第二十九章 智者は計を食わせ、張燕の失策を誘う
張燕の本来の配下は五千。そこへ張牛角がさらに二千の兵を増援として加えたため、東門が迎え撃つべき敵は実に七千に上っていた。これほどの軍勢が一門に押し寄せる光景は、まさに圧倒的な圧迫感であった。
しかも張燕は強気に過ぎ、徐州城からわずか五里(約2.5km)という目と鼻の先に堂々と陣を張り、竃を設けて食事の支度を始めさせたのである。
「あの賊将め、どこまで我らを甘く見るか!」
陳登は激怒し、瞳に炎をたぎらせて激しく悪態をついた。
だが、蘇然は心の中で密かに歓喜していた。
(敵が我が身を過信して侮ってくれるなら、これほど好都合なことはない!)
張燕は高傲であったが、決して愚かではなかった。むしろ非常に機敏であり、設営と調理の間も、徐州軍の突撃に備えて三千の黄巾軍を常時警戒にあたらせていた。だが、どれほど待っても東門には一切の動きがない。やがて無事に設営も食事も終わり、東門の静寂が続いているのを見ると、張燕は鼻で笑い、軽蔑の色を一層強めた。
「このような鼠輩(弱小な者ども)か! 私一人で十分に徐州を落とせる。何が三門同時攻撃だ、何が内応の乱だ、失笑ものだな!」
遠くの黄巾軍の陣地から炊煙が立ち上るのを見て、徐州軍の将兵たちは怒り狂った。将軍の方悦は何度も出撃を願め出たが、蘇然は頑として許可しなかった。
怪しむ将兵たちに対し、陳登が蘇然に代わって説き聞かせた。
「敵は遠道やってきて疲弊しているとはいえ、気勢は依然として高い。今、正面からぶつかるべきではない。皆も知っていよう、『一鼓作気、再にして衰え、三にして尽くす』という兵法をな!」
この説明を聞き、将兵たちの疑問は氷解した。
一方、東門が出てこないのを見た張燕は、誘い出しを試みた。警戒にあたらせていた三千の兵のうち二千を付近の森林へ遣わし、陣地補強のための木材伐採や石材収集にあたらせ、わずか一千の兵だけを残したのだ。
それでも東門は静まり返ったままである。張燕は眉をひそめると、半ば完成しかけた陣地にその残り一千の兵も作業へと回し、自身は鋭い視線で徐州城を睨み続けた。
「徐州の兵がこれほどまでに腑抜けとはな!」
張燕は哂った。空を見上げれば陽はすでに西に傾き、あと一時間もすれば夜が訪れる。
城壁の上で、将兵たちは苛立ちで顔を真っ赤にしていた。蘇然は心の中でため息をついた。(もしこれがゲームの世界なら、こんな屈辱に耐える必要はない。だが、これはゲームではない! 配下の兵士たちはリセットできるデータではなく、血の通った一人の人間なのだ……)
秀が差し出してくれた茶と干し肉を口にしながら、蘇然は城壁の上で何時間も立ち尽くし、ただひたすらに敵の隙を探し続けていた。あまりの集中に、秀の頬が寒さで真っ赤に凍えていることすら気づかないほどだった。
やがて、ため息を漏らす蘇然の目の前で、黄巾軍の陣地が完成した。
張燕は馬を前に進め、大声を張り上げた。
「徐州の鼠どもよ! 兵数が少ないからといってイジメはせん。互いに五百の兵を出し合い、一戦交えようではないか! 応じる勇気はあるか!?」
そう叫ぶと手を振り、五百の黄巾兵を前進させた。
蘇然はその五百人を注意深く観察した。彼らの多くは、先ほどまで数時間にわたり陣地の設営や木材の運搬に従事していた労働兵たちだ。ほんのひととき休息をとっただけで、ろくに食事も摂っていないように見える。
その瞬間、蘇然の脳裏に電光石火の如く「ひらめき」が走った!
彼はすぐさま陳登を呼び寄せ、その耳元で低く囁いた。
陳登は聞き終わると呆然とし、信じられないという目で蘇然を見つめた。
「……先生、正気でございますか?」
「疾く行け!」蘇然が低く一喝した。
先生への絶対的な信頼が疑念を上回り、陳登は城壁を駆け下りて方悦に手短に指示を伝えると、黄巾軍に向かって大声で叫び返した。
「断る理由などない! だが我が徐州は大国の大都市、武具は強固、兵士は勇敢だ。お前たちが負けて無様な姿を晒すのが哀れでな! よく見ればその五百人、まだメシも食っておらんではないか! それでは力が出まい。先に腹ごしらえをしてから来い! 半炷香(約15分)の猶予を猶予してやる!」
この言葉が出た瞬間、徐州軍の将兵どころか、敵将の張燕までもがポカンと口を開けて固まってしまった。
(……何だそれは? 徐州の連中はそこまで迂闊で腐りきった儒者なのか? それとも何か良からぬ企み(詭計)があるのか?)
張燕はしばらく考え込んだが、どうしても意図が掴めない。「飯を食わねば力が出ない」というのは紛れもない事実だ。まさか本当に敵の参謀が無能なだけなのか?
「おい! 名を名乗れ!」張燕が叫んだ。
「私か……?」陳登は言葉を詰まらせ、城壁の上の蘇然を仰ぎ見ると、意を決して叫び返した。
「我が名は徐州の陳登、字は元龍! 貴様ら、戦う度量はあるか!?」
「フン!」張燕は冷笑した。「望むところだ!」
直ちに兵に銘じて糧食を持ってこさせ、その五百人に与えて食わせた。(ふん、自ら敵に塩を送るとは愚かな奴め。食い終わった後、どんな顔で全滅する我が兵を見届けるか見ものだな!)
城外では、方悦が首をかしげながらも選りすぐりの徐州精鋭五百人を連れて壕溝から出た。振り返ると、城壁の上にあの青い羽織を纏った影が毅然と立っているのが見えた。その姿を見て、方悦の不安は少し和らいだ。(……何か特別な深いお考えがあるに違いない)
一方、城壁の上では蘇然に対し、将兵たちから不解と疑念の視線が集中していた。蘇然は苦笑いを浮かべた。(……どう説明しろというのだ? まあ見ていればすぐに分かることだ)
ふと隣を見ると、秀がいつものように穏やかな笑みを浮かべ、信頼と深い愛に満ちた瞳で自分を見つめていた。その顔がすっかり冷え切っていることにようやく気づいた蘇然は、優しく語りかけた。
「……秀、寒かろう。城楼の中へ入って休みなさい」
秀は蘇然の手を小さく握り返し、唇を微かに動かして囁いた。
「夫君……夫君が黄巾を退ける歴史的な瞬間を、妾身が傍で見届けられないとしたら、それほど惜しいことがございましょうか?」
蘇然は頷き、秀の手を優しく叩いた。城壁に登ってきた陳登がその光景を目にし、察して配下の家将に耳打ちした。家将は頷き、城楼へ走っていった。
選ばれた五百の徐州兵たちは、向かい側で温かいメシをガツガツと平らげている黄巾兵たちを複雑な目で見つめていた。自分たちも朝から水一口すら飲んでいない。羨ましさと憎悪が混ざり合い、槍を握る手に自然と力が入る。
やがて半炷香(15分)が経過した。両軍の五百人がそれぞれ前進し、百メートルほどの距離で対峙する。
満腹になり、威勢を吹き返した五百の黄巾兵たちは、目をギラギラと輝かせて殺気を放っていた。陳登は胃が痛む思いで自責した。(……もしや先生は本当に合戦の機微をご存じないのではあるまいか? 私としたことが……)
「ウオーッ!!」
五百の黄巾兵は狼の群れの如く雄叫びを上げ、方悦率いる徐州軍へ向かって猛然と襲いかかってきた!
方悦は陳登の言いつけを守り、「動くな! 敵を引きつけろ!」と命じたが、迫り来る敵の激しい気勢に(……ダメだ、今日はここで死ぬことになる)と覚悟を決めた。
ところが——天意とは実に奇妙なものである。
直前まで破竹の勢いで突撃してきた五百の黄巾兵が、徐州軍の目前数十メートルの地点に差し掛かった瞬間、突如として突撃の勢いが衰え、速度が急速に落ち始めたのだ!
城壁の上からその変化を鋭く見抜いた蘇然は、右手を豪快に振り下ろした。
「太鼓を叩けーーッ!!」
「ドンドン! ドンドン!」
あまりの変貌に首をかしげていた方悦だったが、陣太鼓の音を聞くや否や大声を張り上げた。
「野郎ども、突撃ぃッ! 我が徐州の刃の切れ味を思い知らせてやれ!」
方悦は数歩で一番乗りの黄巾兵に肉薄し、長槍を力任せに突き繰り出した。目の前の黄巾兵は苦悶の表情を浮かべ、身体が重そうに追いつかず、あっけなく槍に貫かれた。
(……え? これが全勝を誇る黄巾軍なのか……?)
驚く暇もなく槍を引き抜き、次の敵へ突いた。二匹目、三匹目……全く同じだった。方悦が周囲を見渡すと、徐州の兵士たちも驚くほど英勇に敵を薙ぎ倒していた。まるで自分たちが「無敵の軍隊」になったかのような錯覚覚えるほどだ。
結果は一方的であった。
満腹だったはずの五百の黄巾兵は、わずか数分のうちに徐州軍によって影も形もなく殲滅された。対する徐州軍の被害は、わずか二十余名。
城壁の上にいた者たちは全員、開いた口が塞がらない様子で固まっていた。太鼓を叩いていた二人の兵士すら手を止め、呆然と下を見下ろしている。
蘇然が睨みつけると、二人は慌てて顔を赤くし、再び激しく太鼓を叩き始めた。
「夫君……」秀が蘇然の袖を軽く引っ張り、「あの方々をご覧くださいな」と微笑んだ。
見れば、陳登をはじめとする参謀や将校たちが、信じられないものを見たという目で目を丸くし、口ぐぐっと開けたまま城壁から身を乗り出していた。
「コホン!」
蘇然がわざとらしく咳払いをし、秀の鼻先を指でちょんと突いた。
一方、味方の精鋭五百人がまるで野菜でも切られるかのようにあっけなく全滅させられたのを見た張燕は、己の目が信じられなかった。次の瞬間、胸の中に猛烈な怒りと「嵌められた」という悟りが爆発した!
「陳元龍めぇッ! よくも私を謀ったな!!」
張燕は怒りのあまり馬鞭を折り捨て、腰の剣を抜き放つと、自ら馬を駆って戦場へと突進した。後ろの黄巾の大軍が一斉に地鳴りを立てて押し寄せる!
(……頼むから俺のせいにしないでくれ……)陳登は心の中で理不尽さに涙目になりつつも、(……待てよ? 先生は一体どのような不吉な呪術をお使いになられたのだ? なぜ敵兵は突如として力を失った!? 愚かだったのは私だ、先生の智謀は天をも穿つ!)と、蘇然を見る目がもはや崇拝の領域に達していた。
下の戦場では、方悦が急いで味方の遺体を回収していたが、押し寄せる黄巾の大群を見て冷や汗をかいた。
「ヤバい、退け退けーっ!」
五百の徐州兵は戦友の遺体を抱え、急いで城外の塹壕へと逃げ込んだ。ちゃっかり討ち取った黄巾兵の首級を腰にぶら下げ、手柄にするのも忘れない。
「矢を構えよ! 警戒せよ!」
城壁の上で蘇然が凄まじい声で一喝すると、幾百もの弓弩が一斉に押し寄せる黄巾軍へと向けられた。




