第四十四章 民の奔流と、張燕の苦悩
子の刻(深夜二十三時〜一時)を過ぎた頃、陳登自らが選び抜いた陳家の私兵三百名が、徐州の精鋭兵を装って東門から密かに城外へと姿を消した。
三百の兵の移動は、目立たぬように努めても深夜の静寂の中では完全に隠し通せるものではない。陳登は振り返り、避難民たちの小屋が集まる暗がりへ冷ややかな視線を向け、口元に微かな笑みを浮かべた。
(……見ていろ、喰いつかせてやる)
直後、陳登は城門を守る方悦の元へ寄り、耳元で短く申し送りを済ませた。
方悦は力強く頷き、その瞳を鋭く光らせた。彼もまた、避難民の中に黄巾の細作が紛れ込んでいると踏んでいたのだ。陳登のこの策に乗らない手はなかった。
城外へ出た三百の私兵は、それぞれ平民の野良着を包んだ風呂敷を背負っていた。城から十分に離れた地点まで駆け抜け、周囲に斥候を幾重にも放って敵兵がいないことを確認すると、手早く粗末な服へと着替えを済ませた。身につけていた短刀や革鎧は一箇所に埋めて隠し、後で回収できるよう目印をつけておく。
翌朝、夜が完全に明けた頃。
城壁の上にいた方悦は、遠くから三々五々、群れをなして徐州へ向かってくる人の列を認めた。
心の中でほくそ笑んでいた方悦だったが、列が近づくにつれて目を丸くした。
(……何だ? 老人や女子供まで混じっているではないか……?)
実はこれも陳登の入れ知恵であった。
「もし街道で戦火を逃れてきた本物の避難民を見かけたら、巧みにその群れに紛れ込め。屈強な男ばかり三百人も集まっていては、不自然すぎて怪しまれるからな」
もし本物の避難民がいなければ仕方がないが、正午までに徐州へ戻ればよいと言い含めておいたのだ。
およそ千人ほどの群れの中に、三百の私兵が自然に溶け込んでいた。道中、黄巾軍の斥候とも何度かすれ違ったが、彼らは避難民の姿を見ても制止することなく見逃した。張燕から「民には手を出すな」と厳命されていたからであろう。
方悦は群れの中に昨日見たような顔が混ざっているのを確認すると、すぐに意図を察し、部下に命じて仮設の小屋の並ぶ一角へ彼らを案内させた。さらに小屋の増築を手伝わせる名目で、自然な形で配置を完了させた。
東門の視察に現れた陳登は、避難民の周囲をぶらりと歩きながら当たり障りのない声をかけた。当然、自家の私兵たちの顔も目に入ったが、初対面の平民であるかのように軽く頷くだけで通り過ぎていった。
陳登が報告のために蘇然の居宅へ向かった時、蘇然はすでに起きており、手持ち無沙汰に『春秋』の竹簡をパラパラとめくっていた。
現代的な娯楽が何一つないこの時代、歴史書を小説代わりに読むくらいしか暇潰しがないのだ。
傍らでは秀が針仕事をしながら、退屈そうに書物を眺める夫の横顔に微笑みを零していた。
机に肘をつき、あくびを噛み殺していた蘇然は、門をくぐってきた人影を認めるや否や、待ってましたとばかりに竹簡を放り投げた。
「先生!」陳登が恭しく一礼する。
蘇然は手を振って促した。「どうだ? 手筈は整ったか?」
「万事抜かりございませぬ!」
陳登は机の上に放り出された書物に目を留め、身を引き締めた。(……これほど深遠な知恵をお持ちでありながら、朝から勉学を怠らないとは。まさに我ら学徒の鑑だ……!)
「よし、上出来だ」
「学生の浅見によれば、黄巾軍が城を奪いに動くのは、おそらく今日か明日かと……」
「うむ」
蘇然が頷きかけたその時、徐州の伝令兵が血相を変えて転がり込んできた。
「ご、ご報告いたします! 城内の薪炭不足を受け、避難民たちが『薪を拾いに外へ出せ』と騒ぎ立てております! 方将軍が押し留めておりますが、民らの出城の意志が極めて固く、暴動になりかねませぬ……!」
「何だと?」蘇然は眉をひそめた。「騒いでいるのは城外からの避難民か?」
「は、はい……大半は近郊から逃れてきた者たちですが、徐州城内の民も同調して騒ぎを大きくしておりまして……」
(扇動されたな)
蘇然は即座に見抜いた。そしてハッと何かに思い当たり、鋭く問うた。
「東門がそうなら、他の三門はどうなっている!?」
陳登も青ざめ、蘇然の危惧を悟った。
「すぐさま三門へ使者を飛ばし、何があっても民を外へ出すなと伝えます!」
「待て!」蘇然が制止した。
「力づくで抑え込むのは悪手だ。民心を失えば城の内側から崩れる。外へ出たがっているなら、出させてやれ。黄巾軍も手を出したりはすまい。……ただしだ」
「ただし……?」
「外へ出た民の数を、一人残らず正確に数えろ」
「まさか……!」
聡明な陳登は瞬時にその真意を悟った。
「城内の黄巾の細作どもが、手勢の少なさに焦って民を扇動して外へ薪拾いに行かせた……。この混乱に乗じ、城外の仲間を難民に紛れ込ませて増員する気ですな!?」
蘇然は静かに頷いた。
「身の程知らずめが!」陳登が冷笑した。「民に化けて侵入できるなど、せいぜい数百が関の山。徐州城へ足を踏み入れたが最後、生きて出られると思うなよ。奴らの腕をへし折ってくれる!」
「できることなら……」蘇然は言葉を切り、小さくため息をついた。「……いや、言っても手遅れか。俺たちが話している間に、他の三門からはすでに民が外へ雪崩れ出ているはずだ。今から防いでも意味はない。元龍、急いで東門へ行け。おおよその数で構わん、頭数を把握するんだ!」
「承知いたしました!」
陳登は秀へ手短に礼を執ると、伝令を従えて風のように駆け去っていった。
蘇然は机をとんとんと指で叩きながら、敵の次の一手を必死にシミュレートした。
少し離れた場所で、秀が愛おしそうに夫を見つめ、静かに針を動かし続けていた。
「九百五十三……」
東門の城壁の上に立ち、陳登は城門を抜けていく民衆の群れを冷徹な眼光で見下ろしていた。
「一千……一千三百……」
城外へ出た民の数は、最終的におよそ四千人に達した。
あまりの膨大さに陳登も肝を冷やしたが、蘇然のかつての言葉を思い出し、腑に落ちた。(大衆というものは、最も付和雷同しやすい生き物だ……)
城外に賊軍が控えていようと、誰かが口火を切って門を出れば、恐怖を忘れて雪崩を打って追従してしまうのだ。
(……だが、この混乱の中で門を出た者たちの顔を記憶し、頭数を正確に割り出せるのは、この陳元龍をおいて他にあるまい)
陳登は心の中で自負しつつも、この展開を先読みしていた蘇然の底知れなさに改めて戦慄していた。
外へ出た民衆は蜘蛛の子を散らすように散らばり、黄巾の陣営がある方角を避けて、手近な雑木林で手当たり次第に薪を刈り始めた。
その喧騒に紛れ、民の格好をした数名の黄巾の細作が目配せを交わし、足早に群れを離れて林の奥へと消えていった……。
「何だと!?」
黄巾軍の本陣で、張燕が机を叩いて立ち上がった。
「徐州軍の精鋭三百が、昨夜城を出ただと!?」
「間違いございませぬ!」戻ってきた細作が平伏して告げる。
三百の精鋭……一体何のために動かした?
張燕は頭を抱えた。奇襲を仕掛けるには少なすぎる。だが、あの男——蘇然の繰り出す手はどれも毒のように鋭く、油断すれば喉笛を食い破られる。放置するわけにはいかない。
「少帥、もう一つ重要な知らせが!」
「言え!」張燕は苛立たしげに眉を吊り上げた。
「徐州城の正規軍五千が、各地の兵糧を集めて護衛しながら、間もなく徐州城へ帰還するとのことです!」
「兵糧だと!?」張燕の目がギラリと光った。
(……待てよ。まさか昨夜の三百は、その五千の部隊へ急報を届けるための使者か? いや、使者なら数騎で足りるはずだ……)
張燕は額を押さえた。どうしてもあの男の狙いが読めない。
「役目を果たしましたゆえ、某はこれにて!」
細作が素早く退出し、張燕は苛立ちを隠せないまま手を振って見送った。
(蘇然……貴様、一体何を企んでいるのだ……!)
張燕は苦悩の淵に立たされていた。もたらされた報せは吉凶相半ばしていた。
凶報は、正体不明の精鋭三百がどこかに潜んでおり、背後を脅かしていること。
吉報は、喉から手が出るほど欲しい五千人分の兵糧が、向こうから近づいてきていることだ。
徐州城を先に落とすべきか、それとも輸送部隊を襲って兵糧を奪うべきか?
張牛角から全権を委ねられている今、張燕の双肩には数万の黄巾軍の命運がのしかかっていた。一歩間違えれば全滅の憂き目を見る。
(もし兵糧を狙いに行って失敗し、五千の敵に糧食を焼き払われでもしたら目も当てられん……。やはり徐州城を落とすのが先決だ。城内には豪族どもの穀倉が唸るほどあると聞く。小事に囚われて大事を逃してはならん。何より急がねば、あの五千が到着して城内の敵と挟撃されれば、我が軍は袋の鼠だ……!)
(それに、あの消えた三百の兵……忌々しい男め!)
張燕は覚悟を決め、腰の剣柄を強く握りしめて号令を下した!
「全軍に通達せよ! 今夜、子の刻を過ぎた時を期し、内外呼応して徐州を強襲する!」
「「ハッ!!」」
幕舎を揺るがす護衛たちの怒号が響き渡った。




