第三十二章 痛恨の痛罵と、甘い微睡み
張燕は二度にわたる敗北で、千人近い黄巾の兵士を失っていた。
下の兵卒たちは「大賢良師(張角)のお護りがある」と相変わらず信仰心を燃やしていたが、張燕は不機嫌そのものの険しい顔で怒りを滾らせていた。三千の兵に陣地の再構築を命じる一方、残る三千余りを率いて自ら徐州の東門へ陣を張り、凄まじい大声で城壁へ叫びかけた。
「陳元龍! 出てこいッ!」
城壁の上で身構えていた守備兵たちは顔を見合わせ、一人が躊躇しながら言った。「……陳先生をお呼びしてまいります」
その頃、陳登は自邸の布団の中で爆睡していた。しかし従者からの報告を聞かされ、驚いて飛び起きる。(あの賊将、一体何の用で私を呼ぶのだ?)
東門に万一のことがあっては大変だと慌てて服を羽織り、城門へ駆けつけた陳登の耳に、激しい怒声が飛び込んできた。
「卑怯者め! 出てきて顔を見せろ!」
(私を呼んでいたのか……)と、陳登は甘くも苦くもない何とも言えない表情を浮かべ、心の中で苦笑した。
「私が陳登だ! 名乗る資格のある者か、名を名乗れ!」
「俺は大将・張燕、字は子安だ! 卑怯な小僧め、城から出てきてこの俺と一騎打ちで勝負しろ!」
張燕は手綱を引き絞り、宝剣を城壁の上の陳登へ向けて突きつけた。
「…………」
陳登は自分のひょろひょろとした腕脚を見下ろし、相手の無茶苦茶な要求に呆れ果てると同時に、沸々と怒りが湧いてきた。自分は学問を修めた文官である。なぜ野蛮な武将と一騎打ちなどせねばならんのだ。
だが、陳登はさすが陳登であった。顔色一つ変えず、冷ややかに言い放った。
「私が修めるのは大義であり、兵法の道である。匹夫の勇など誇るつもりはない。命が惜しくば大人しく引き揚げるのだな、さもなくば大禍が降りかかるぞ!」
「屁理屈を!」張燕は吐き捨てた。「昼過ぎになれば、我が大軍で徐州を踏みつぶしてやる! その時が貴様の命日だ!」
陳登はプライドが高い男だ。自分より才能のある人物にしか礼を尽くさない性格ゆえ、張燕の態度に腹を立て、冷笑を浮かべた。
「待ちましょうぞ! ……しかし、なぜ『昼過ぎ』なのです? おや、分かりましたぞ! 昨夜は一晩中、ぐっすり眠れなかったからでございましょう!」
「口の減らない奴めッ!」
張燕にとって昨夜の失態は人生最大の恥辱であった。そこを容赦なく突かれ、激昂して宝剣を鞘に納めた。「貴様と不毛な口論などせん! 昼過ぎを待っていろ……フン!」
捨てゼリフを残し、張燕は馬を翻して引き揚げていった。兵を出しての一騎打ちに応じる気がないこと、そして城壁の保護がなければ黄巾軍の突撃を防げないことを察したからだ。
敵が去った後、陳登は猛烈な不快感に襲われた。
昨夜は蘇然の妙計を成功させるため一晩中緊張して起き起きており、今朝ようやく横になったばかりだったのだ。それを「挑発」などというくだらない理由で叩き起こされたのである!
親切に呼びに来てくれた兵士を恨めしそうに一睨みすると、陳登はイライラしながら引き揚げていった。
(昼過ぎに強攻だと? フン、先生の知恵を甘く見るなよ!)と、陳登は鼻で笑いながら歩み去った。
陣地に戻った張燕はイライラを募らせていた。そこへ側近が恐る恐る近寄ってきた。
「少帥……軍中の兵糧が底を突きかけております。張牛角の元へ糧食の補給を頼まれては……」
張燕は側近を猛然と睨みつけた。「兵糧は最初に平等に配分されたはずだ! 我が不覚で糧食を失ったのだから、自分で何とかするのが筋だろ! 大帥の元へ乞いにいけば、他の部隊の兄弟たちをどう思う!?」
一喝された側近は、身を縮めて数歩退いた。
だが、張燕の本心は言葉通りではなかった。彼は誇りが高く、義父である張牛角の威光に頼らず副将まで上り詰めた自負があった。昨日分かれたばかりで兵糧を乞うなど、プライドが許さなかったのだ。
「でしたら……」別の側近が提案した。「徐州の周りには民家がいくらでもございます……」
「滅多なことを言うな!」張燕は激しく首を振った。「無辜の民を害せば、あの愚かな帝と何が違うというのだ!」
頭を抱えて討議していたその時、伝令が飛び込んできた。
「大帥より、十日分の兵糧が差し入れられました!」
張燕の顔がカッと赤くなった。
実は張牛角は、義子である張燕が敗れたと聞いて溜息をつきつつも、密かに安堵していたのだ。高慢になりかけていたこの若者が一度敗北を知り、態勢を立て直すことは決して悪いことではない。この試練を乗り越えれば、張燕の将来は光り輝くものになる——。
そう考えた張牛角は、限られた自軍の兵糧を削り、十日分を張燕に届けさせたのだった。
昨日、東門と陽動の北門以外の二門でも激戦が繰り広げられていた。
西門を守る曹豹は噂通りの「出来損ない」で恐るるに足りなかったが、南門を守る糜家の当主はなかなかやり手で、味方の試探を軽々と防ぎ切っていた。
東門の陳家も侮れず、陳元龍の名声は伊達ではないと思い知らされていた。
張牛角は追加の兵を送ることも考えたが、見送った。(子安はプライドが高い。兵を送れば『お前を信じていない』と言っているようなものだ。意気消沈させては惜しい。糧食だけを送るのが、励ましであり叱咤にもなろう)
「くっくっく、これで良し!」張牛角は雑然とした髭を撫でながら豪快に笑った。
昼頃、布団の中でぐっすり眠っていた蘇然は、誰かに体を揺すられているのを感じた。
「眠い……突くなよ……」と手を横に振る。
秀は呆れつつも可笑しくてたまらなかった。寝る前には「戦事が心配だから昼になったら起こしてくれ」と言っていた癖に、いざとなればこの体たらくだ。
悪戯心が芽生えた秀は、蘇然の鼻を小指でちょんちょんと摘まんでみた。だがすぐに蘇然の手によって「パシッ」と軽く払いのけられてしまう。
口を尖らせ、もう一度悪戯しようとした瞬間、蘇然がゴロンと寝返りを打ち、秀と正面から向き合う形になった。
秀は蘇然の整った素顔を見つめ、伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
この人が自分の夫なのだ……。
昨日、城壁の上で自分の寒さを心から心配してくれた姿を思い出す。胸の奥から「幸福」という名の温かい感情が溢れ出し、心をいっぱいに満たしていった。
秀は愛おしそうに微笑むと、指先で蘇然の唇をそっと撫で、その自分の指先に優しく口づけ(Kiss)をした。
そして一人で照れくさそうにクスクスと笑い、蘇然のために温かいお湯を沸かそうと立ち上がろうとした時——ふと見ると、蘇然が目を丸くして自分をじっと見つめていた!
秀の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「ふ、夫君……なぜ……そんな目でお見つめになるのですか……?」
「お前、寒くないのか?」
蘇然は薄い肌着一枚の秀を見て、不思議そうに尋ねた。
「…………」
(ふぅ、良かった! 気づかれていなかった!)と秀は胸を撫で下ろした。「あ、今から夫君のためにお湯を沸かそうと……」
「もう少し休んでいなさい」
蘇然は起き上がると秀を布団の中へ押し戻し、服を着ながら言った。
「お湯は俺が沸かすよ。お前はもう少し寝てな。『睡眠不足は女性の天敵』って言うだろう?」
「……それは、どなたのお言葉でございますか?」秀は首をかしげた。
「あ……いや、ハハハ……」
(しまった、後世の現代語を口にしてしまった)と蘇然は気まずそうに笑って誤魔化した。
ベッドから下り、秀に布団をしっかり掛け直してやった蘇然は、表情をニヤリと崩した。
「ねえ秀、これからは指じゃなくて、直接俺にキスしてくれた方が手っ取り早いと思うんだけど?」
「〜〜〜ッ!?」
秀は恥ずかしさのあまり身の置き所を失った。(この意地悪な人は、最初から全部見ていたのだ!)
布団を頭まで引っかぶり、心臓をドクドクと激しく波打たせた。
「へへっ!」
蘇然は笑うと、布団の上から屈み込み、優しく耳元で囁いた。
「冗談はこれくらいにしておくよ。お湯を沸かしておいておくから、もう少し休んでいて。昨日の大損害で、黄巾軍は今日間違いなく報復に来るはずだ。俺は先に城門へ行くから、後からおいで」
「はい……」
布団の中で、秀は蘇然の言葉に込められた深い愛おしさを噛みしめていた。だが、この夫の「意地悪さ」を思い出し、少し怒ったフリをして無視してみせた。
すると蘇然はさらに一枚上手だった。
(ふん、無視する気だな?)
「静かになったかしら?」と秀が不思議に思った瞬間、ひんやりとした蘇然の冷たい手が布団の中に潜り込み、太ももの外側に触れた!
「きゃあっ!」と秀が悲鳴を上げる。
「ハハハハ!」
蘇然は大満足の笑い声を残して、部屋を飛び出していった。
「もう……本当に意地悪な人!」
秀は布団を降ろし、ぷんぷんと怒ってみせたが、天井を見上げるとその顔には愛おしい笑みが浮かんでいた。
(……お父様、秀にはこんなにも大切にしてくださる方ができました。そちらでお母様とお幸せに暮らしておられますか? どうか、秀の夫をお護りくださいませ……)
(……大婚の儀が無事に終わりましたら、夫君を伴ってお墓参りにまいりますね……)




