激しく弾き返した!
「張将軍、この方悦がお相手いたすッ!」
方悦が獰猛な笑みを浮かべて立ちはだかり、二人の猛将は火花を散らして激突した。
時を同じくして、徐州北門——。
城門を突破し、歓声を上げて城内へと雪崩れ込んできた于毒、穆固、厳平の三将であったが、その前方に立ちはだかる一軍の姿を認めて馬を止めた。
白銀の甲冑に身を包み、長槍を肩に担いだ端正な若武者が、馬上で傲岸不遜に口端を吊り上げていた。
陶応である!
「待ちかねたぞ、ネズミ共!」
陶応が長槍を突きつけると同時に、周囲の民家の屋根という屋根の上から、無数の松明と弓弩隊が一斉に姿を現した。
冷たい夜風の中、黒々とした無数の鏃が、立ちすくむ黄巾の三将を正確無比に射すくめていた——。




