第四十一章 細作の蠢動と、奪い合いの酒宴
日没前、張燕は五百の黄巾兵を率い、討ち死にした同胞の遺骸を収容すべく徐州城下へと進んだ。当初は罠を警戒して逡巡していたが、城壁の上の徐州兵たちがただ壁に肘をついて見下ろしているだけなのを確認すると、意を決して歩みを進めた。
蘇然から「攻撃を禁ずる」と厳命されていた陶応であったが、口の減らない性格ばかりはどうにもならない。城壁の上から張燕を指差し、嘲るように笑った。
「おい賊将! さっさと軍を引かねば、いずれ貴様ら全員がその骸のようになる番だぞ!」
張燕は胸の内を煮えくり返らせたが、今は形勢が味方していない。冷徹に押し黙り、言葉を返さなかった。黄巾兵たちは、もはや原型を留めぬ無残な戦友の遺骸を前に、押し殺した嗚咽を漏らしていた。
いくら悪態をついても張燕が一切応じないため、陶応も興を削がれ、悪態をつきながら持ち場へと戻っていった。
張燕は黙々と遺骸を運び出させながら、周囲の地形を頭の中に叩き込んでいた。徐州城の外堀に目をやると、水面には薄く砕けた氷が浮かんでいる。日数を指折り数え、彼の中で一つの冷徹な策が形を成し始めた。
東門を一瞥し、その唇の端を歪めて冷笑を浮かべる。
(……見ていろ。勝負はこれからだ)
夜に入り、張燕が陣幕で書物を読んでいると、徐州城内へ潜入させていた細作が戻ったとの急報が入った。眉をひそめ、幕内へ通させる。
「なぜ勝手に戻ってきた?」
張燕の声には冷たい怒りが籠もっていた。合図もなしに陣へ戻るなど、密偵としての規律を欠いている。
「少帥、ご容赦を! 是非とも耳に入れておかねばならぬ一大事がございまして!」
「言い訳はよい」張燕は低く言った。「尾行はまいたのか?」
「徐州城の周囲を幾度も迂回して確認いたしましたので、追手はございません!」細作は息を潜めて告げた。「お伝えしたいのは他でもありませぬ。徐州城内、薪炭(薪)が完全に底を尽きました!」
「ほう?」張燕の表情に喜色が走ったが、すぐに目を細めた。「……徐州の罠ではないのか?」
「断じて違います! 徐州は周辺から数万もの避難民を城内に抱え込み、毎日大鍋で炊き出しを行っております。その消費量は莫大で、特に東門近くに集められた難民たちは、もはや煮炊きする薪すら手に入らない状態です。某は仲間の数十名とともに『城外へ薪拾いに行く』と申し出て、堂々と門を抜けてまいりました!」
「薪が尽きたか……」
張燕は顎を撫で、思案した。「……では、兵糧は?」
そこまで口にして、自嘲気味に笑った。「徐州は天下の穀倉地帯だ、兵糧が尽きるはずもなかろう。愚問であったな」
細作は答えず、「長く留まるのは危険でございますゆえ……」と身を引いた。
「うむ。策を練り直す必要がある。戻れ、決して隙を見せるなよ」
細作が立ち去った後、張燕は幕内を行きつ戻りつしながら、独り言ちた。
「薪が尽きただと……? 我らが四門を包囲したまま攻めもせず兵糧攻めに持ち込めば、奴らは家屋を取り壊して薪にするしかあるまい」
張燕の瞳に獰猛な光が宿る。
「……あと数日、じわじわと囲んで干からびさせてやる。その後に……ふん、覚えていろよ」
敵陣で陰湿な謀略が練られている頃、蘇然の居宅では実に長閑な時間が流れていた。
秀が腕によりをかけて作った温かい手料理をつまみ、ちびちびと酒を呷る。実に至福のひとときであった。
唯一の難点は、この時代の酒は風味が素朴な上に度数が極めて低いことだ。現代基準でいえば下戸に毛が生えた程度の蘇然であっても、まるで水のようにいくらでも飲めてしまう。
だが、蘇然の関心は酒の味ではなく、目の前の可憐な妻にあった。
「一人で飲んでも味気ないから」と駄々をこね、秀を無理やり向かいの席に座らせて酌をさせていたのだ。秀も「夫君は今日一日、死線をくぐり抜けてお疲れなのだから」と、淑やかに付き合っていた。
まさに誰もが羨む睦まじい夫婦の団欒であった。
しかし、乱世の世にそんな甘い時間が長く続くはずもない。無粋な邪魔者がやって来るのは世の常である。
「先生! なかなか優雅にお過ごしですな!」
ガラリと扉を開けて入ってきたのは陶応であった。机の上に並ぶ料理を見て、卑しく口端を歪めている。
「先生、夜分に失礼いたします」
後ろから陳登が律儀に一礼して入ってきた。
蘇然はあからさまに白目を剥いた。
(おい……今は勤務時間外だぞ? お前ら、少しは空気を読めよ!)
「陳先生、陶将軍、ただいまお碗とお箸をお持ちいたしますね……」
秀が立ち上がろうとしたが、蘇然がその細い手首を掴んで引き留め、ズカズカと上がり込んできた二人を睨みつけた。
「厨房はあっちだ! 自分で取ってこい!」
「……」
二人は顔を見合わせた。客人に自分で箸を取りに行かせる主人がどこにいようか。
陶応はカラカラと笑いながら厨房へ向かい、陳登は蘇然の性格を熟知しているだけに苦笑いを浮かべた。
「お寛ぎのところ、申し訳ございません。ですが先生、真面目な報告がございまして……」
「ん? 黄巾がまた攻めてきたのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
陳登が答えかけたところへ、陶応が碗と箸を持って戻り、陳登に手渡した。
「じゃあ何だっていうんだよ」
蘇然が不満そうに呟いた瞬間、陶応が机の上の角煮を素早く箸でつまみ、口へ放り込んだ。
蘇然の心臓が痛烈に軋んだ。(……おい! それは秀が俺のために作ってくれた一番いい肉だぞコラ!!)
蘇然は急いで自分の箸を動かし、料理を死守しにかかった。秀は立ち上がり、二人の碗に酒を注ぐ。
「師母、かたじけなく存じます」陳登が恐縮して礼を述べ、本題を切り出した。「急を要するわけではございませんが、城内の薪が底を突きかけておりましてな。煮炊きや暖を取るのに難儀している有様で、何か良策がないかと先生にお知恵を拝借に上がった次第です」
そう言いながら、陳登も秀の料理を口に運び、目を細めた。「……やはり師母のお料理は絶品でございますな」
(……貴様ら、メシを食いに来ただけなんじゃないだろうな?)
蘇然はジト目で二人を交互に睨みつけた。
「某は関係ありませんぞ!」陶応が慌てて手を振る。「元龍が『大人に報告せねばならん』と言うので、付き添ってまいっただけです!」
そう言って、また別の料理に箸を伸ばし、「元龍の言う通り……実に美味い!」と舌鼓を打った。
蘇然は溜息をつき、酒を一口含んで尋ねた。
「……避難民の中に、城外へ薪拾いに出た者がいるな?」
陳登は目を丸くし、心底から感服したように膝を打った。
「先生、やはりお見通しでございますか! 隠し立てなどできませぬな。まさに先刻、城外へ薪を拾いに行きたいと申し出た難民が数十名おり、門を出ていきました。その中に黄巾の細作が紛れ込み、城外と連絡を取り合っているのではないかと危惧いたしまして」
「ふむ……」蘇然は考え込んだ。「夜間の城内に不穏な動きは?」
「孫茂殿に確認させましたが、夜間外出禁止令は徹底されており、今のところ目立った混乱は起きておりません。ですが、数千の兵を失った黄巾が、このまま大人しく引き下がるとは思えませぬ。必ずや謀略を仕掛けてくるはず」
「お前はどう見る、元龍?」
蘇然は知力80超えの愛弟子を試すように視線を向けた。
試問されたと思い込んだ陳登は、居住まいを正して箸を置いた。
「学生の浅見によれば、ここは『敵の計略を逆手に取る罠』を用いるべきかと存じます。敵に内応が成功したと錯覚させて城門へ誘き寄せ、乱戦に乗じて一網打尽に打ち破る。これぞ必勝の道かと!」
(……おいおい)
蘇然は内心で少し拍子抜けした。
(現代の歴史ドラマで百回くらい見たベタな展開じゃないか……三国志の天才軍師がそれくらいの策しか思いつかないのか?)
蘇然の沈黙を「深謀遠慮に耽っている」と好意的に解釈した陳登は、熱を込めて続けた。
「敵が夜襲を仕掛ける際、必ずや城内の細作と合図を交わすはず。我らは城内に伏兵を潜ませ、敵が城門へ殺到した瞬間に四方から討って出るのです。不意を突かれた賊軍は総崩れとなりましょう。そこへ先生が手勢を率いて追撃をかければ、完全なる大勝利にございます!」
「……合図は『火の手を挙げる』ってところか?」蘇然が呟いた。
陳登は目を輝かせた。「先生、まさにその通りでございます!」
(やっぱりかよ! 三国志の時代って、どうしてどいつもこいつも夜襲の合図に火を掲げたがるんだ? 守備兵に見つかるに決まってるだろ……)
蘇然は心の中で突っ込みつつ、表情を引き締めた。
「問題は、城内に潜む細作がどこに何人いるか正確に把握できていない点だ。下手に動けば藪をつついて蛇を出すことになる」
「もう一点、ご相談が」陳登が言った。「先生が定められた巡回の合い言葉ですが、内外で二種類に分けるのはいかがでしょう。外向けは一般の避難民に、内向けは正規の守備兵だけに共有するのです。これならば、仮に細作が我が軍の兵服を奪って変装したとしても、軍中専用の合い言葉までは見抜けませぬ」
蘇然は驚いて眉を上げた。
(ほう……さすがは陳元龍だ。今の思いつきはなかなか冴えているな。少し見くびっていたか)
「名案だ。その手で行こう」
「では先生、明日の定例の合い言葉をご下示願えますか?」
蘇然が思案しかけたその時、ふと机の上へ視線を戻すと、皿の上の料理の半分以上が陶応の胃袋へ綺麗に消え去っていた。
怒りと悔しさが頂点に達した蘇然の口から、後世の文豪魯迅のあまりにも有名なフレーズがポロリと飛び出した。
「——多からず、多からず! 多からんや? 多からざるなり!」
前回のなぞなぞにはまだ理屈があったが、突如として放たれたこの不可解極まる名文句に、陳登は完全に思考停止して目を白黒させた。
「は……? それは一体……どのような深意が……?」
陶応と残りの料理をめぐって猛烈な箸の争奪戦を開始した蘇然は、振り返りもせず吐き捨てた。
「自分で勝手に考えろッ!」
その騒がしいやり取りを背に、秀はふっと柔らかな笑みを浮かべ、静かに奥の部屋へと向かった。
そこには、故郷から大切に携えてきた両親の位牌がひっそりと祀られている。
秀は位牌の前に正座し、愛おしそうに手を合わせ、小さく囁いた。
「……お父様、お母様。夫君が無事に賊軍を退け、晴れて祝言を挙げました暁には……必ずや、あのお方を連れてお二人の前へご挨拶に参りますね……」




