第三十六章 北門の援軍と、徐州の放蕩児・陶応
黄巾の賊軍が徐州城を包囲して三日が過ぎ、四方の城門はいずれも激しい損害を被っていた。
東門では敵兵二千余りを討ち取り、自軍も千の損害を出したものの、張燕の兵糧をことごとく焼き払った功績は極めて大きい。
南門を守る糜家は死力を尽くして敵を拒み、黄巾の将・穆固の猛攻を幾度となく撃退していた。城壁の利を活かして敵兵千余りを討ち取り、自軍の損害は数百。互いに決定打を欠き、小康状態を保っている。
西門の曹豹は己の武勇を過信して黄巾軍を侮り、あろうことか城門を開いて打って出た。結果は散々な大敗であったが、彼が率いる「丹陽精兵」は流石に三国屈指の強軍、手痛い損害を受けつつも敵の于毒軍にも少なからぬ打撃を与えて城内へ逃げ帰った。前哨戦から黒山賊時代にかけて名を馳せる于毒は煮え湯を飲まされ、「城が落ちた暁には、あの曹豹を八つ裂きにしてくれる!」と怒りを滾らせていた。
そして、徐州刺史・陶謙自らが守る北門だけは、実に「三日坊主」というか、のんびりとしたものであった。
他の三門が血みどろの激戦を繰り広げているというのに、北門だけは風が吹き抜けるばかり。城壁から遠くを見やれば敵の陣営は見え隠れするものの、一向に攻め寄せてくる気配がない。手を出してこない敵を相手に、こちらから打って出るわけにもいかず、陶謙は手持ち無沙汰に眉をひそめていた。
陶謙の手元には、徐州城に残された最後の虎の子である精鋭四千が温存されている。
温厚で民に慕われ、苛政を敷かない名君として知られる陶謙だが、それはあくまで内政の才覚であって、軍事に関しては凡庸と言わざるを得なかった。しかし立派なのは、彼が権力を独占しようとせず、徐州の三大世家(陳家・糜家・曹家)にそれぞれ一門を預け、城の防衛を委ねた点である。
世家を利用した狡猾さというわけではない。城が落ちた際、最も凄惨な略奪と虐殺に晒されるのは他ならぬ名門世家なのだ。陶謙が口を出さずとも、彼らは一族の存亡をかけて死守せざるを得ない。
世家というものは他者から指図されるのを最も嫌う。一つ屋根の下で共同防衛などさせれば内輪揉めが起きると察し、各家に一門を丸投げして全権を与えたあたり、陶謙の老獪な処世術が光っていた。
ただ、東門を預かるのが陳登ではなく、蘇然という得体の知れない青年であり、陳登が甘んじてその副手を務めていると聞いた時ばかりは、陶謙も耳を疑った。後にその青年が陳登の「師」であると知り、ますます興味を深めたのである。
陶謙は各門に二千ずつの徐州兵を配分していた。校尉である曹豹は直属の丹陽兵八千を擁しており、兵力の上では西門が最も盤石であった。
実は徐州にはもう五千の精鋭が存在するのだが、不運なことに城内にはいない。毎年の秋、交通の不便な各地へ軍を派遣して農民の収穫を支援し、買い付けた穀物を護衛して城へ運ぶ任務に就いているのだ。城を出てすでに丸一ヶ月、そろそろ帰着する頃合いだが、徐州の異変を知っているかどうかは定かではない。
北門の敵陣に動きがないのを見つめ、陶謙は意を決して号令を下した。
「誰か! 精鋭千五百を東門へ回し、加勢いたせ!」
近侍が驚いて尋ねた。「陶謙様、しかし北門の守りが薄くなりますが……」
陶謙は老骨に笑みを浮かべ、首を振った。
「古より『囲むに三を以てし、一を闕く』と申す。敵はあえて北門を開け、我らに逃げ道があると錯覚させて城を捨てさせようとしておるのだ。北門の敵は単なる陽動、案ずるには及ばん」
「ははっ、大人の恵眼、恐れ入ります!」
こうして千五百の増援が東門へ急行し、東門の守備兵は一気に三千五百余りへと倍増した。
その頃、東門の詰所で軍議を開いていた蘇然と陳登は、突然届いた増援の報せに目を丸くした。
「陶謙殿の北門は大丈夫なのか……?」蘇然が懸念を口にする。
「先生、ご安心を!」陳登が手を打った。「古の兵法に言う『囲むに三を以てし、一を闕く』でございます。敵の思惑を見抜いた陶大人が、北門の手勢を東門へ回してくださったのでしょう」
蘇然も合点がいった。四方を完全に囲めば敵は死兵となって頑強に抵抗するが、一角をわざと開けておけば逃走の誘惑に駆られ、戦意が崩壊する。攻城側の常套手段だ。
蘇然は増援を率いてきた若き将校に向かって、恭しく拳を合わせた。
「陶謙殿の深謀、かたじけない。蘇然より深く感謝申し上げるとお伝え願いたい」
「いやあ、礼には及ばんよ!」若き将校は背後の兵を振り返り、「おい、貴様! 父上へ今の言上を伝えてまいれ!」と命じた。
(……ん?)蘇然は首をかしげた。
伝令を走らせたその若武者は、ニヤリと笑って蘇然へ向き直った。
「東門が危ういと聞き及んでな。この某が直々に助太刀に参陣したというわけだ!」
「貴様……まさか……」陳登が目を細め、指を差した。
「おいおい、気位ばかり高い陳元龍殿。まさか我が顔をお忘れあるまいな?」若武者が嘲笑を浮かべる。
「本当に貴様か!」陳登はあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。「公良の野郎なら南門におるぞ! なぜあちらへ行かんのだ!」
「公良が南門におるなら心配いらん。あいつはしぶといからな。それゆえ東門へ助太刀に来てやったのだ。元龍、まさか俺を追い返そうというのではあるまいな?」
「ふん!」陳登は忌々しそうに鼻を鳴らし、怪訝な顔で見つめる蘇然へ向き直った。「先生、この東門の総責任者は我が師・蘇守義先生でございます」
若武者は目を瞬かせ、すぐさま居住まいを正して頭を下げた。
「これは失礼仕った。某は陶応、字を子承と申す。蘇大人、よしなにお見知りおきを!」
「陶……?」蘇然はポカンと口を開けた。
「先生、徐州で名うての放蕩息子の顔など、ご存じなくて当然でございます!」陳登が毒づく。
「元龍、旧友をつかまえて人聞きの悪いことを言うなよ!」陶応は苦笑し、蘇然へ補足を加えた。「……刺史の陶謙が我が父にござる」
「陶謙殿のお坊ちゃん……!?」蘇然は目を見張った。
侮られたと感じたのか、陶応は不満げに眉を吊り上げた。
「大人、某を親の七光りと侮られますな。父の威光を笠に着るつもりなど毛頭ござらん!」
陳登が蘇然の耳元にすり寄り、小声で囁いた。
「先生、陶子承は素行こそ最悪ですが、戦陣の駆け引きと武芸に関しては本物の器量を持っております。あの糜芳と並んで……ふん、ろくでなしですがね!」
耳ざとく聞きつけた陶応が陳登を睨みつけ、陳登もまた一歩も引かずに睨み返す。
蘇然は頭痛を覚えた。(史実の陶謙の二人の息子って、無能で歴史の表舞台から消えたんじゃなかったか? だが元龍がここまで言うなら、この陶応という男、ただのボンボンではないのかもしれないな……)
「子承殿、そこまで言うなら加勢は大いに歓迎する。……ただし」
陶応も愚鈍ではない。蘇然の言わんとすることを察し、鋭い眼光で言い切った。
「太鼓の音で進み、ドラの音で引く。もし某が敵に怯えて退くようなことがあれば、軍法会議にかけるまでもなく、我が首を刎ねて軍旗の血祭りにあげてくだされ!」
陳登が横からボソッと呟いた。
「……怯えはせんだろうな。命知らずの向こう見ずだからな!」
陶応は顔を真っ赤にして拳を握りしめたが、陳登は悪びれる風もなくそっぽを向いた。
蘇然は溜息をつき、方悦を呼び寄せて紹介した。
「こちらが方悦、字は子平だ。我が東門の頼れる副将である。子承殿、彼とよく連携をとってくれ」
相手の身分の高さを察した方悦が先んじて礼を執ると、陶応は人懐っこい笑みを浮かべて返礼し、唐突にとんでもないことを口走った。
「方殿、貴殿はすでに妻帯されておられるのか?」
「ゲホッ!」陳登がわざとらしく咳き込んだ。
陶応がなおも何か言おうとしたその瞬間、城壁の上から見張り兵の絶叫が轟いた!
「敵襲ーーッ! 黄巾の賊軍が押し寄せてまいります!!」
蘇然の表情が一瞬で引き締まった。陳登と方悦を見据え、鋭く問う。
「先ほど授けた策は、頭に入っているな!?」
「「抜かりございませぬ!」」二人が力強く応じる。
「え……? な、何だ? どんな策だ!?」
やって来たばかりの陶応が、左右を見回して目を白黒させた。
一刻の猶予もない状況に、方悦は構わず陶応の腕を掴んで走り出した。
「子承殿、走りながら説明いたす! 我に続け!」
走り去る二人の背中を見送り、蘇然は首をかしげた。
「あの陶子承という男、一体何者なんだ……?」
「先生、ご安心ください」陳登はニヤリと笑った。「陶応は戦陣に明るく腕も立ちますが、父親に反抗してばかりいるため、陶大人からは煙たがられておりましてな……」
(やれやれ、反抗期真っ只中のグレた御曹司かよ!)
陳登はさらに楽しげに付け加えた。
「あやつは糜家の次男・糜芳と並び、この徐州城で『二大悪童』と恐れられている札付きでございます」
「…………」
蘇然は東門の空を見上げ、ただ無言で額を押さえるばかりであった。




