第四十三章 愛妻の仕立てと、一石三鳥の計
考えれば考えるほど辻褄が合わない。胸騒ぎを抑えきれなくなった蘇然は、弾かれたように立ち上がった。
「あら?」
秀が不思議そうに目を丸くして見上げた。「夫君、またお出かけになるのですか?」
蘇然が眉間に皺を寄せて頷くと、秀はすぐに夫が何か重大な事態に気づいたのだと察した。彼女は前歯でサッと縫い糸を噛み切り、柔らかな声で言った。
「外は冷たい風が吹き荒れております。これをお召しになってからお行きくださいませ……」
「えっ?」
今まで考え事に没頭していて気づかなかったが、秀が先ほどまでせっせと針を動かしていたのは、他でもない蘇然のための新しい羽織だったのだ。
呆然と立ち尽くす蘇然の肩に、秀はくすくすと微笑みながら仕立てたばかりの羽織をふわりと掛けた。
胸の奥にじんわりと温かな火が灯り、心地よい電流が全身を駆け抜けていくような、えも言われぬ多幸感に包まれる。
秀は妻の務めを果たすように、蘇然の胸元の留め具をひとつひとつ丁寧に留め、腰帯をきゅっと結び直した。そして二、三歩下がって仕上がりを眺めると、満ち足りた笑みを浮かべた。
「秀、ありがとう!」
蘇然は思わず秀をぎゅっと抱きしめた。
日頃の蘇然からのスキンシップの甲斐あってか、二人きりの時であれば秀も真っ赤になって逃げ出したりはしなくなっていた。彼女は愛おしそうに微笑むと、しなやかな指先で蘇然の胸元をツンと突き、小さく囁いた。
「妾身は夫君の妻ですもの、当たり前のことでございます……」
ふっくらとした紅い唇を見つめているうちに、蘇然の理性が怪しく揺らぎ始めた。何度も口づけを交わしたはずなのに、離れるたびに名残惜しさが募るのだ。(……今、少しだけなら……へへっ)
蘇然がどこか怪しげな笑みを浮かべてじっと見つめると、秀は口元に手を当ててクスクスと笑い、静かに顎を引いて、ゆっくりと長い睫毛を伏せた……。
「先生ーーッ!!」
門の外から、風情を粉々に打ち砕く雷鳴のような絶叫が響き渡った。
秀はハッと目を見開き、慌てて蘇然を両手で突き放すと、真っ赤な顔をして奥の部屋へと逃げ込んでしまった。
蘇然はその場にポツンと取り残され、唇を舐め、深く息を吸い込んで、憎悪のこもった眼差しを玄関の扉へと突き刺した。
「先生……!」
案の定、現れたのは陳登であった。小走りで駆けつけてきたらしく、肩で息をしている。
(『先生、大変です!』とか言ってみろ、タダじゃおかねえぞ……)と蘇然は恨めしげに目を細めた。
「先生……あ、あれ?」
用件を切り出そうとした陳登は、蘇然の尋常ではない殺気配に気づいてギクリと立ちすくんだ。(……ま、まさかまたしても、先生のいいところを邪魔してしまったのか……!?)
「……先生?」
陳登はおずおずと奥の部屋へ視線を送った。扉の掛け簾がまだ左右にゆらゆらと揺れており、誰かが駆け込んだばかりであることは明白だった。陳登は引きつった笑いを浮かべ、平身低頭で拝んだ。
「お、お許しください、先生! 決して悪気はございませぬ! 実は学生、ふと腑に落ちぬ点に思い至りまして、どうしても先生にお耳に入れておかねばと急ぎ参上した次第で……」
「……で、何の話だ?」
蘇然は恨めしげに白目を剥き、どっかりと腰を下ろして自分用のお茶を淹れた。
「恐れ入ります! かたじけなく存じます!」
陳登は当然のように蘇然の前の湯呑みに手を伸ばし、グイッと飲み干した。蘇然は口をあんぐりと開けて固まった。
陳登は息をつき、腹の底まで温もりが染み渡ったところで、蘇然の冷たい視線に気づいてピシリと硬直した。
蘇然は溜息をつき、不機嫌そうにもう一杯自分に注ぎ直すと、湯呑みを突きつけた。
「言えよ。何があったんだ?」
「あ、は、はい……!」陳登は手元の空の器を見つめて首を傾げつつ、切り出した。
「先生、城外の黄巾賊が木を伐採して攻城兵器を造っているとの噂ですが……」
「お前は、それを信じるのか?」
「……えっ?」
虚を突かれた陳登は目を丸くし、蘇然をまじまじと見つめた。
「先生は……すでにそれが敵の偽計であるとお見通しで?」
「当たり前だろ!」
蘇然は先ほどの邪魔立てされた怒りを込めて吐き捨てた。
「黄巾軍は遠征軍で兵糧が乏しい。東門を取り囲んでからすでに何日も経っているんだぞ。そんな悠長に木を切って兵器を組み立てている時間など、奴らにあるはずがないだろうが!」
「先生、誠に恵眼でございます……!」
陳登は五体投地せんばかりに感服した。自分は散々頭を悩ませてようやくこの矛盾に気づき、先生に褒めてもらおうと駆けつけてきたというのに、先生はとっくの昔にその上を行っていたのだ。
弟子の素直な賛辞を受け、蘇然の機嫌もようやく持ち直した。お茶をフーフーと吹きながら、知った風な顔で講義を続ける。
「兵糧がないとなれば、奴らの狙いはただ一つ、短期決戦だ。では、どうやって一気に徐州を落とす? ……フン、『内外呼応』に決まっているだろう」
「仰る通りでございます!」
陳登はまるで寺子屋の優等生のように直立不動で聞き入った。この素直な態度は蘇然の自尊心を大いに満たし、先ほどの邪魔の件も水に流してやる気になった。
「では、奴らはどうやって内応を仕掛けてくると思う? 元龍、言ってみろ」
「それこそが学生の懸念でして……内応を仕掛けるなら、城内に避難民として紛れ込んだ細作を使うのが最も理に適っております」
「ふむ」蘇然は頷き、尋ねた。「今日、近郊から新たに徐州へ逃げ込んできた避難民はいたか?」
「それが……」陳登は首をひそめた。「ここ数日は黄巾賊も殊勝に見逃して民を城内へ通しておりましたが、本日は一人も入城しておりませぬ」
「殊勝だぁ?」蘇然は鼻で笑った。「元龍、陳家の私兵から腕の立つ者を三百人選べ。平民の野良着を持たせ、今夜のうちに密かに城外へ脱出させるんだ。遠くまで離れたら平民の服に着替えさせ、明日の朝、避難民のフリをして堂々と徐州へ戻ってこさせろ。そして、城内に集めてあるあの城外の難民たちの中に混ぜて匿うんだ」
「先生、まさかそれは……!」
陳登は目を輝かせて熟考し、やがて机をバンと叩いた。
「見事! まさに『一石三鳥』の神算鬼謀にございますな!」
(……え? 一石三鳥? 俺はただ、難民の中に監視役の味方を潜り込ませたいだけだったんだが、どこが三鳥なんだ……?)
蘇然は内心で激しく動揺したが、ポーカーフェイスを崩さず、さも当然といった顔で咳払いをした。
「コホン! ……元龍、お前の解釈を言ってみろ」
試されていると確信した陳登は、興奮気味に捲し立てた。
「まず第一に! 今夜部隊を密かに出撃させることで敵の目を欺き、城内の細作に『徐州軍が何かの目的で兵を動かした』と動揺を誘います。何が起きたか分からぬ細作は焦って城外の本陣へ急報を送ろうとするはず。そこを待ち伏せて捕縛し、敵の全容を白状させる! これが第一の利!」
(……へぇ、なるほどな)蘇然は黙って茶をすするフリをした。
「第二に! 明日の朝、戻ってきた兵たちに近隣の避難民を装わせ、さらにその中の何名かに『黄巾のシンパ』のフリをさせて難民たちに接触させるのです。そうすれば、本物の細作が接触してきて尻尾を出し、敵味方を完全に炙り出せます! これが第二の利!」
(……お前、本当に頭いいな)蘇然は急須からお茶を注ぎ足した。
「そして第三に! 我が陳家の兵を難民の中に常駐させれば、奴らの日常の言動はすべて我が監視下に置かれます。万一、内応の手引きを始めようものなら、その場で即座に制圧、あるいは我らへ急報が届く手筈となる! これぞ第三の利にございます!」
(よし、それだ! それが俺の言いたかった本命だ!)
蘇然は背中に滲んだ冷や汗をそっと拭い去った。この弟子、恐ろしく優秀である。油断すればいつか自分が現代知識を振り回しているだけの凡人だと見抜かれてしまう。もっと威厳を保たねばなるまい。
「素晴らしい、実に見事な計略でございます!」陳登は親指を立てて絶賛した。
「まあ、これくらいは基本だ」
蘇然は苦笑いを噛み殺して陳登の賛辞を受け流すと、少し表情を改め、真剣な眼差しで切り出した。
「元龍、一つ相談があるんだが」
蘇然の改まった態度に、陳登も笑みを収めて居住まいを正した。
「相談などと滅相もございません。先生のご命令とあらば、学生の力の及ぶ限り、万死を辞さぬ覚悟で従います!」
「いや、命を賭けるような話じゃないんだ……」
蘇然は手を振り、声を一段落として言った。
「戦火のせいで城内の米の相場が跳ね上がり、民衆に食べ物がなくなっていると聞いた。……どうにか、陳家から米を出して民を救えないだろうか?」
言いたいことの半分を告げただけで、十分だった。
陳登は即座に蘇然の意図を察した。だが、徐州城全体の民を養うとなれば、消費される兵糧は天文学的な量になる。いくら陳家の穀倉が満杯とはいえ、長期戦になれば持ちこたえられない。見返りのない一方的な施しとなれば、家長である父を説得するのも容易ではなかった。
「それは……」陳登は蘇然を落胆させたくはなかったが、渋い顔を作らざるを得なかった。
「……無理ならいいんだ」
蘇然は静かに溜息をついた。乱世において最も貴重な資源は兵糧だ。金銀財宝など腹の足しにもならない。戦場に駆り出される兵士たちだって、給料のためではなく「飯にありつくため」だけに命を懸けているのだから。
「先生、気を落とされますな!」陳登は慌てて取り成した。
「学生の本音を申し上げますと、陳家単独で全市民を養うのは父が決して首を縦に振りますまい。ですが……糜家、曹家、そして陶謙大人を巻き込んで『徐州全体で共同拠出する』形を取るならば話は別です。あ、いや、陶大人からはこれ以上出せませんな。大人はすでに避難民のために自腹を切って大量の米を放出してくださっており、刺史府の台所事情も限界に近い。……惜しむらくは、城外へ出ている徐州軍がまだ戻らぬことです」
「城外の徐州軍?」蘇然が聞き返した。
「陶大人が徐州各地へ派遣した軍勢です。各地の租税として集めた米を徴収し、さらに農民から余剰の穀物を買い集めて徐州の兵糧庫を潤すための護衛部隊にございます」
「なるほどな……」
「米の手配については学生が必ず奔走いたしますので、ご安心を。実は数日前、陶大人自らが米を配給されたばかりですので、民の蓄えもあと数日は保ちます」
「だが、黄巾が退かなければ、その備蓄もいずれ底をつくぞ」
「先生、ご案じ召されるな。屋敷に戻り次第、父を説得いたします。糜家と曹家を巻き込む形にすれば、父も必ず承諾いたしますゆえ!」
「うむ」蘇然は力強く頷いた。「頼んだぞ、元龍!」




