第三十八章 死守の白兵戦と、寄り添う戦乙女
「我に続けッ!」
陶応は徐州の精鋭兵を引き連れ、猛然と城壁の裂け目へと突進していった。もし狂乱する黄巾兵の群れに城壁の上を完全制圧されれば、敵の士気は跳ね上がり、東門の陥落は免れない。
焦燥を募らせた蘇然は、激戦が繰り広げられる城壁の縁を見やり、左右の兵に鋭く命じた。
「俺に手弩を一本寄越せ!」
側近たちはぎょっとして立ちすくんだ。この学者然とした先生自らが前線に出て戦おうというのか?
即座に陳登の言いつけを思い出した側近は、慌てて押し留めるように声を張り上げた。
「大人は後方にて指揮に専念してください! 敵を討つのは将軍方にお任せを……!」
蘇然は内心で白目を剥いた。(……ただ手元に武器を持って度胸をつけたいだけなんだがな……)
一方、陳登は陳家の家将たちを指揮し、城壁の真下へ向けて煮えたぎる油を一斉にぶちまけていた。
ジュウウウッという肉の焼ける凄まじい音とともに、梯子の周りから耳をつんざく絶叫が巻き起こる。
「火を放て! 雲梯を焼き落とせッ!」
陳登が叫ぶ。雲梯は堀を跨いで城壁の縁に鉄鉤を打ち込んでいる。その接続部さえ焼き払ってしまえば、黄巾兵は二度と渡ってこれない。
だが、陳登は黄巾軍の「狂気」を甘く見ていた。
全身に火を纏った黄巾の兵士たちが、まるで燃える悪鬼のように猛炎を突っ切って城壁の上へと飛び込んできたのだ! 狂乱のままに徐州兵へ斬りかかったが、即座に陳家の手勢によって四方から槍で滅多刺しにされ、肉塊となって転がった。
時を同じくして、五座の井闌が堀の対岸まで完全に到達した。城壁とほぼ同じ高さから、櫓の上の黄巾弓手たちが激しい矢幕を浴びせかけてくる。徐州側に甚大な死傷者が出始めた。
「盾を掲げよ! 盾を構えろッ!」
蘇然が喉を枯らして叫ぶと、鉄盾を構えた歩兵隊が駆け寄り、弓弩兵の前に立ち並んだ。降り注ぐ無数の矢が鉄盾を激しく叩き、甲高い金属音を鳴り響かせる。
当然のように、護衛の兵士たちも蘇然の周りを幾重にもガッチリと取り囲んだ。
「俺を守ってどうする! 持ち場へ戻れ!」と蘇然が怒鳴り散らしても、兵士たちは頑として退かず、肉の防壁となって彼を死守しようとする。
「陶応ッ!!」
蘇然が城壁の上から叫んだ。
その意図を察した陶応は、すぐさま城壁を駆け下り、城内で待機させていた精鋭八百人を招集した。
出撃命令が出ぬまま待機を命じられていた八百の兵たちは、城壁の上の惨状を見上げ、悔しさと怒りで目を血走らせていた。陶応が先陣を切って現れた瞬間、彼らの士気は凄まじい爆発を見せる。
「城門を開けッ! 敵を血祭りにあげてくれるわ!」
陶応が門番へ怒号を飛ばす。
ギギギと重い音を立てて東門が開き、跳ね橋が下ろされた。
「野郎共!」陶応は背後の八百の兵を振り返り、吼えた。「この出撃、九死に一生の覚悟である! だが一歩たりとも退くことは許さんぞ!」
「「死戦不退!!」」
「「死戦不退!!」」
全軍が大地を揺るがす咆哮で応えた。
「出陣だァッ!」
陶応は白馬に跨がり、真っ先に城門を飛び出していった。
遠くからその動きを見止めた張燕は、一瞬呆気にとられたが、すぐに敵の狙いを悟って顔色を変えた。
「井闌を死守せよ! 櫓を守れッ!」
だが、戦場の怒号と太鼓の音にかき消され、その声は前線へ届かない。側近たちが慌てて馬を飛ばし、伝令へと走った。
陶応率いる八百の精鋭は、身に松明や油の入った壺を抱え、城門から打って出た。
先頭を駆ける陶応の銀槍はまるで稲妻の如く閃き、立ち塞がる黄巾兵を一突きで次々と薙ぎ倒していく。その武勇は凄まじかったが、敵の数も膨大だ。黄巾兵たちは開いた東門へ向かって狂ったように群がり、陶応の退路を断とうとする。
「将兵たちよ! 勝敗はこの一戦にあり! 命を懸けよッ!」
「オオーッ!!」
振り返った瞬間、四方から無数の槍が突き出された。陶応は必死に槍を払ったが、多勢に無勢、馬の背を蹴って飛び退くのが精一杯だった。直後、愛馬は十数本の槍に貫かれ、悲痛ないななきを上げて地に崩れ落ちた。
丸二年を共に戦場を駆け抜けた愛馬の無残な死に、陶応の逆鱗が弾け飛んだ。長槍を大振りし、狂乱の刃で瞬く間に周囲の黄巾兵数名を血祭りにあげる。
主将の凄まじい鬼神の如き奮戦を目の当たりにし、八百の徐州兵は鬼と化して黄巾軍を押し返し、じわじわと第一の井闌へと距離を詰めていった。
「くそっ!」張燕は歯ぎしりし、拳を血が滲むほど握りしめた。自分が総大将でさえなければ、今すぐ自ら飛び出してあの白い甲冑の小僧を叩き斬ってやりたいところだが、陣を離れるわけにはいかず、ただ焦燥に身を焦がすしかなかった。
城壁の上から陶応が井闌へ迫るのを見届けた蘇然は、声を限りに叫んだ。
「太鼓を鳴らせ! 陶将軍を援護せよッ!」
太鼓叩きの兵が顔を真っ赤にして撥を叩きつけ、雷鳴のような鼓動が戦場を揺るがす。
「命を惜しむな! 徐州を守り抜くのだッ!」
蘇然が喉を枯らして叫び続けていると、ふいに、背中に柔らかく温かい感触が触れた。誰かが優しく彼の背をさすってくれている。
「お前……」
振り向いた蘇然は、目を見張って絶句した。いつの間に、秀が自分の真後ろに立っていたのか!?
「降りろ! ここから離れるんだ!」蘇然は厳しく叱りつけた。
秀は何も言わず、ただ静かに澄んだ瞳で蘇然を見つめていた。その右手には、短槍が一本しっかりと握られている。
実は秀は、家で身支度を整えていた最中、街の民衆が「黄巾が城壁へ取り付いた!」と騒ぎ立てるのを聞きつけ、夫の安否が心配でたまらず東門へ駆けつけていたのだ。
城壁へ上がってみれば、青い羽織を纏った蘇然が、一切の恐れを見せず的確に全軍を指揮していた。その凛々しい姿に、秀は安堵すると同時に、誇らしさと愛おしさで胸がいっぱいになったのだ。
だが、巨大な井闌が城壁に迫り、矢の雨が降り注ぐに至って、彼女は居ても立ってもいられなくなった。
(妾身は徐州の存亡などどうでもよいのです……夫君の命こそが、妾身の命そのもの。もし夫君がここで命を落とすなら、妾身も迷わず後を追うまで……)
そんな悲壮な覚悟を秘めた秀に対し、蘇然の小言など効くはずもなかった。
「ここは危険すぎる! 早く城内へ戻れ!」
秀はふっと微笑み、静かに言った。
「夫君こそが妾身の天……天が崩れ落ちてしまえば、どこへ逃げようと危険な場所に変わりはございません。今日ばかりは、夫君が何と仰ろうとも、妾身はここを動きませんわ……」
「お前って奴は……」
蘇然は眉をひそめ、秀の揺るぎない瞳をじっと見つめ返した。やがて、長いため息とともに呟いた。
「……大バカ者め」
そう言われて、秀は嬉しそうに微笑んだ。そして一歩も引かず、蘇然の傍らに寄り添った。
周囲の兵士たちは、か弱いはずの女性が死地に踏みとどまり夫を守ろうとする姿を目の当たりにし、胸を打たれ、命を賭して戦う覚悟を新たにした。
ガギィンッ!
鋭い金属音が響き、また一つ新たな雲梯が城壁のへりに噛みついた。分厚い渡し板を渡り、血走った数十名の黄巾兵が城壁の上へと雪崩れ込んでくる——その突入地点は、あろうことか蘇然のすぐ目と鼻の先であった!
蘇然の心臓が跳ね上がった。(……こうなったら運を天に任せるしかない!)
腰の佩剣をスラリと抜き放ち、蘇然は腹の底から吼えた。
「城中の民を思え! 一歩も退くな、敵を討ち倒せッ!」
彼は護衛の兵を押しのけ、自ら前線へと飛び出したのだ!
学者が身を挺して突撃していくのを見て、背後の護衛兵が退くはずもない。彼らも怒号を上げて敵へと殺到した。
「もう、この人は……!」
秀は肝を冷やし、慌てて蘇然の後を追った。
(横暴な奴は無鉄砲を恐れ、無鉄砲は命知らずを恐れる! 今の俺は命知らずだッ!)
蘇然は心の中で自棄っぱちな気合を叫びながら、一人の黄巾兵へ向かって猛然と斬りかかった。気迫だけは凄まじかった。
向かってきた黄巾兵は、ひ弱な書生が突っ込んできたことに一瞬虚を突かれたが、蘇然が剣を真上から力任せに振り下ろしたのを見て(おいおい、剣で叩き斬る奴があるか! 刀じゃないんだぞ!)、咄嗟に槍の柄を掲げて受け止めた。
ガツンッ!
剣身が槍の硬い木柄に深々と食い込んだ。
蘇然の力では引き抜くこともできず、剣がガッチリと挟まって動かなくなってしまったのだ。
(うわっ、マズい……抜けない!?)
冷や汗が吹き出し、目の前の黄巾兵が獰猛な笑みを浮かべた——その瞬間。
ヒュッ、ドスッ!
横合いから電光石火の如く閃いた短槍が、黄巾兵の喉首を正確無比に貫いていた。
蘇然の絶体絶命の危機を救ったのは、他でもない秀であった。
礼を言おうと振り返った蘇然は、驚愕と気まずさで言葉を失った。
秀はジト目で蘇然を一瞥すると、呆れたように小さく溜息をついた。(……だから妾身は『武芸の心得がある』と申しましたのに、信じてくださらぬから……ふふっ)
「コホン!」蘇然はわざとらしく咳払いをし、「……やっぱり戦場は危険だな」と呟いた。
秀は苦笑しつつ、意識の三割を蘇然の護衛に割き、残る力で迫り来る敵を迎え撃った。
その戦いぶりを見て、蘇然は本気で顎が外れそうになった。方悦や陶応が強いのは分かる。だが、どうしてこの華奢な秀までこれほど強いのだ!?
秀の身のこなしは風のように軽やかで、目にも留まらぬ速さで舞う。手にした短槍はまるで死神の鎖の如く、一突きするたびに黄巾兵が白目を剥いて崩れ落ちていく。
その神速の動きを見つめながら、蘇然の脳裏にふと二文字が浮かんだ。
(……アサシン(暗殺者)……?)
本当にそんな雰囲気なのだ。
周囲の兵士たちが血みどろで戦っている中、自分だけが突っ立っているのが急に恥ずかしくなった蘇然は、顔を赤らめ、隙だらけの黄巾兵を探して駆け出した。
秀は肝を冷やした。敵を一人生け捕りにするたびに夫の姿を確認していたのに、目を離した隙にまた勝手に突撃しているのだ!
「あの人はもう……!」秀は慌ててその後を追いかけた。
蘇然も馬鹿ではない。剣は叩き斬るものではなく突くものであり、何より自分の腕力では正面衝突しても勝てない(秀にすら劣るかもしれない)ことを痛感していた。
そこで彼は、一人の徐州兵と死闘を繰り広げている黄巾兵の背後に忍び寄ると、無防備な背中めがけて剣をズブリと突き刺した!
背後から刃を貫通させられた黄巾兵は崩れ落ち、目の前の徐州兵は仰天して目を丸くした。
「……あ……人、殺しちゃった……」
蘇然は呆然と剣を引き抜き、足元に転がる遺体を見つめた。心にぽっかりと穴が空いたような、現実感のない虚無感が押し寄せ、視界が白く霞む。
その背後から、別の黄巾兵が長槍を構えて突進してきていることにも気づかないほどに。
キィィンッ!
駆けつけた秀の短槍が、寸前のところでその槍を弾き飛ばした。
秀は美しい瞳を怒りに吊り上げ、声を荒らげた。
「夫君ッ!!」
蘇然はハッと我に返った。(俺は何をやってるんだ!? 戦場の真ん中でボーッとするなんて、死にたいのか!?)
秀へ申し訳なさそうに視線を送ると、蘇然は先ほどと同じ戦法——味方と戦っている敵の背後から奇襲して刺す——を繰り返し、もう一人の敵を仕留めた。
「大人、ご勇武でございますッ!」
助けられた徐州兵が感激のあまり大声を上げたため、蘇然は顔から火が出るほど恥じ入った。(……背後から不意打ちしただけで『勇武』とか言われても困るんだが……!)
しかし、「文弱の書生であるはずの総大将自らが剣を抜き、敵を討ち取っている」という事実は、城壁の上の徐州兵たちの士気を限界以上に押し上げた。
駆けつけた陳登や方悦は、蘇然に万一のことがあってはと肝を冷やしたが、彼らの目に飛び込んできたのは、蘇然の傍らで軽やかに槍を振るい、次々と敵を薙ぎ倒して夫を護衛する一人の美姫の姿であった。
方悦はその神業のような槍さばきを凝視し、恥じ入るように息を呑んだ。(……あの奥方の武芸、某が立ち向かっても敵わぬかもしれん……)
一方、陳登は完全に思考停止していた。
(あれが……私の師母なのか……? 私が先生と議論しているとき、いつも優しくお茶を淹れてくださる、あの楚々として淑やかな師母なのか……?)
「……先生がただ者でないのは知っていたが、師母まで化け物だったとは……」
陳登は乾いた笑いを漏らすしかなかった。




