第四十章 敵味方の骸と、青州の猛将・徐和
この一戦により、東門の守備隊が被った傷痍と損害は甚大を極めた。
城壁の守備兵は五百余名が討ち死にし、陶応が率いた八百の突撃隊も半数近くを失った。さらに千名以上の将兵が大小の負傷を負い、東門で即座に戦える兵力は見る影もないほどに削ぎ落とされていた。
だが、敗走した黄巾軍の損害はそれ以上であった。討ち取られた数は徐州側の倍以上に達し、重傷者はおらず、逃げおおせた者の多くも手傷を負っていた。
まさに完全な総力戦であり、両軍の意地と血肉がぶつかり合った末の防衛劇であった。
徐州側には堅固な城壁という地の利があり、武器や甲冑の質も格段に勝っていた。対する黄巾軍は何を持っていたかといえば、手入れも行き届かない一本の粗末な長槍ばかりであった。
さらに徐州側は大量の熱油を惜しげもなく注ぎ落としたため、城壁の直下は目も当てられないほどの屍山血河と化していた。東門の外に広がる戦場一面に累々と横たわる骸の山は、見る者の胸を抉る凄惨な光景であった。
陳登は蘇然の指示を受け、陳家の私兵五百を率いて城外の遺体収容に当たった。
徐州兵の遺体は丁重に城内へと運び込まれ、遺族へ引き渡された後に手厚く葬られる段取りが整えられた。
だが、黄巾兵の遺骸となれば話は別である。手出ししてさらに切り刻まれないだけマシであり、敵兵を埋葬してやる義理など毛頭ない。
しかし、現代人の感覚を残す蘇然の胸中は痛ましさでいっぱいであった。(死者に罪はない。敵味方とはいえ、このまま野ざらしにして放置するわけにもいかないだろうに……)
とはいえ、兵士たちの敵意に満ちた眼差しを見れば、軽々しく埋葬を命じることもできない。幸いにも今は厳冬期であるため腐敗の心配はないが、これがもし猛暑の夏場であれば疫病の温床になりかねないところであった。
そんな折、陣へ引き揚げた張燕から一通の書状が届き、陳登のもとへと使者が差し向けられた。
使者としてやって来たのは一人の若い黄巾の護衛兵であった。
当初、陳登は威圧をかけるため、重装甲の護衛数十人を居並ばせ、広間の真ん中に湯の煮えたぎる巨大な大釜を据えて脅しつけてやろうと画策していた。
それを聞いた蘇然は思わず苦笑して首を振った。後世の歴史書や創作小説でよく見かける「使者を釜茹での脅しで迎える」という古典的な演出を、本気で実行しようとしていたからだ。
「やめておけ。万一、度胸の据わった使者が来たら、かえってこちらの器の小ささを晒すだけだ」と蘇然が窘めたため、その大仰な仕掛けは見送られることとなった。
ただし、方悦と陶応の二人は「敵の出鼻を挫いてやる」と息巻き、重厚な甲冑を纏って長槍を構え、主座に座る蘇然の左右を仁王立ちで固めていた。その傍らには陳登が静かに控えている。
蘇然は苦笑交じりに溜息をつき、取次の者に使者を中へ通すよう命じた。
入ってきた黄巾の使者はまだ若い青年であった。大股で広間へ踏み込んできた彼は、余計な飾り気のない殺風景な広間を見回し、少し意外そうな顔をした。
「何の用で参られたか?」
主座に腰を下ろした蘇然が、静かに口火を切った。
使者が口を開きかけた瞬間、蘇然の背後に立つ二人の「護衛」——陶応と方悦が、鬼のような形相で鋭い眼光を突き刺してきた。その凄まじい威圧感に、使者は思わず息を呑んでたじろいだ。
蘇然は心の中で笑いを噛み殺し、軽く咳払いをした。
「……コホン」
使者の青年もタダ者ではなかった。気圧されたのも束の間、睨みつけてくる陶応と方悦の二人を逆にキッと睨み返し、居住まいを正して堂々と告げた。
「我が将軍の命を受け、陳登・陳元龍殿へ親書をお届けに参った!」
「私に……?」
陳登は自分を指さして首をかしげた。蘇然の顔色を伺った後、前に進み出てその書状を受け取った。
受け取ったとはいえ、目を通すべきは全軍の総指揮を執る蘇然である。陳登から書状を渡された蘇然が紐解くと、そこには簡潔な数行の文面が記されていた。
要するに「一時休戦を結び、討ち死にした黄巾将兵の遺骸を引き取りたい」という申し出であり、末尾には「死者を尊ぶは人の道である」といった大義名分が書き添えられていた。
蘇然がそれを朗読すると、陶応が鼻で笑って吐き捨てた。
「へっ! あの賊将め、今さら人の道を説く気か? 徐州へ攻め込んできた時には、そんな殊勝な言葉の欠片すら口にしなかったくせに!」
「……まあ、よいではないか」蘇然は静かに溜息をついた。「遺体は引き取らせてやろう」
「左様でございますな」陳登も頷いた。「あのまま城外に放置しておくのも、見栄えのよいものではございませんし……」
「使いの者よ、こう伝えるがよい」蘇然は使者の青年を見据えて言った。
「張燕殿には、遺骸を収容するために五百名の兵を差し向けるよう伝えよ。ただし、一切の武器の携行は禁ずる」
「な……!?」
使者の青年は目を見張り、警戒を露わにした。(もし徐州側が前言を撤回して襲いかかってくれば、丸腰の味方は皆殺しにされてしまうではないか!)
その心中を察した蘇然は、穏やかな笑みを浮かべて言い添えた。
「案ずるな。張燕殿には『徐州は落ち目に付け込むような卑劣な真似はせぬ。約束は違えぬ』と伝えよ。……それから、将兵の命を慈しむ心があるならば、一日も早く兵を引かれよ、とな」
使者は怪訝そうに蘇然をまじまじと見つめた。この青年が堂々と主座に座り、名士の陳登や猛将たちが従順に従っている様子を見て、意を決したように尋ねた。
「……貴殿の言葉に、偽りはないのだな?」
「勿論だ」蘇然は静かに頷いた。
「相分かった! ではこれにて御免!」
使者の青年は拳を抱えて礼を執ると、潔い足取りで踵を返した。なかなか骨のある若者であった。
「待たれよ」蘇然が呼び止めた。
「む?」青年は訝しげに振り返り、蘇然を睨んだ。「まさか、今になって前言を翻されるおつもりか?」
その顔には薄い嘲笑が浮かんでいたが、恐怖の色は微塵もなかった。
「そうではない」蘇然は破顔して首を振った。
「貴殿の見事な胆力と気骨に感銘を受けてな。これほどの英気を持つ御仁の名を知らぬまま見送るのは、いかにも惜しいと思ったまでだ」
青年は虚を突かれたように目を丸くし、しばし躊躇った後に答えた。
「……某の名は徐和、字は子諧と申す。……失礼仕る!」
「道中、気をつけてな」蘇然は穏やかに見送った。
(徐和……?)
蘇然は記憶の引き出しを必死にひっくり返したが、三国志演義の主要人物としては思い出せなかった。だが、あの堂々とした佇まいを見る限り、歴史の闇に埋もれるような凡夫とは思えなかった。
(※史実の徐和:後期黄巾の首領。青州黄巾の残党を率いて頑強に抵抗を続け、済南・楽安一帯を拠点に暴れ回ったが、後に曹操配下の名将・夏侯淵によって討ち取られる人物である)
(やれやれ……三国志演義の物語ひとつだけでは、語り尽くせぬ無数の英雄豪傑がいたということか。陶応といい、方悦といい……この時代は本当に油断がならないな)
「先生?」陳登がぼんやりと考え込む蘇然を覗き込んだ。
「ああ、すまん、何でもない!」蘇然は我に返って手を振ると、表情を引き締めて尋ねた。
「我が軍の負傷者と戦後処理の様子はどうなっている?」
陳登が方悦へ目配せすると、方悦が進み出て重い口調で報告した。
「負傷した将兵の手当てはすでに済ませております。しかし、この厳しい冷え込みのせいで傷口の塞がりが極めて遅く、当面の再出撃は望めませぬ。討ち死にした者たちについては……」
方悦は苦痛に眉をひそめ、声を沈めた。
「……遺族の方々が引き取りに参られ、泣き崩れておりました……」
「そうか……」蘇然の胸が痛んだ。
その表情の翳りを見て取った陳登が、慌てて言葉を添えた。
「先生、戦死した勇士たちの埋葬料はすべて我が陳家が工面いたしました。残された遺族につきましても、陳家が責任を持って生涯養う手筈を整えております。どうかご心痛なされませぬよう!」
「元龍、恩に着る……ありがとう……」
蘇然は深いため息を吐いた。昨日まで生きて笑っていた兵士たちが、今日は冷たい亡骸となって横たわっている。その残酷な現実に、胸の奥が締め付けられるようだった。
陳登は蘇然のやつれた横顔を気遣い、静かに進言した。
「先生、激戦の指揮でお疲れが溜まっておられるご様子。後の細々とした処理は私と方将軍に任せ、どうか一度お屋敷へ戻って身体を休めてください」
陶応も陳登に賛同し、珍しく素直に言った。
「元龍の言う通りだ。蘇然殿、ここは某たちに任せて早く休まれよ!」
方悦も深々と頷いている。
蘇然は「まだ大丈夫だ」と断ろうとしたが、ふと全身に鉛のような重みを感じた。張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、激しい疲労感が怒涛のように押し寄せてきたのだ。
「……分かった。すまないが、後を頼む」
「「「お任せを! 大人/先生、どうかごゆるりと!」」」
三人が声を揃えて送り出した。
陳府の門を出た蘇然は、どんよりと曇った冬の空を見上げ、家路につこうと歩き出した。
その時、ふと道の脇に佇む愛らしい人影が目に入った。
秀が、柔らかな微笑みを浮かべてそこに立っていたのだ。
「秀?」蘇然は驚いて駆け寄った。「どうしてこんな所にいるんだ? なぜ中に入って暖を取らなかった?」
「夫君が中で大切な軍議をなさっておられましたから……妾身のような女子がみだりに立ち入るのは礼を失しますし、差し障りがあってはなりませんので……」
「だからって、こんな寒風吹きすさぶ中で待ってる奴があるか!」
蘇然は秀の小さな手を取り、その氷のように冷え切った指先に胸を痛めた。すぐさま自分の羽織っていた上着を脱ぎ、秀の華奢な肩へと優しく包み込むように掛けた。
秀は「夫君のお召し物がなくなってしまいます」と何度も遠慮したが、蘇然の強引な優しさに押し切られ、薄い衣越しに夫の体温と深い愛情が染み渡るのを感じて胸を熱くした。
「ですが夫君……夫君がお風邪を召されてしまいますわ……」
秀は潤んだ瞳で蘇然を見上げた。
「俺か? 俺は頑丈だから平気だっ……ハ、ハックション!」
強がってみせた途端に冷たい風が吹き抜け、蘇然は情けなくくしゃみをした。
「……さ、さっさと帰って温かい湯でも浴びようか……」
「ふふっ……はい、夫君」
秀は愛おしそうに微笑んだ。先ほどまで城壁の上で凄絶な槍さばきを見せていた戦乙女とは露ほども思えぬ、いつもの可憐で慎ましやかな妻の姿であった。
二人が家路についた頃、黄巾軍の陣営では——。
今回の手痛い敗北にも、張燕は不思議と取り乱してはいなかった。徐州側には並々ならぬ逸材が揃っていることを悟ったからだ。
智謀に長けた陳登、手強い武将の方悦、そして陶謙の息子でありながら自分すら圧倒するほどの神技を見せた陶応……。
(あのような武芸の持ち主が、なぜこれまで無名のまま埋もれていたのだ? 解せぬ……)
思案に暮れているところへ、使者の徐和が帰還した。
張燕は身を起こし、急ぎ尋ねた。
「徐和、先方は何と言ってきた?」
徐和は少し躊躇いながら、言葉を慎重に選んで答えた。
「遺骸の引き渡しには応じてくれました。……ただ……」
「ただ、何だ?」
「遺体を引き取る兵は五百名まで、さらに『武器の携行は一切認めぬ』との条件を突きつけられました」
「なに……?」張燕は眉をひそめた。「他には?」
「……作業中の不意打ちは決してせぬ、と約束いたしました」
張燕は腕を組み、怪訝そうに問うた。
「その条件を出したのは誰だ? あの陳登か?」
徐和は首を横に振り、当時の様子を思い返しながら言った。
「いいえ……名は分かりませぬが、主座に腰を下ろしていた青い衣の若い文官です。陳登殿たちも皆、その者を『先生』『大人』と呼び、従順に従っておりました」
「主座……若い文官……?」
張燕の脳裏に電撃が走った。
「……まさか、姓は『蘇』ではなかったか!?」
徐和は驚いて目を瞬かせ、頷いた。
「左様でございます! 確か自ら『蘇然』と名乗っておられました……」
「やはりそうか……!」
張燕はハッと息を呑み、己の短慮を悟った。
数日来、自分を翻弄し続けてきた数々の奇策——あの塹壕も、夜襲の裏をかいた疲兵の計も、全ては陳登の知恵ではなく、その男の仕業だったのだ!
大賢良師がなぜあれほどまでに徐州の『ある男』を執拗に気にかけていたのか、その理由がようやく氷解した。
張燕は悔しげに頭を振ると、手を払って命じた。
「死んでいった同胞たちの無念を晴らすのが先決だ。子諧、お前が五百の兵を率い、東門へ遺骸を迎えに行け。……蘇然、どうかその信義に嘘がないことを祈るばかりだ……」




