第三十章 強がりな敵将と、城壁の温もり
羞恥と激怒のあまり頭に血が上り、不顧身に東門へ突撃しようとした張燕だったが、そこへ一陣の冷たい城風が吹き抜けた。その冷気でハッと我に返り、冷や汗をかく。
「止まれッ!」
張燕が豪快に手を振ると、押し寄せていた黄巾軍の怒濤の突撃がピタリと止まった。
馬上で息を整えながら、張燕は東門の前に広がる奇妙な地形をじっと観察した。地面には無数の穴やくぼみが掘り掘りされ、入り組んだ網の目のように連なっている。そしてその塹壕の中には、およそ一千もの徐州の精鋭兵が身を潜め、弓や弩を構えて隙を窺っていた。
先ほどは軽視していた徐州軍だったが、五百の精鋭を一瞬で殲滅された教訓から、今の張燕は極めて慎重だった。馬を進めずにその場で考え込んだが、どうしてもあの「穴ぐら」の真の効能が理解できない。
確認のため、張燕は数回目の試みとして、数百の黄巾兵を偵察がてら突撃させてみた。
ところが、彼らが一番外側の壕溝に差し掛かった瞬間、穴底から一斉に兵士たちが立ち上がり、至近距離から弩矢を雨あられと浴びせかけたのだ!
黄巾軍の装備は死狂いの攻撃重視であり、防具は極めて乏しい。至近距離からの乱射を受け、瞬く間に数十人が即死し、数百人が深手を負って崩れ落ちた。
「引き引け!」
張燕は眉をひそめて突撃部隊を撤退させると、すぐさま五百の弓兵隊を前線へ呼び寄せた。
「放てぇッ!」
張燕の一声で、五百の矢が黒い雨となって徐州の陣地へ降り注いだ。普通の野戦であれば大混乱に陥る射撃だが、壕溝の中に身をかがめて頭を隠してしまえば、矢の大部分は空しく土を穿つだけだ。運悪く当たった数名もかすり傷程度で、致命傷には至らなかった。
その光景を見た張燕はハッと悟った。(なるほど……少々あいつらを打ち負かしすぎて舐めていたようだな)
しかし、その唇にはむしろ冷酷で凶暴な笑みが浮かんでいた。手応えのない相手よりも、これくらい骨のある相手の方が彼の中の狂気を刺激するからだ。
空を見上げれば、すでに陽は落ち、あたりは薄暗くなっていた。今夜は一度引くべきだと判断したものの、このまま手ぶらで退いては味方の士気に関わる。張燕は胸を張り、あたかも怒り狂っているかのように城壁に向かって咆哮した!
「陳登の老いぼれの倅め! この張子安、貴様の首を刎ねねば胸の口惜しさは晴れんぞ! 明日城を破った暁には、貴様を八つ裂きにしてくれるわ!!」
「オオーッ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
張燕の後ろに控える数千の黄巾兵たちが目を血走らせ、凄まじい地鳴りのような殺気を放った。その咆哮と気圧は城壁の上の徐州軍を怯ませるに十分であり、蘇然も唇を噛みしめた。あまりの力みに、その唇からはうっすらと血が滲み出ていた。
(……さすがは全盛期の黄巾軍、伊達ではないな)
「引くぞ! この徐州のネズミどもめ、あと一日の命を噛みしめて生きるがいい!」
張燕は最高にカッコよく馬の腹を蹴り、軍を翻して陣地へと引き揚げていった。
こうして、極めて奇妙な光景が繰り広げられることとなった。
五百の精鋭を失って損害を出したはずの黄巾軍が凄まじい士気で引き揚げ、逆に小戦に勝利して敵を撃退したはずの徐州軍の将兵たちが、顔色を失って慄いていたのだ。
中には、手に入れた黄巾兵の首級を気味悪そうに投げ捨ててしまう兵すらいた。
(惜しいな……)
蘇然は心の中で溜息をついた。どれほど優れた防衛陣地を築こうと、兵士の「心」が折れてしまっては烏合の衆と変わりない。
そう考えた瞬間、蘇然は突如として腹の底から大声で笑い出した。その豪快な笑い声は、城壁の上だけでなく、下の壕溝に潜む兵士たちの耳にまでハッキリと届いた。
陳登はわけが分からず、不思議そうに尋ねた。
「……先生、一体何をそれほどおかしそうにお笑いなのですか?」
蘇然はさも可笑しそうに肩を揺すった。
「いやなに、『退却するならさっさと引けばいいものを、わざわざ捨てゼリフを残してカッコつけて去っていくのが滑稽でな! 明日も徐州を落とせなかったら、奴は今度はどんな言い訳をして逃げ帰るつもりなんだろうな?」
陳登は呆気にとられたが、すぐにその意図を理解して口元を緩めた。
「世の者はメンツを重んじますが、あの賊将も例外ではないようですな! いやはや、明日の今頃、奴がどんな顔で『今日はちと腹の調子が悪くてな、命だけは助けてやる』などと言うのか、今から楽しみでございます!」
「ハハハハ!」
城壁の上の将校や兵士たちからドッと爆笑が巻き起こり、先ほどまでの重苦しい恐怖と緊張が一瞬で吹き飛んだ。
蘇然は心の中で「ナイスだ元龍!」と絶賛し、賞賛の視線を送ったが、陳登は何のことやら首をかしげるばかりだった。
「あの賊将の言いぐさ、実に胸糞が悪い!」
蘇然は“大激怒”したフリをして声を張り上げた。「今夜は奴をぐっすり眠らせてやるものか!」
「ほう?」陳登は目を輝かせ、前に進み出た。「先生、もしやまた恐ろしい妙計がおありで?」
蘇然は指をちょいちょいと動かし、陳登の耳元で何事かを囁いた。
陳登は聞くにつれて顔をほころばせ、「妙計! まさに恐るべき妙計でございます!」と連呼した。
「分かったなら疾く行け!」蘇然が目を怒らせると、陳登は急いで城壁を駆け下りようとした。そこへ、彼が手配していた陳家の家将が大きな箱を抱えて息を切らせて駆け登ってきた。
「先生、お待ちを」
陳登は家将から箱を受け取ると、中から見事な錦織の温かい防寒着を取り出した。そして秀をチラリと見やり、蘇然に向かって深々と頭を下げた。
「先生、このように冷え込む夜でございます。私ども男はともかく、奥様のお体に差し障っては大変でございますので……」
蘇然はハッと正気に戻り、慌てて秀の顔を覗き込んだ。秀の唇は寒さで紫色になり、顔色は青白くなっていたのだ。蘇然の胸が締め付けられるように痛み、奪うように衣服を受け取って秀の肩にかけてやろうとした。
「夫君!」
だが、秀は手でそれを静かに拒み、凛とした眼差しで蘇然を見つめた。
「夫君をはじめ、将兵の方々がこのように寒さに耐えて戦っておられるのです。妾身だけがこのような贅沢な暖かい服を着ることなどできましょうか? 夫君、それでは不公平でございます!」
「お前という奴は……!」
蘇然は生まれて初めて秀に対して本気で焦り、声を荒らげた。
「いいから黙って着るんだ! 俺の言うことが聞けないのか!」
秀は小さな口をキュッと結び、頑固なまでに蘇然を見つめ返した。
陳登は胸の中で苦笑しつつ、助け船を出した。
「奥様、どうかお聞きくだされ。先生は徐州東門の総指揮官として将兵と苦楽を共にする義務がございますが、奥様は別でございます……」
「そうだ!」蘇然は焦りのあまり、強引に衣服を秀の肩に羽織らせると、その耳元で低く囁いた。
「……これ以上聞き分けがないと、家に帰ってからどうお仕置きされるか分かっているんだろうな?」
「お仕置き」という言葉を聞いた瞬間、秀の頬が一瞬で真っ赤に染まった。恥ずかしさと怒りが入り混じった目で蘇然を睨みつけたが、これ以上逆らうこともできず、小さく口を尖らせて服のボタンを留めた。
ふと衣服の質感に気づいた秀は、首をかしげて陳登に尋ねた。
「陳先生……このお召し物は、ずいぶんと上質なようですが……?」
陳登は慌てて手を振った。「滅相もございません! 安物でございます! たったの……四百文(約400円)でございますよ!」
四百文!?
(おいおい、どんな大嘘だ! 嘘をつくにしてももう少し上手くつけないのか!)と、蘇然は呆れて白目をむいた。
「四百文……ですか?」秀は首をかしげ、「そのような破格で買えるはずがございません。このような貴重なものをいただくわけには……」
蘇然は陳登を睨みつけると、秀の小さく冷え切った手をしっかりと握りしめ、優しく宥めた。
「心配いらないよ。俺の給料から毎月差し引いてもらうから。……なあ元龍、本当は四貫(約4000文)くらいなんだろ?」
(本当は四十貫なんですが……)と陳登は心の中で泣きそうになりながら、引きつった笑顔で頷いた。「は、はい……先生のおっしゃる通りでございます……」
夫の温かい手、そして何より大勢の将兵たちの前で堂々と自分の手を握りしめてくれている蘇然の優しさに、秀の心は一瞬でけて解けてしまった。
「……夫君、手を離してくださいませ。皆が見ております……」秀は小さな声で恥ずかしそうに囁いた。
「服を着てくれるか?」蘇然はニヤニヤしながら秀をからかった。
「もう……意地悪な方!」秀は胸の内で愛おしさを噛みしめつつ、淑やかに頭を下げた。「夫君の仰せに従いますわ。ですが、その四貫はきちんとお返ししてくださいね……」
「もちろんだとも!」蘇然は深く頷きつつ、陳登へ「分かってるな?」という視線を送った。
(先生の給料を本当に引き落としたら、先生は陳家に居候する羽目になりますな……まったく、食えないお方だ)と、陳登は苦笑しながら頷いて見せた。
暖かい防寒着に包まれた秀の姿を見て、蘇然の胸から大きな重荷が下りた。彼は城外の闇を見つめ、静かに、しかし絶対の確信を込めて呟いた。
「見ているがいい。俺は必ず、あの黄巾軍を叩き潰して引き揚げさせてみせる」
「先生なら必ずや!」陳登をはじめ、周囲の者たちが感服の声を上げた。
「では学生はこれにて失礼し、先生の妙計を将兵に伝達してまいります」
「あ、そうだ!」蘇然は方悦の顔を思い出し、言った。「あの方悦という男、なかなかの将校だ。今夜の作戦は彼に任せるといい」
「ハッ!」
陳登が去った後、秀はそっと蘇然の隣に寄り添い、共に遠くの敵陣を見つめた。
「夫君……黄巾は、本当に退いてくれますでしょうか?」
「俺を信じられないかい?」蘇然は柔らかく微笑むと、秀の耳元でそっと囁いた。
「この黄巾軍を追い払ったら……秀、正式に祝言を挙げよう」
秀の頬がぽっと朱に染まり、小さな声で愛おしそうに答えた。
「はい……妾身、いつまでもお待ちしております……」




