第三十九章 炎上する井闌と、城壁の誓約
陶応は真っ先に駆け抜け、手勢を率いて火種を手に黄巾軍の井闌へと肉薄した。
紅蓮の炎が瞬く間に燃え広がる。周囲の黄巾兵が慌てて包囲しようと群がるが、陶応の神懸かりな武芸の前には蟷螂の斧であった。まさに羊の群れに躍り出た虎の如く、陶応は長槍を一閃させて敵を薙ぎ倒していく。
最初の一座から黒煙と火柱が吹き上がるのを目撃し、東門の城壁の上では徐州の精鋭たちがドッと歓声を上げた。戦鼓の響きが一段と激しさを増す。
陶応も内心で得意満面であった。
(親父の膝元で大人しくしている兄貴の真似などしていては、これほど痛快な大舞台を味わえるはずがない!)
周囲の兵士たちの崇敬の眼差しを浴び、すっかり気分を良くした陶応は、喉も裂けんばかりに大声を張り上げた。
「黄巾の賊どもなど恐るるに足らん! 徐州の勇士たちよ、敵を蹴散らせ! 勝てば陳家が全軍に莫大な恩賞を振る舞うぞッ!」
「オオーッ!!」
兵士たちの士気は限界を突破し、その獰猛な気迫は狂信的な黄巾兵にすら引けを取らないほどに跳ね上がった。
城楼の上にいた陳登は、あやうく口から血を噴き出しそうになった。
(ふざけるなよこの野郎! なんで他人の手柄で我が陳家の財布を勝手に開けてやがるんだ!!)
蘇然から伝染した現代風の罵倒を心の中で連発した陳登だったが、今は何より黄巾の撃退が最優先だ。街を守れるなら金などいくら出しても惜しくはない。ただ、陶応に良いように人気をかっさらわれたのが何とも腹立たしかった。
一方、弓弩手を指揮していた方悦は、眼下で縦横無尽に敵陣を蹂躙する陶応の姿に羨望を覚えたが、ふと城壁の上で「奮戦(?)」している蘇然の姿を目にすると、すぐに気持ちを切り替えた。
「弓手後隊、放てぇッ!」
その頃、当の蘇然はといえば、もはや黄巾兵の影すら踏めない状態になっていた。
前後を頑丈な護衛兵たちにガッチリとガードされている上、傍らの秀が時折冷たい視線をピリピリと送ってくるのだ。(……これ以上勝手に突撃したら、どうなるか分かっていますね?)と、その瞳が雄弁に物語っている。
蘇然の背筋を冷や汗が伝う。自分の嫁がここまで武闘派だったとは、今の今まで夢にも思わなかった。
(……今後は絶対に逆らわないようにしよう。妻の言うことを素直に聞く夫こそが、長生きして美味い飯にありつけるのだ……)
秀の戦いぶりはまさに「巾帼(女性英雄)」そのものであった。凛とした嬌声とともに振るわれる短槍の鋭さは神速で、周囲の屈強な護衛兵たちですら顔を見合わせ、言葉を失うほどだった。本来なら自分たちが奥方を守るはずだったのに、これではどちらが守られているのか分からない。
徐州側の戦況は好転していた。対する黄巾軍は、防衛設備を焼かれ劣勢に立たされながらも、その狂気と士気は衰えていなかった。粗末な武器を振り回し、徐州精鋭と刺し違えの死闘を演じる。
徐州の矢の雨を浴びて倒れ、もはや助からないと悟った黄巾兵は、死の間際に不気味な笑みを浮かべ、徐州兵に抱きついて道連れに息絶えていった。
この凄まじい執念と戦闘力——後世、曹操がこの青州・徐州一帯の黄巾軍を降伏・再編して作り上げた「青州兵」が、なぜ天下無敵の強軍として恐れられたのか、蘇然はその理由を肌で理解した。赤壁の戦いで烏林の炎に呑まれて潰滅したあの精鋭たちの原型が、今まさに目の前で命を散らしているのだ。
「二基目だ!」
城壁の上の蘇然が見守る中、陶応は二基目の井闌に火を放った。巨大な木組みが崩落し、火だるまになった敵の射手たちが悲鳴とともに地上へ叩きつけられ、味方の足で踏み躙られていく。
血飛沫が舞い、肉片が飛び散る地獄絵図に、現代人である蘇然は手足を小刻みに震わせた。ゲームの画面では絶対に味わえない、生々しい血の匂いが鼻腔を突く。
陶応は三基目、四基目の井闌をも次々と焼き払った。しかし、背後に従う八百の兵もすでに半数以上が討ち死にし、あるいは乱戦の中で散り散りになっていた。
陶応が最後の五基目の井闌に迫ったその瞬間、一騎の軍馬が疾風の如く立ちはだかった。
「名を名乗れッ!」
馬上の張燕が咆哮する。この若武者の武芸が方悦に勝るとも劣らないことを見抜いた張燕は、自ら討ち取るべく駆けつけたのだ。
「へっ!」陶応は不敵に笑った。「俺様は陶応、徐州の……死ねッ!」
名乗りを上げる途中で唐突に槍を突き出すという、悪童らしい不意打ちであった。
張燕は怒髪天を衝く思いで剣を横に払って防いだが、柄から伝わる重い衝撃に眉をひそめた。(腕力も相当なものだ……!)
陶応はニヤリと笑うと、長槍を巧みに操り、上段・中段・下段と目にも留まらぬ鋭い連続突きを繰り出した。育ちの良さに裏打ちされた、極めて本格的な槍術である。
張燕が剣を振るって必死に凌いだ瞬間、槍先が下から跳ね上がり、愛馬の首を刎ね飛ばした。張燕は咄嗟に鞍を蹴って飛び退く。
陶応は馬を討ち取ると、なぜか深追いせず、身を翻して脱兎の如く逃げ出した。
(……何だ!?)
張燕が不審に思って振り返った瞬間、五基目の井闌から轟々と紅蓮の炎が天を突いた。陶応が張燕を引きつけている隙に、生き残りの徐州兵が命を賭して火を放ったのだ。
井闌の全滅——黄巾軍の攻城手段は完全に粉砕された。
「おのれぇッ!!」
謀られたと悟った張燕は、激怒のあまり手にした宝剣を陶応の背中へ投げつけた。
だが陶応は背後からの殺気を感じ取るや、身をひねって飛来した剣を空中で軽々と掴み取った。そして振り返り、悪戯っぽく大笑いした。
「いい業物じゃねえか! ありがたく貰っておくぜ、兄弟! あばよッ!」
長槍と宝剣を両手に掲げ、陶応は残兵を引き連れて東門の中へと滑り込んだ。
井闌を失い、雲梯の多くを焼き落とされた黄巾軍は、もはや城壁に取り付く術を失い、次々と守備兵の矢刃に倒れていく。
張燕は棒立ちになり、深く、暗然とした溜息を漏らした。
「……天下の英雄を見くびっていたか」
城門を閉ざす陶応を追うこともせず、張燕は静かに命じた。
「ドラを鳴らせ。軍を引くぞ」
銅鑼の音が戦場に響き渡り、狂乱していた黄巾軍の波が潮が引くように後退していった。
「ふぅ……!」
城壁の上で、蘇然は大きく安堵の息を吐き出した。
「深追いは無用だ! 陣を整えよ!」
終わったのだ。
蘇然が周囲を見渡すと、弦を引き続けた弓兵たちの指先は皮が裂けて血肉が露わになり、城壁のあちこちに矢傷を負った兵たちが力尽きて倒れ込んでいた。そして城外の冷たい大地には、二度と目覚めぬ無数の兵たちが折り重なっている。
胸を締め付けられるような重苦しさが蘇然を満たした。
「将兵たちよ!」
蘇然は声を張り上げた。
兵たちが動きを止め、一斉に彼を仰ぎ見る。
「我らは、あの黄巾軍を撃退したぞッ!!」
「「オオオオオオーーーッ!!」」
天を衝くような大歓声が巻き起こった。戦友を失った悲哀と重苦しい空気が一瞬にして吹き飛び、兵士たちの顔に歓喜が戻る。天下無敵と恐れられた黄巾の猛攻を、自分たちの手で防ぎ切ったのだ!
張燕が一時的に引いただけだということは、蘇然も分かっていた。だが、今は兵たちに勝利の味を噛みしめさせ、生きる希望を持たせるべき瞬間だった。
蘇然は群衆の中に愛しい人の姿を探した。
秀は少し離れた場所に立ち、血の匂いが漂う戦場にあって、ただ一人春の陽だまりのような優しい笑みを浮かべて蘇然を見つめていた。
蘇然は歩み寄り、秀の白い頬に飛び散っていた血糊を、愛おしそうに指で拭った。
「夫君……」秀は小さく身を縮め、恥ずかしそうに囁いた。「それは……妾身の血ではございません……」
「分かっているよ」
周囲に大勢の将兵がいることも構わず、蘇然は秀の華奢な体を力強く腕の中に抱きしめた。
「ありがとう、秀……お前がいてくれたからだ」
そして蘇然は城壁の上の全軍へ向けて、照れ隠しのように声を張り上げた!
「野郎共! この黄巾の賊どもを完全に追い払った暁には、俺と秀の盛大な祝言を挙げる! その時は全員にたらふく酒と肉を振る舞ってやるから、絶対に顔を出せよなッ!」
「ヒューッ! 先生、俺たちを野蛮人だと追い出さないでくれよ! 絶対に行くからな!」
徐州兵たちの口笛とどっと湧き上がる喝采が、城壁の死気を完全に吹き飛ばした。
秀は顔から火が出るほど赤くなり、羞恥と歓喜のあまり、先ほどまでの「戦乙女」の姿はどこへやら、蘇然の胸に顔を埋めたまま二度と顔を上げられなくなってしまった。
その様子を眺めながら、陳登は苦笑いを浮かべた。
先生が大婚を挙げるとなれば、弟子である自分が万事を取り仕切らねばならない。だが問題は、先生の懐には兵士全員に酒を奢るような金など一文もないということだ。
(……やれやれ、私の授業料の前払いだと思うしかありませんな……)
方悦と陶応も、蘇然が気取らない男だと知ると、悪戯小僧のようにニヤニヤしながら冷やかしにやって来た。
二人の相手をしながら、蘇然は城壁の下に転がる敵味方の無数の遺体を見つめ、心の中で暗然と溜息をついた。
(乱世か……。どちらも同じ中華の大地に生きる民ではないか。なぜこれほど血を流し合わねばならんのだ……)
この後世に訪れる「五胡乱華」の大惨劇も、三国時代にあまりにも多くの同胞が命を落とし、国力が疲弊しきったことが原因ではないのか。
蘇然の胸の奥に、一つの静かな、だが確固たる決意が芽生え始めていた。
(この目で、曹操や劉備という男たちを確かめてやる。もしあいつらが本当に天下の民を救おうとする器であるならば……その時は、俺の知恵の全てを貸してやろうじゃないか……)




