第三十一章 夜襲の狂騒と、黎明の破滅
夜が、深々と更けていく。
張燕は陣幕の中に座り、火鉢の火に当たりながら、かすかな明かりを頼りに一巻の書物を紐解いていた。
しばらくして立ち上がると、身体を大きく伸ばして陣幕の外へ出、遠く徐州城の方角を見やった。
外は刺すように寒く、また不気味なほど静まり返っていた。ただ時折、カラスの「ヤー、ヤー」という鳴き声だけが響き、耳障りに心を乱す。
黄巾軍の兵士たちの多くはすでに眠りについていた。夜間の見張り当番に当たっている者たちだけがかがり火の周りに集まり、身につけた薄い衣類を必死に引っ張って寒さにガタガタと震えている。
張燕は暗然として溜息をついた。黄巾軍の勢力は大きいとはいえ、蜂起が急であった上に、喰い詰めた民衆をそのまま抱え込んだ集団だ。武器すら満足に行き渡らない兵もいるのだから、防寒着など望むべくもない。
(徐州を奪わねば、この極寒の冬をどうして越し得ようか……)
(……蘇然? 一体どこから現れた男だ? 大賢良師ともあろうお方が、なぜそれほどまでにあの男を重んじるのだ?)
(だが大賢良師のお考えもあまりに突飛すぎる。一国の城とただ一人の人間、どちらが重いかなど火を見るより明らかだ。配下の将兵を生かすため、この徐州城は私・張子安が絶対に奪い取ってみせる! もしあの江哲という者が戦火の中で命を落とそうとも、その罪は私が一人で背負うまで!)
「少帥?」
篝火の傍にいた黄巾の兵士たちが張燕に気づき、慌てて立ち上がった。
張燕は微かに眉をひそめた。彼は他人から「少帥」と呼ばれるのを何より嫌っていた。己の戦功はすべて命を賭して掴み取った本物であり、義父である張牛角の七光りの下に隠れて生きるつもりなど毛頭なかったからだ。
張牛角は、大賢良師・張角が最も信頼する数少ない「戦える弟子」の一人である。
「楽にせよ」
張燕は兵士たちと共に腰を下ろし、穏やかに笑いかけた。
「明日の戦い、勝算はあるか?」
「もちろんでございます!」
夜間の私語や大声は「夜間の集団パニック」を引き起こす危険があるため高声は禁じられているが、兵士たちの低く漏らす言葉には強烈な自信が満ちていた。
そうとも、官軍の烏合の衆など我が精鋭の敵ではない。明日こそあの陳登めに見せつけてやるのだ、我が黄巾の凄まじい軍容を!
張燕が言葉を続けようとしたその時——
突然、陣外で凄まじい「ドーン!」という砲器の爆音が響き渡り、続いて天を突くような陣太鼓と勝ちどきの声が夜の静寂を切り裂いた!
張燕の顔色が劇的に変わった。飛び起きるように立ち上がり、腰の剣を抜き放って低く吼えた。
「夜襲だと!? 皆を起こせ、私に続いて敵を迎え撃て!」
張燕の統率力は決して低くなかった。わずか数十秒のうちに、黄巾兵たちは寝床から飛び出し、武器を手に整列を始めた。
張燕は一番乗りで陣外へ突進した。
だが……周りを見渡した彼の顔は固まった。外には人っ子一人、影すら見当たらなかったのだ。
「逃げ足だけは速い鼠どもめ!」
張燕は忌々しそうに吐き捨てて陣へ戻った。
「徐州の奴らは臆病者の集まりだな!」
敵が退散したと見て、黄巾兵たちは再び寝床へ戻っていった。張燕は篝火の傍に座り、手をかざして暖を取った。
手を擦り合わせ、ふっと息を吹きかけながら、隣の兵士に語りかけた。
「徐州を落とした暁には、お前たちに……」
言い終わらないうちに、再び陣外で「ドーン!」と砲器が鳴り響き、凄まじい叫び声が押し寄せてきた!
「鼠どもめ、調子に乗りおって!」
張燕は頭に血が上り、剣を引っさげて再び飛び出したが、やはり外には誰もいなかった。
「……愚か者めが!」
張燕はツバを吐き捨てて引き返した。だが陣地へ戻った瞬間、彼は愕然とした。一旦横になったはずの兵士たちが再び身を起こし、不安そうに身構えていたのだ。張燕の心臓がドクンと跳ね上がった。
(……まさか、奴らの狙いは……?)
三度目の爆音が聞こえた時、張燕は確信した。これは徐州軍の計略だ!
——「疲兵の計」!
四度目、五度目と爆音が続く中、張燕は警戒を怠らず、二千ほどの兵を起きて待機させ続けた。
しかし、それが十数回も繰り返されるに至り、張燕は溜息をついた。(……相手を買いかぶりすぎていたか。単なる嫌がらせだな)。彼は兵たちに命令を下した。
「全軍、構わず寝よ!」
外で再び爆音が響いたが、張燕は徐州城の方角を白眼で一睨みすると、篝火の中に柴をくべた。
果たして、外の叫び声もしばらくすると潮が引くように消え去った。
不安そうにしている周囲の兵士たちを見やりながら、張燕は空を見上げた。夜明けまでまだ二〜三時間はある。
張り詰めていた糸が切れ、張燕は外の騒音を完全に無視することにした。(……ふん、日の出とともに徐州を踏みつぶしてやる。どんな小細工もその時までだ)
強がりを言いつつも、張燕の胸の奥には不気味な予感が消えず、手は終始剣柄から離れなかった。やがて東の空がかすかに白み始めたのを見て、彼はようやく安堵の息を吐いた。
だが、その緊張が解けた瞬間、強烈な倦怠感と眠気が一気に襲いかかってきた。無理もない、一晩中神経をすり減らして警戒し続けていたのだ。
その時——外でまたしても砲声が上がった。
張燕が目を細め、「またあの手か」と鼻で笑おうとしたその瞬間、無数の黒い影が怒濤の勢いで陣地内に雪崩れ込んでくるのが見えた!
(……本当に夜襲に来ただと!?)
彼が跳ね起きようとした瞬間、激しい貧血で視界が真っ暗になった。体が大きくぐらつき、周囲の兵士に支えられてようやく立ち直る。
「私に構うな! 奴らを叩き起こせ! 敵を迎え撃つんだ!」
だが、時すでに遅し。
先頭を切って雪崩れ込んできたのは方悦であった。長槍を手にし、鋭い眼光を走らせながら、瞬く間に見張りの黄巾兵を数名突き倒した。その鮮やかな手際に、張燕は目を怒らせ、胸を血の涙で満たした。
張燕は刃を交えに飛び出したが、身のこなしが重く、腕が小刻みに震えて力が入らない。
方悦はその隙を見逃さず、凄まじい一槍を張燕の胸元へ繰り出した!
死を覚悟した張燕だったが、一人の近衛兵が咄嗟に身を投げ出し、肉壁となって槍を受け止めた。長槍が腹を貫通してもなお、その近衛兵は槍を死にもの狂いで掴み取り、血を吐きながら叫んだ。
「少帥……疾くお引きを!」
張燕はなおも前に出ようとしたが、大勢の近衛兵たちに無理やり後ろへ引きずられていった。方悦は深追いせず、一人で孤立するのを避けて別の場所へ切り込んでいった。
一千の徐州精鋭兵は、まるで羊の群れに躍り出た虎の如く暴れ回った。夢から引きずり降ろされた黄巾兵の多くは、状況を把握する暇すら与えられず、次々と刃の露と消えていった。
混乱の渦の中を薙ぎ払いながら進んでいた方悦は、ふとある場所を目にして顔をほころばせた。
「あの物体を燃やせ! これさえ焼けば、我らの任務は成就するぞ!」
(しまっ……!)
引きずられていく張燕がハッと気づいた時には、すでに遅かった。
ゴオッと爆発的な火柱が夜空を赤く染め上げた。黄巾軍の命綱である「兵糧」が、炎の海に包まれたのだ……。
張燕は近衛兵を振り払い、必死で兵を集めて火を消そう、敵を撃退しようと叫んだ。だが、陣幕から這い出してきた黄巾兵たちはパニックを起こして右往左往するばかりで、人群の狂騒にかき消され、張燕の叫びは届かなかった。
(……またしても陳元龍の仕業か!!)
張燕は兜を地面に叩きつけると、宝剣で己の掌を深く切り裂き、血の滲む拳を握りしめて天に誓った。
「陳元龍……! この仇、絶対に忘れん! 貴様の三族を皆殺しにしてくれるわ!!」
その頃、遥か徐州城の上で、陳登が唐突に「ハックション!」と大きなくしゃみをした。
陳登は気に留める風もなく、蘇然に向かって興奮気味に言った。
「先生の神機妙算、実に恐れ入ります! ……しかし、孫宣揚殿と家将たちには苦労をかけましたな」
「苦労だなんてとんでもない……」
温かい茶をすすりながらガタガタと震えていた孫茂が、苦笑いを浮かべた。「ただ……最初に爆竹を鳴らしに行った時は、生きた心地がしませんでしたよ」
「ははは、すぐに逃げ帰ってきたのでしょう?」陳登がからかった。
孫茂は顔を赤くし、負けじと言い返した。「私は武将でもなければ、守義のような知恵もないのだから当然でしょう! 昼間に見たあの黄巾軍の殺気は、本当に恐ろしかったのですから!」
「夫君……」
秀が蘇然に温かい手ぬぐいを手渡しながら、不思議そうに尋ねた。
「妾身にはひとつ解せないことがございます」
「ん? 何かな?」
「敵の陣をかき乱すだけなら、孫先生に何度か脅かさせれば十分だったはずです。なぜ空が白む直前の『黎明』まで待たれたのですか? もし黄巾軍が早起きしていたら、大ごとになったのでは?」
(朝の4〜5時なんて人間が一番深く眠っている時間だぞ。雷が落ちても起きやしない)と蘇然は心の中で思いつつ、優しく微笑んで語った。
「あの時間帯は人間が最も眠気に勝てない時間なのだ。それが一つ。もう一つは……一晩中警戒させられ続けた敵は、その時間になると全身が麻痺し、寒さと疲労でまともに武器すら握れなくなるからだよ」
「夜明け前が一番暗い」とは、まさにこのことである。
陳登がニヤリと笑って付け加えた。
「先生は最初からすべてお見通しだったのです。だからこそ、方悦率いる一千の兵に温かい飯を食わせ、陳家の中でじっと数時間も体力を温存させて待機させておいたのですよ」
「知恵を凝らした、実に鮮やかな勝利でございましたね……」秀は誇らしげに蘇然を見つめた。「ですが夫君、今後の戦いでも決して油断なさらないでくださいね」
「もちろんだよ」蘇然は頷き、ふと思いついたように言った。「秀、少し戻って体を休めようか?」
「……もう、夫君たら」
【戦果】
方悦率いる一千の兵、討ち取った敵数百、自軍の損害わずか数十。さらに敵の巨大兵糧庫を全焼させる大戦果を挙げた。
失意の張燕は陣を引き払い、徐州城から十里(約5km)後方へと逃げるように撤退していった!




