第三十四章 血染の塹壕と、不滅の軍魂
「全軍警戒ッ!」
方悦の咆哮が響き渡る。彼もまた、これまでの小競り合いとは違う、真の死闘が始まったことを悟っていた。
すでに黄巾軍は塹壕に潜む徐州精鋭の有効射程内に侵入していた。方悦は事前に部隊長たちへ「曲射」を使うよう徹底させていたが、突如迫り来る緊張感のあまり、半数以上の兵がとっさにいつもの「平射」で弓を引いてしまった。
ドス! ドス! ドス!
数十台の怪異な手押し車の前線に張られた厚木板へ、無数の矢が空しく刺さる。木板を突き抜けて後方の兵を傷つけた矢はほんの僅かであった。
「何を教わっていたのだ! 曲射だと言ったろうがッ!」
方悦が怒号を飛ばした。
だが、その一喝は焦りから来るものであり、黄巾軍の凄まじい気迫に押されていた兵士たちの士気をかえって沈ませてしまった。
「我の動きを見よ!」
方悦は隣の兵から弓を奪い取ると、矢を番えて空高く斜め上へと引き絞った。
将校たちの号令のもと、兵士たちも一斉に方悦の構えを真似る。
「……放てぇッ!」
城外で手綱を握る張燕の目が細められた。天を覆うように黒い矢の雨が飛び上がっていく。
(空に向けて射て何になる? 勢いの落ちた矢にどれほどの威力があるというのだ)
だが次の瞬間、張燕はその考えが甘かったことを思い知らされる。
ザシュッ! ザザッ!
信じられない光景だった。車列の後方にいた黄巾の精鋭たちが、天から垂直に降り注ぐ矢の雨に生け贄のごとく貫かれ、次々と地面へ釘付けにされて倒れていったのだ!
(……まさか、これほどまでの威力を発揮する射術が存在するとは……!)
張燕は苦痛に顔を歪め、絶叫する部下たちを凄痛の思いで見つめた。しかし、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。
「進め! 突撃だ! 徐州を押し潰せッ!」
時を同じくして、東門での激戦を知った黄巾の大帥・張牛角は、すぐさま他の三門へも同時総攻撃を命じた。徐州城全体が瞬く間に炎と血に包まれ、至る所で断末魔の悲鳴が上がり始めた。
「第二隊、出ろッ!」
後方から重々しい二番目の車列が到着したのを見届け、張燕は第二陣を投入した。だが、その部隊の兵たちは武器も防具も身につけていない。彼らの目的は一体何か?
その答えは瞬く間に明かされた。
後ろの車に積まれていたのは、無数の「土嚢(土を詰めた袋)」であった。張燕の考えもまた蘇然と同じであり、土で塹壕を埋め立てて一本の突撃路を作ろうとしていたのだ!
高射によって黄巾側に甚大な損害が出たものの、ついに第一ラインの塹壕が土嚢で埋め立てられた。狂乱した黄巾兵たちは血走った目で、第一ラインに潜む徐州兵へ狼のように襲いかかった!
ここで、黄巾軍の狂信的な強さが牙を剥く。
徐州の精鋭兵二人がかりで、ようやく敵一人を食い止められるかどうかという惨状。さらに死を覚悟した黄巾兵たちは、致命傷を負ってもなお徐州兵を道連れに爆死せんばかりに組みついてくるのだ。
その執念と凶暴性に、目撃した者全員の総毛が立った。
(……これが黄巾か!? これが死を恐れぬ狂信者の戦いなのか!?)
第一ラインを守っていた百余名の徐州精鋭は全滅した。それは徐州軍にとって痛烈な損害であったばかりか、敵の狂暴性を目の当たりにした後方の兵士たちの心に、決定的な「恐怖」を植え付けた。方悦は大きく首を振った。
「太鼓を叩け! 鼓を打ち鳴らせッ!」
城壁の上に立つ蘇然が、声を限りに叫んだ。
この土壇場に至っては、いかなる智謀もただの戯言に過ぎない。頼れるのは人間の「魂」と「血気」だけだ!
ドンドン! ドドドン!!
激しい戦鼓の音が戦場に響き渡る。
徐州の兵士たちが振り返ると、なんとあの学者然とした蘇然自らが、袖をまくり上げて必死の形相で太鼓を叩き続けているではないか!
その姿に、沈みかけていた兵士たちの胸に再び熱いものが込み上げた。
「将兵たちよ!」方悦が腹の底から叫んだ。
「徐州の存亡、そして諸君の愛する家族の存亡は、すべてその手に懸かっている! 長槍隊、我に続けッ!」
方悦の叫びは雷鳴となって兵たちの目を覚まさせた。彼らの脳裏に、蘇然が以前語った言葉が蘇る。
——「お前たちの死で、愛する者の生を買い取るのだ!」
「ウオーッ!!」
迫り来る怪異な車列に向かい、一人の伍長が長槍を構えて数名とともに飛び出していった。
その猛反撃に、今度は張燕が狼狽した。前線に送った第二陣は土を埋めるための無武装部隊であり、弓兵隊もまだ後方に控えている。
「槍兵、前へ出ろ!」
張燕も大慌てで槍兵を投入した。拒馬は破られ、第二ラインの塹壕が埋め立てられる頃には、突入してきた敵の刀手二百名が徐州軍の必死の反撃によって全滅していた。
徐州兵は勢いに乗って押し返そうとし、土を埋める無武装の黄巾兵へ刃を振るった。だが、彼らは黄巾の狂信的な妄執を甘く見ていた。大賢良師のため、理想のためならば、命などちり紙よりも軽いのだ!
武器を持たぬ黄巾兵を二人倒すために、徐州軍は一人の犠牲を払わねばならなかった。その凄惨きわまる軍魂のぶつかり合いに、城壁の上の蘇然は全身を激しく震わせた。
(これが……これが黄巾軍か!? 天下を揺るがした男たちの真の底力なのか!?)
「先生……もう見ていられません。塹壕の防衛を諦め、撤退の合図を……」陳登が痛々しそうに声を絞り出した。
「ドラを鳴らせ……」
蘇然は乾いた声で命じたが、その手は太鼓のバチを叩き続けることを止めなかった。
「敵が引くぞ!」
ドラの音を聞きつけた張燕の顔に、ようやく冷ややかな笑みが戻った。
しかし——戦場で異常な事態が起きた。
撤退のドラが鳴り響いているにもかかわらず、塹壕の中の徐州兵たちは誰一人として下がろうとしなかったのだ! 彼らは咆哮を上げながら黄巾軍へ向かって突撃し、油断していた敵を逆になぎ倒していった!
「なっ……!?」陳登が絶句した。
「引き揚げる……? どこへ引くというのだ?」
蘇然は眼下の兵たちを見つめ、自分自身が言った言葉の意味を噛みしめていた。
一歩引けば、後ろには愛する家族がいる。退く場所など、最初からどこにも存在しないのだ!
兵士たちは文字通り、この巨大な肉挽き機のような戦場で、自らの命を薪となって燃やし尽くしていた。
方悦は胸が張り裂けそうになりながら黄巾兵を斬り倒し、遠くの張燕を見据えた。そして怒りに任せて張燕の陣頭へと単身突進した!
「フン、身の程を知らぬが!」遠くの張燕が冷笑した。
「方将軍、上だッ!」
方悦が空を見上げた瞬間、視界が凍りついた。黄巾軍の弓兵隊が一斉に放った矢の雨が、黒い雲となって自分へ降り注いできたのだ!
絶体絶命——そう覚悟した瞬間、どっと力強い身体が方悦を押し倒した。
ドスッ! ドスッ!
背の上で、肉が射抜かれる生々しい衝撃と震えが伝わってくる。
城壁の上で、蘇然の拳が巨石に叩きつけられた。眼下の惨状を目にし、彼の手から太鼓のバチが力なくこぼれ落ちた。
静けさが戻り、方悦がゆっくりと身体を起こすと、自分の上で全身に矢を浴びて倒れている数名の徐州兵の姿があった。方悦の視界が一瞬で熱い涙で歪んだ。
「将軍……」
息の絶えかけた一人の兵が、震える手を方悦へ伸ばした。
「絶対に……絶対に徐州を守ってください……そこには……私の……妻が……」
言い終わらぬうちに手は力なく落ち、息絶えた。
「ウオーッ!!」
方悦は兵の手を固く握りしめ、血を吐くような咆哮を上げた。彼は河内の人間だったが、この徐州で彼らと共に汗を流し、酒を酌み交わし、時に罰を受け、実の兄弟のように過ごしてきたのだ。それが今……!
方悦は大刀を握り直し、張燕へ向かって吼えた!
「張子安!! お前とは不共戴天の敵だッ!!」
七道あった塹壕のうち、すでに五道までが埋め立てられていた。押し寄せてきた張燕は、その叫びを聞いて冷笑した。
「そんな捨てゼリフ、聞き飽きたわ!」
残り二道の塹壕にいる徐州兵はほとんどが弓弩手であり、白兵戦には向かない。方悦は激怒しながらも冷静さを失わず、手を振った。
「撤退! 城内へ引くぞ!」
残る三百余名の徐州兵は、討ち死にした戦友たちに一瞥をくれ、歯を食いしばって塹壕を脱出した。
開戦以来半刻(約一時間)開かれっぱなしだった徐州東門が、ここで初めてその真の役割を果たした。吊り橋が引き上げられ、城門が重々しく閉じられる。
陣を整えた張燕は、自軍の損害を確認して顔色を変えた。
なんと、自慢の黄巾精鋭が千三百人も討ち取られていたのだ!
武器を持たない土嚢隊の五百人を除いても、八百人もの精鋭が殺された計算になる。
(あの徐州兵ども……我が軍と相打ちに持ち込んだというのか!?)
かつて経験したことのない恐怖と損害だった。
だが……ついに徐州城へ続く「道」は切り開かれた。
張燕は密かに胸を撫で下ろした。自軍にはまだ四千以上の兵がいる。東門の兵力は尽きかけており、他の三門も同様だ。徐州落城は時間の問題であった。
城内へ退却してきた徐州兵たちが、うなだれて頭を垂れているのを見て、蘇然は城壁を下りていった。
彼らの前で深く一礼を捧げると、蘇然は鋭い声で喝を入れた。
「我が軍はまだ敗れてはおらん! なぜそのような無様な顔をしているのだ!?」
兵士たちがいっせいに顔を上げ、蘇然を直視した。
「今や……我らは単に徐州のため、百姓のため、家族のために戦っているのではない! 共に血を流して死んでいった、あの戦友たちのために戦っているのだ! お前たちは、奴らをあの世の下で浮かばれぬまま泣かせるつもりか!?」
「「「死を賭して徐州を守らん!!」」」
「「「死を賭して徐州を守らん!!」」」
地鳴りのような叫びが城内に響き渡り、徐州兵の士気は天を衝くほどに跳ね上がった。
城外でその叫びを聞いた張燕は、城門を見つめたまま、ただ首をかしげるばかりであった。




