第二十八章 押し寄せる黄巾と、若き名将・張燕
これぞまさに、噂に聞く「黄巾軍」——三国志の歴史において最も凄まじい狂信と戦意を誇った軍隊の姿であった。遠く離れた城壁の上からでも、蘇然はその肌を刺すような重苦しい殺気を感じ取っていた。
中国史に名を残した数ある強軍——張角の黄巾軍、曹操の虎豹騎、劉備の白毦兵、公孫瓚の白馬義従、高順の陥陣営、董卓の飛熊軍、あるいは鞠義の先登死士や曹豹の丹陽兵など——それらの中でも、全盛期における「軍勢の規模と殺気」において黄巾の右に出るものはいない。
もちろん、ここで言う黄巾軍とは、後代の諸侯割拠期に成り果てた喰い詰め者や山賊の集団ではない。全盛期の黄巾が連戦連勝を誇った最大の理由は、彼らが抱く「絶対的な信仰」にあった。「大賢良師」張角のもと、戦乱も苛政もない平和な理想郷を築くため、彼らは死すら厭わず狂信的に突き進んだのだ。
だが、あれほど天下を揺るがした黄巾軍が、なぜ張角の死後一気に衰退したのか?
原因もまた、その「信仰」にあった。
「自分たちは神に守られている、勝てる!」と信じ込んでいる間は無敵の強さを発揮するが、一度その信仰が揺らぎ「自分たちは勝てない」と悟った瞬間、脆くも崩れ去る。いかに戦意が高かろうと、武器・防具の質、訓練の度合いにおいて、彼らはつい数日前まで農具を握っていた民衆に過ぎず、正規軍には及ばないからだ。
されど、戦において最も恐ろしいのは「死を恐れぬ死兵の覚悟」である。装備や戦術はその後の問題に過ぎない。
そして今、目の前に迫る黄巾の狂気と殺気を前に、徐州の精鋭兵たち——とりわけ城外の 塹壕に潜む一千の兵士たちは、極度の緊張に体を強張らせていた。槍や弓弩を握る手は冷たく固まり、思い通りに動かない。
決意を固めることと、人体が恐怖に対して見せる生理現象は別物なのだ。それは城壁の上に立つ蘇然とて同じであり、彼は石垣を死にもの狂いで握りしめたまま、微動だにできずにいた。
秀はその姿を痛々しそうに見つめ、一歩踏み出しかけたが、ぐっと唇を噛んで思い留まり、再び一歩下がった。だが、その瞳だけは切なく蘇然の背中を追い続けていた。
(……この後、奴らはどう出る? 数里下がって陣を張るか、それとも勢いに任せて一気に突撃してくるか?)
蘇然は心の中で自問自答したが、確たる予測は立てられなかった。
しかし、どれほど心の中で焦りと緊張が渦巻いていようと、蘇然の顔には一切の感情が浮かんでいなかった。冷徹なまでに無表情を保ち、眼光ひとつ動かさない。
その佇まいは、周囲で生唾を飲み込んでいる者たちの目には「泰然自若とした大将の風格」と映っていた。
陳登もまたその一人だった。動揺を隠せない己を恥じ入るように蘇然をチラリと見やり、先生が気づいていない様子に胸を撫でおろすと同時に、深甚なる敬意を抱いていた。
ただ一人、秀だけは、蘇然の指先が寒さと緊張で青白く強張り、青筋が浮き出ているのを見て、胸を締め付けられるような痛みを覚えていた。
一方、遠道はるばる押し寄せてきた黄巾軍の陣営——。
今回の軍を率いる将軍は張牛角。張角と同族であり弟子でもある男だが、武事を好み呪術の類を嫌ったため、太平道の道術は受けていない。
その配下には四人の猛将が控えていた。張燕、于毒、穆固、厳平。いずれも百戦錬磨の兵たちであり、先に張角に従って決起した際には、張牛角とこの四将がわずか一万の兵で三万の官軍を打ち破り、三千余りを斬首して潰走させた実績を持っていた。
この四人の中で、張牛角が最も目をかけているのが義理の息子でもある張燕だった。単に身内だからという理由ではない。張燕は勇猛なだけでなく知略にも長けた、真の「将の器」を持っていたからだ。
張燕、字は子安。他の三将のように猪突猛進するだけの武者とは異なり、初陣から頭角を現し、かつて官軍三千を誘い出して奸計で全滅させた過去を持つ。張牛角の信頼は絶大であった。
「ぬう……子安よ、あれを見てみよ」張牛角が馬を止め、前方を指さした。
「ハッ、渠帥!」
力強い声とともに、蘇然と同じくらいの年齢の若者が馬を寄せた。太い眉に大きな瞳、その全身から溢れ出るような気風を纏っている。
「あれは何だ?」張牛角は徐州東門の前に広がる見たこともない工事(塹壕や拒馬の陣地)を指さした。
「……わかりかねます」張燕はしばらくじっと観察していたが、最後は首を振った。
「徐州も相応の準備をしておったようだな」張牛角の言葉には、感心とも嘲笑ともつかぬ独特の響きがあった。
張燕は薄笑いを浮かべ、馬鞭を揚げて吐き捨てた。
「無駄な悪あがきを……死期が迫っていることすら悟れぬ愚か者どもめ」
張牛角は苦笑して首を振った。この義子はあらゆる面で優秀だが、あまりに殺気が強く、配下に一切の捕虜を出さないのが玉にキズであった。
「子安よ」張牛角は静かに語りかけた。「我らの今回の目的は、何も徐州を完膚なきまでに破滅させることでは……」
「渠帥のお言葉は理解しております!」張燕は眉をひそめ、憤々と言った。「ですが私には納得いきませぬ! 大賢良師がなぜあのような指示を……」
「口を慎め!」張牛角は眉を吊り上げて低く一喝した。そして不満げな張燕の顔を見ると、柔和な笑みを戻して続けた。
「我らは大賢良師から賜った命を果たせばよいのだ。……まあ、この徐州城も手ぶらで素通りするわけにはいかぬからな! 例の規律通り、一般の民には一切手を出すな」
「名家・豪族は……皆殺しにする、ですね」
張燕が即座に言葉を継いだ。その瞳には、特権階級への深い憎悪の火が燃えていた。
張牛角はしばらく張燕を見つめ、心の中でそっと溜息をついたが、表面上は穏やかに言った。
「子安、油断するなよ。東門のあの構え、一見奇妙だが何らかの兵法にかなっておる。敵を軽んじるな」
張燕は東門を見やった。城壁の上には大勢の兵影が見え、下の謎の設備の中にも時折人影が閃いている。
(伏兵のつもりか? 戯れ言を)
張燕は失笑し、言い放った。
「私ひとりの手勢で、あの東門を落としてみせます!」
張牛角は何か言おうとしたが、張燕の強い眼差しを前にして静かに頷いた。
「よかろう。……于毒は西門を攻めよ。穆固は南門、厳平は北門だ。三門は牽制の陽動にとどめよ。ワシは本陣にて指揮を執る!」
「渠帥!」于毒が馬を前に進め、恭しく問うた。「なぜ全軍で一気に攻め立てないのです?」
「焦るな」張牛角は悠々と笑った。「それでは我が黄巾力士の威名を示せまい? まずは徐州の鼻を明かしてやり、士気が挫けたところを一気に叩き潰して城を奪うのだ!」
「渠帥のお考えはごもっともですが……」厳平が少し躊躇いがちに言った。「近隣の官軍が救援に駆けつけた場合、少々厄介ではございませんか?」
「何が厄介なものか!」張燕が目を怒らせ、吐き捨てた。「我らがここまで来る途上、どれほど官軍を打ち破ってきたと思っている? あのような烏合の衆、貴公らは恐れるというのか!」
その一言に、他の三将の顔色が怒りで潰れた。張牛角はマズいと思い、慌てて声を張り上げた。
「子安! 無駄口を叩いておらんで疾く部隊を整えよ! 一炷香の後に発進する! 単独で一門を攻めるのだ、決して油断するなよ!」
「渠帥、ご安心を! では参ります!」張燕は馬鞭をひと振りし、後陣へと駆け去っていった。
「渠帥……」穆固が前に出た。「少帥(張燕)はあまりに高傲に過ぎます。これでは……」
「ふう……」張牛角は深く溜息をついた。「あやつが将たる才能を持っているのは確かだが、殺気が強すぎ、プライドが高すぎる。一度手痛い挫折を味わうのも薬かもしれぬ。……だが徐州を見るに、陶謙や陳珪といった老いぼれ以外に恐れるに足りる者はおらん。ただ……」
そこまで言うと、張牛角は申し訳なさそうに言った。
「諸君、若造が生意気を言ったが、どうか気に病まないでくれ。ワシから代わりに詫びを入れさせておく」
「渠帥、滅相もございません!」三将は拳を抱えて礼を返し、言った。「では我ら三人は西・南・北の三門へ向かいます。ご命令があればいつでもお送りください」
「かたじけない、兄弟たちよ」張牛角は深く一礼して三将を見送った。




