第三十三章 ただのりんじん、車陣破りの曲射
蘇然はベッドから起き上がると、お湯を沸かして顔を洗い、昨日残った料理を眺めて考えた。(……わざわざ作るのも面倒だな。よし、今日は陳府へ行ってメシをタダ食いしてくるとするか!)
師匠でありながら弟子家へタダ飯を食いに行くなど、古往今来、蘇然くらいなものだろう。
幸いなことに、陳登はすでに蘇然のマイペースな性格を熟知しており、気にするどころか秀も一緒に連れておいでと大喜びで招待してくれるほどだった。
しかし秀は恥ずかしがり屋で、自分が行かないのは勿論のこと、影で「夫君、あまり陳先生のお宅に甘えてばかりでは……」と何度も注意していた。
だが蘇然にしてみれば、後世にいた頃、懐が寂しい時期には友人の家に上がり込んでタダ飯を食い、タダで遊び倒し、支払いをすべて悪友に押し付けていた経験がある。それでも絶交されるどころか友人は増える一方だったのだから、彼の持ち前の人徳は筋金入りであった。
今でも彼は陳登を単なる「弟子」ではなく「気の置けない友人」として扱っている。身分や階級の壁など、蘇然の目には一文の価値もない。首を跳ねられるリスクさえなければ、洛陽へ乗り込んで二人の幼い皇帝の顔を拝みに行きたいくらいだ。(献帝の妃の伏皇后はかなりの美女らしいが……まあ、いくら美人でも天下第一の美女・貂蝉には敵わないだろうな。一度でいいから会ってみたいものだ。あんな美女なのに波乱万丈な生涯を辿るなんて、可哀想に……)
そんなアホな妄想に耽りつつ溜息をついた瞬間、蘇然の足がピタリと止まった。
前方から歩いてくる町娘風の少女——先日、店で一痛い目を見せてやった糜家のあのじゃじゃ馬娘(糜貞)ではないか!
(見えない、見えない、俺は見えない……)
蘇然は目を伏せ、地面だけを見つめて急ぎ足で通り過ぎようとした。だが、視界にちょこんと可愛らしい刺繍靴が滑り込んできて、心の中で「げぇっ」と絶叫した。
相手は女物に身を包んでいるため、男装していた時のように容赦するわけにもいかない。ここで揉め事になれば、道行く人々から「女の子をいじめる不埒者」と罵られるのは目に見えている。
息を殺して右に一歩かわそうとしたが、相手も察して同じ方向へ回り込み、蘇然の正面をガッチリと塞いだ。
「ふん! この悪党め、ついに捕まえたわぞ!」
糜貞はプンプンと怒りながら蘇然を睨みつけた。冷たい風に吹かれて頬をぽっと赤く染めた姿は、悔しいかな実に可憐であった。
蘇然は参りつつも、白々しく顔を上げて糜貞の顔をしばらくじっと見つめた。
不躾な視線を浴びせられ、糜貞は顔をカッと熱くして怒鳴った。
「な、何よこのスケベ! どこを見てるのよ!」
「あの……お嬢さん」蘇然はさも不思議そうに首をかしげた。「不躾ですが、私に何かご用でしょうか? なぜ行く手を阻むのです?」
「〜〜〜っ!?」
糜貞は目を丸くし、指を突きつけたまま言葉を詰まらせた。
「特に用がないのでしたら、当方、急ぎの用事がございますので。これにて失礼!」(よし、トンズラだ!)
「待ちなさい!」
糜貞は嬌声をあげて追いすがり、胸を張った。「逃がさないわよ! 行くなら私に謝罪してから行きなさい!」
「謝罪?」蘇然は頭をひねり、熟考するフリをした。「お嬢さん、私はあなたとお会いしたこともございませんのに、なぜ謝罪せねばならないのですか?」
「あなたねぇ!」糜貞は怒りを爆発させた。「半月前、あの店で私を侮辱したじゃない……!」
(侮辱って……ちょっとお仕置きしただけだろ!)
周囲の通行人たちが「何事だ?」とこちらに注目し始めたのを見て取った蘇然は、背中に汗をかきつつ、とっさに「退いて進む」裏技を思いついた。
「ああ……っ!」蘇然は大袈裟にハッと手を打った。
「思い出しか!? ならさっさと謝りなさい!」糜貞は少し機嫌を良くした。
「なるほど……」蘇然は感心したような声を上げた。「あなたが、うちの兄が言っていた『わがままでおてんばな娘さん』ですか!」
「だ、誰がおてんばよ……って、え? お兄さん!?」
糜貞は目を丸くして蘇然を見つめた。相手の驚いた表情に一切の嘘偽りがないように見えたため(蘇然の演技力が高すぎるのだ)、一瞬にして不安になった。(まさか……本当に別人なの? でも、世の中にこんなにそっくりな人間がいるの?)
「あの……」糜貞は狼狽しながら尋ねた。「あなた……お名前は?」
「私めは忠野多忍と申します。あの性根の曲がった兄の名は忠野林陣と申しまして……」
「忠野多忍……?」糜貞は呟いた。「悪党のお兄さんよりは、いくらかマシなお名前ね……」
改めて蘇然の全身を観察すると、いかにも育ちの良さそうな文官風の佇まいである。(……この人、すごく優しそうだし、本当に別人なのかしら? 私、人違いをして言いがかりをつけちゃった……?)
途端に申し訳なさで胸がいっぱいになった。いくらあの悪党の弟とはいえ、無関係の彼に八つ当たりするのは筋違いだ。
「……そ、そうなの。急用があるなら行きなさい。でも、もしあの悪党の兄に会ったら伝えてちょうだい! この本小姐は絶対にあの男を捕まえてやるんだからね!」
糜貞は蘇然を睨みつけ、強がりを言った。「あの男が徐州を逃げ出して一生隠れ住まない限り、謝罪の一言をもらうまでは絶対に許さないんだから!」
(わけが分からん! 俺が一体何をしたって言うんだ、指名手配までしやがって……)と蘇然は心の中で突っ込みつつ、
「はいはい、承知いたしました!」と一礼し、とっとと逃げ出した。
「ふん!」糜貞は口を尖らせた。悪党を捕まえたと思ったのに、弟だったなんて最悪だ。
(あっ! 大兄上に届ける兵糧の手配を忘れてたわ!)と自分のドジさに頭を軽く小突き、トボトボと帰路についた。(……忠野多忍……なんか引っかかるのよね……)
危機を脱した蘇然は、ようやく東門へ到着した。城壁の上にはすでに方悦と陳登が陣取っていた。
「先生!」
「蘇先生!」
「うむ。黄巾軍に動きはあるか?」
陳登は午前の挑発を思い出し、不快そうに吐き捨てた。「午後から本格的に攻め込むと言い残して引き揚げていきました」
「ふむ……」
蘇然は城外を見下ろしながら考えた。(もし自分が塹壕と碉堡を相手に攻める側だったら、どう崩すか?)
どれほど知恵を絞っても決め手が見つからず、敵将の出手を見るしかないと腹をくくった。
「そういえば、東門を攻めてきている賊将の名は分かったか?」
「はい!」陳登が答えた。「張燕、字は子安と名乗っておりました」
「張燕!?」
蘇然は驚愕して目を丸くした。黒山黄巾のカリスマ首領、あの張燕か! もう黄巾軍で一軍を率いているのか!?
史実の張燕は智勇兼備の傑物だ。昨夜の勝利は敵の油断につけ込んだ幸運に過ぎず、本気の張燕は一筋縄ではいかない。蘇然の心に強い警戒感が走った。
「敵が来ます! 黄巾軍の攻城です!」城兵が大声を張り上げた。
蘇然たちが城壁から身を乗り出すと、地平線の彼方から黒い蠢きが押し寄せてくるのが見えた。東門の徐州精鋭一千は壕溝に入り、弓弩を構えて迎撃態勢を整える。
だが、徐々に近づいてくる敵の陣形を見て、蘇然の目が怪訝そうに細められた。
「……あれは一体何だ?」
「糧車(兵糧を押す手押し車)……か?」
(……古人の知恵を舐めてはいけないな!)蘇然は心の中で唸った。
張燕はなんと、数十台の糧車の前線にぶ厚い木板を打ち付け、それらを麻縄で横一列に固く連結して「動く防波堤」を作り上げていたのだ! その後ろから兵士たちが押し、じわじわと徐州の壕溝へ迫ってくる。
これでは、水平に放つ弓や弩の矢はすべて木板に弾かれ、無効化されてしまう! 蘇然は深く眉をひそめた。
「先生、後ろにも車列が続いています!」陳登の指摘に視線をやると、後方にさらに重そうな車列が続いていた。
(……待てよ。まさか……)
蘇然の脳裏に最悪のシナリオが浮かんだ。彼らはあの大量の土砂や薪を詰めた車で、壕溝を埋め立てて「道」を作ろうとしているのだ!
城門へ至る一本道さえ埋めてしまえば、壕溝の防衛陣地は無力化される。
「方悦!」
「ハッ!」
「兵士たちに『曲射』を使わせろ!」
「こ、曲射……?」方悦は首をかしげた。「曲射とは何でございますか?」
(あ、そうか。この時代にはまだ『曲射』を系統立てた戦術用語として使っていないのか)
「あの手押し車の陰に隠れている敵に、弓矢を放っても木板に刺さるだけだろう? だから矢を空高く打ち上げ、放物線を描かせて頭上から雨のように降らせるのだ!」
「おお……! 天から矢を降らせるのですか! 子平、そのような射術は聞いたことがございません!」方悦は膝を打って感嘆した。
「よし、手ほどきしてやる。来い!」
蘇然が身振り手振りで教え始めると、方悦は「なるほど!」「素晴らしい!」と頷きまくった。蚊帳の外に置かれた陳登は羨ましさのあまり目を血走らせ、(私こそが先生の一番弟子なのに!)と地だんだを踏んだ。
「蘇先生の博学、恐れ入ります! すぐに準備させます!」方悦は感動に震えながら駆け下りていった。
陳登がすり寄ってきて、すまなそうに言った。「あの……先生……その『曲射』とやらは……」
「はは!」蘇然は弟子の嫉妬心を察して笑った。「まあ見ていなさい。すぐに分かるよ」
城外では、張燕が陣頭に立ち、氷のように冷たい眼差しで徐州東門を見つめていた。昨日の慢心は消え去り、あるのは「徐州を粉砕する」という凄絶な意志のみ。
「前進! 塹壕を埋め立てよ!」
張燕の指揮のもと、装甲手押し車がギシギシと音を立てて迫る。
「弓兵、構え! 槍兵、第一線へ!」
「オオーッ!!」
「大帥(張牛角)の命である! 徐州を落とした暁には、三日間の略奪を許す!!」
「オオオオーッ!!」
欲望に目を血走らせた黄巾兵たちの咆哮が地響きとなって城壁を揺らした。手恩賞に目がくらんだ彼らの士気は凄まじく、逆に徐州軍の兵士たちはその気迫に気圧されかけていた。
小細工なし、裏切りなし。
徐州東門はついに、正真正銘の「血と鉄の激突」を迎えることとなった!




