第四十二章 張牛角の奇計と、迫り来る飢餓の影
翌日、黄巾軍はまるで音信が途絶えたかのように、徐州東門へ姿を現さなかった。
ただ、城外へ薪拾いに出た避難民の報告によれば、森林の奥で大勢の黄巾兵が木を伐採している姿が目撃されたという。それを耳にした陳登は、「敵は再び攻城兵器を急造するつもりだな」と即座に察知し、密かに警戒を強めさせた。
また、あの激戦で張燕が手痛い敗北を喫して以来、西門と南門を取り囲んでいた黄巾軍も相次いで攻撃の手を緩め、後方へ陣を引いていた。北門に至っては言うまでもない。城外から軍旗を振って威勢よく喚き立て、数体の骸を捨て置いただけで早々に引き揚げていた。
だが、それは決して黄巾軍が徐州攻略を諦めたことを意味してはいなかった——。
その頃、黄巾軍の本陣では、大帥・張牛角が配下の四将を招集し、徐州攻略の軍議を開いていた。
まず張燕が于毒ら三将に向かって恭しく頭を下げ、初陣の際の傲慢な振る舞いを詫びた。三将は慌てて「滅相もない」と手を振った。張燕が自分たちとは器の違う将来性を持った若武者であることは周知の事実であり、あの誇り高い若造が自ら「すまなかった」と頭を下げただけでも、大いなる成長であったからだ。
張牛角は目を細めて義子の姿を見つめ、やがて苦笑いを漏らしながら口を開いた。
「徐州攻めも一筋縄ではいかぬな。徐州には骨のある男などおらぬと高を括っておったが……まさかこれほどの手練れが潜んでいようとはな」
「渠帥、ご案じ召されるな!」張燕が進み出た。「この子安、すでに胸中に一策がございます!」
「ほう?」張牛角は身を乗り出した。「疾く申してみよ!」
「先の敗戦ののち……」張燕は決まり悪そうに咳払いをしつつ、語気を強めた。
「某はわざと千余の兵を林へ遣わし、木を伐採させて攻城兵器を造る素振りを見せ、徐州城の守備兵を油断させております。その裏で、城内に潜入している内応の兄弟たちとすでに密約を交わしました。機が熟せば内外呼応して挟撃いたす所存。さすれば、徐州城を落とせぬ道理などございませぬ!」
「見事だ!」
張牛角は手を打って絶賛し、于毒ら三将を見やった。「諸君、我が子の策、いかが思われるか?」
「まことに妙計にございます!」穆固が破顔し、残る二将も異口同音に賛意を示した。
「ハハハ!」張牛角は機嫌よく笑い声を上げた。実子を持たぬ張牛角にとって、これほど頼もしい義子の成長は何よりの誇りであった。
「時に渠帥……」張燕がふと口籠り、躊躇いがちに切り出した。「……東門の主将の件なのですが」
「ん? 陳登・陳元龍のことか? あやつがどうした?」
「東門の真の主将は、陳元龍ではないようなのです」
「なに?」張牛角は薄いあご髭を撫で、首をかしげた。「細作の報せでは、東門は陳家が預かっているはずだが……ならば誰だというのだ?」
張燕は張牛角の顔色を窺い、声を潜めて答えた。
「……蘇然と名乗る男にございます」
「蘇然……蘇守義だと!?」
張牛角は目を見張り、三将と顔を見合わせて息を呑んだ。
「蘇守義といえば……」于毒が眉をひそめて呟きかけた。
張牛角は深く息を吐き出し、重々しい声で遮った。
「事ここに至っては、あれこれ迷っておる暇はない! まずは徐州城を力づくで奪い取ってから後のことだ! あの蘇然の処遇についても……もし大賢良師(張角)がお咎めになるならば、このワシが全責任を背負うまで!」
「滅相もございません!」張燕と三将が一斉に声を揃えた。「渠帥お一人に背負わせるわけにはまいりませぬ。我らも共に罪を受けます!」
「ふっ、嬉しいことを言ってくれる」張牛角は破顔し、すぐに表情を引き締めた。
「だが、まずは城を落としてからだ! 忘れるな、我が軍に残された兵糧はあと数日分しかないぞ!」
「万策尽きたならば……」于毒が冷笑を浮かべ、言葉を濁した。
その場の空気が凍りつく。——城外の無辜の民から、力づくで糧食を奪い取るつもりか?
重苦しい沈黙が流れる中、張牛角は手を払って言った。
「その話は後日だ! 今日は我が子の奇策を用いる。明晩の子の刻(深夜二十三時〜一時)、火の手を合図に徐州城へ総攻撃を仕掛ける!」
そして張燕を鋭く見据えた。「子安、手筈はすべてお前に任せる。決して手落ちのないようにな!」
「ハッ!」張燕は胸を張って応じた。「して渠帥、攻め落とす門はどちらに?」
張牛角の唇に冷酷な笑みが浮かんだ。重々しく、たった二文字を吐き捨てる。
「——北門だ!」
その場にいた四将は思わず息を呑み、感嘆の声を上げた。
(北門——陶謙自らが守り、ここ数日もっとも攻撃が緩やかだった場所!)
張牛角が武勇だけで渠帥の座に就いたわけではないことを、張燕は改めて痛感していた。
一方、徐州城内——。
黄巾軍が攻め寄せてこないため、東門の詰所で座りっぱなしなのも退屈になった蘇然は、気分転換に城内をぶらぶらと散策していた。
ところが、通りの辻に差し掛かった瞬間、キョロキョロと周囲を見回している一人の小柄な町娘の姿が目に入った。
(げっ……! またあのじゃじゃ馬娘かよ!)
蘇然は心の中で悲鳴を上げ、踵を返して逃げ出そうとした。だが、相手の鋭い視線がすでに彼を捉えていた。
「——あなた、お兄さん!? それとも弟さん!?」
糜貞はつかつかと大股で詰め寄るなり、開口一番に鋭く問い詰めてきた。
「…………」
蘇然は呆れ果てつつも、内心で可笑しさが込み上げてきた。素早く居住まいを正し、礼儀正しく一礼する。
「これはお嬢さん、奇遇ですね……」
言い終わらぬうちに、糜貞は口を尖らせて不満そうに地団駄を踏んだ。
「ちぇっ、弟の方か……ふん!」
通りの小石を悔しそうに爪先で蹴飛ばし、蘇然をジロリと睨み上げる。
「で、あなたのお兄さんはどこにいるのよ? もしかして賊軍が攻めてきたからって、怖気づいて家に引きこもってるんじゃないでしょうね!?」
(お前の目の前にいるのがその悪党のお兄さんだよ!)
蘇然は目の前の少女を見つめながら、心の中で毒づいた。黄巾軍など恐るるに足りないが、この娘だけは全力で距離を置きたい。万が一揉め事を起こして糜家の怒りを買えば、秀を連れて徐州から夜逃げする羽目になりかねないからだ。
「どうして黙ってるのよ?」
糜貞の大きく澄んだ瞳が、真っ直ぐに蘇然を射抜く。まだあどけなさを残す顔立ちには、将来絶世の美女となる面影が確かに宿っていた。
(気は強烈だが、顔立ちだけは文句なしに可愛いんだよな……コホン)
「お嬢さん、滅相もございません。実は兄の奴、数日前に風邪をこじらせまして、家で床に伏せっておりまして……」
「えっ?」糜貞はきょとんと目を丸くした。「あの悪党が病気? 重いの? 死んじゃいそうなの?」
(……おいおい、いきなり死ぬかどうかの二者択一かよ!)
余計な嘘をついたことを後悔しつつ、蘇然は苦笑いで取り繕った。
「いえ……軽い風邪でございますゆえ……」
「ふぅん」糜貞は納得したように頷き、手をひらひらと振った。
「なら、いいわ。……あ、そうだ! 家に帰ったらちゃんとお兄さんに伝えておいてよね。『ここであなたが謝りに来るのを待ってるから!』って!」
(……嘘だろ? そこまでして俺に謝らせたいのか?)
蘇然は心底から参り果てた。「は、はいはい……では、失礼いたします……」
「待ちなさい!」
蘇然はうんざりして振り返り、精一杯の愛想笑いを浮かべた。「……まだ何か?」
「あなたたちの家はどこにあるの?」
蘇然の目が点になった。(家まで突撃してくる気か!? それだけは絶対に阻止せねば……!)
「あ、やっぱりいいわ! 大兄上に知られたらまたお説教されちゃうし!」
糜貞は少し悔しそうに唇を噛み、蘇然を見据えて言い放った。
「あの悪党に言っておきなさい! 私は毎日ここで待ってるんだからね! 一日来なければ二日、二日来なければ三日! もし逃げ隠れするつもりなら……ふふん、ただじゃおかないんだから!」
冷や汗が背筋を滝のように流れ落ちる。
「承知いたしました……必ずや兄に申し伝えておきます……」
ようやくその場を脱出した蘇然は、先ほどのやり取りを思い返してクスリと笑った。(あのじゃじゃ馬、おバカだけど憎めないところがあるな……)
自宅へ戻ると、針仕事の手を止めた秀が、玄関先で夫の笑顔を迎えた。
「夫君、何か嬉しいことでもございましたか?」
「いやいや、何でもないよ!」蘇然は慌てて手を振った。「東門が静かだったから、秀と一緒に過ごそうと急いで帰ってきたのさ。お前の顔を見たら嬉しくなってね!」
「もう……お口ばかり上手なお方」
秀はポッと頬を染めてすねてみせたが、その表情には隠しきれない幸福感が滲んでいた。
彼女は手元の布地を畳みながら、ふと世間話のように呟いた。
「そういえば夫君、賊軍が城を取り囲んでからというもの、徐州の米の相場が一気に何倍にも跳ね上がっているそうですわ。近所の方々の話では、一般の民の家にはもう数日分の蓄えすら残っていないのだとか……。夫君、陳先生にお願いして、陳家の蓄えから少しでも民にお米を分けていただくことはできませんでしょうか?」
「ああ、俺もそう思っていたところだ。だが世家の穀倉を動かすのは簡単じゃないからな、折を見て元龍に相談して……」
そこまで言いかけた瞬間、蘇然の顔から血の気が引いた。
「……兵糧?」
そうだ。兵糧だ!
遠くから長征してきた黄巾軍に、潤沢な糧食があるはずがない。それなのに、なぜ奴らは数日も無駄にして、悠長に木を伐採して攻城兵器など造っているのだ?
(まさか……!?)
思考が最悪のパズルを完成させた瞬間、蘇然の額から脂汗がドッと噴き出した。




