第二十七章 士気高揚と、黄巾の大軍
三日目の早朝、蘇然が起きたばかりのところへ、陳登が慌ただしく駆け込んできた。部屋に入るなり秀に挨拶する間もなく、蘇然の手を引いて外へと引っ張っていった。
「急にどうしたんだ!」蘇然は腕を引かれながら眉をひそめた。
「黄……黄巾軍が到達いたしました!」
陳登の顔には明らかな動揺が浮かんでいた。後世の歴史で語られるような、談笑しながら敵を退けるといった老練な佇まいは、まだ今の彼にはない。
「何を焦っている!」
実は蘇然自身の心臓も激しく高鳴っていたが、その表情は自分でも信じられないほど意外なほど平静だった。だがだからこそ、彼は陳登を諭すことができた。
「自分を見ろ! そんな動揺した顔を城守の将兵に見せたら、士気に関わると思わないのか?」
陳登はハッと息を呑み、深く息を吐き出すと挙手して礼をとった。
「先生のおっしゃる通りでございます。学生が取り乱しました。どうかご容赦を」
秀が差し出した羽織に袖を通しながら、蘇然は淡々と尋ねた。
「その黄巾軍は、すでに徐州城の目と鼻の先にいるのか?」
「いえ、そこまでは……」陳登は秀に向かって軽く頭を下げて不礼を詫び、秀も静かに礼を返した。
「我が家の放った物見によれば、黄巾軍はここから二十里(約10km)ほどの地点に到達したとのこと。人数は極めて膨大ですが、妙なことに急いで徐州城へ押し寄せる様子がなく、あの足取りでは到達まであと約1時間はかかるかと」
「あまりに遅すぎるな……」蘇然は思案に暮れた。
「事に反常あれば必ず妖あり(異常な動きには必ず裏がある)でございますね!」陳登が即座に言った。
蘇然は頷いた。昨日から城内に入れた避難民の中に、やはり黄巾のスパイが紛れ込んでいるに違いない。実に厄介なことになった。
「ああ、そうだ!」陳登は何かを思い出したように尋ねた。
「先生、本日の巡回用の合い言葉をお教えください」
「ふむ、上の問い掛けか……」蘇然は指先で額を軽く叩きながら熟考した。
「『冬の田んぼに麦を植える』……だ」
「……は?」
「で、下の答えは『怪しいかな』だ!」
「……」陳登は口ぐぐぐっと開けたまま呆然とした。「冬の田んぼに麦を植える……怪しいかな?」
「ははは!」蘇然は思わず吹き出した。現代のことわざ・なぞなぞ遊びをそのまま合い言葉に転用したのだ。黄巾軍の連中に分かるはずがない。
「なるほど、妙案でございます……」陳登は何度か口の中で呟き、ようやくその意図を理解した。楽しそうに笑う蘇然を見つめながら、(敵軍が目と鼻の先に迫っているというのに、笑って談笑する余裕があるとは……さすがは先生だ)と心の中で感服した。陳登は首を振ると、将兵に本日の合い言葉を伝達すべく小走りで去っていった。
よし! それでは伝説の黄巾軍とやらを拝みに行こうか!
蘇然は深く息を吸い込み、一歩踏み出したが、背後に気配を感じて振り向いた。
「妾身も参ります」
後ろに立っていた秀が微笑んでいた。「言いましたでしょう? 夫君が行く場所なら、どこへでもお供いたしますと」
「……」蘇然は口を開かけたが、秀を留まらせるべきか逡巡した。しかし、彼女の強い眼差しを見て、静かに言った。
「……外は冷える。一着羽織っていきなさい」
「はい……」
黄巾賊の接近を知り、陳登は将兵を集めて最後の激励を行っていた。だが、黄巾軍の凄まじい戦力と官軍の相次ぐ敗北の噂を聞いていた兵士たちの顔には、重い陰りが差していた。
方悦は己の無力さに苛立ち、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいの目を蘇然に向けた。
陳登は眉をひそめ、蘇然の耳元で囁いた。
「先生、兵らの士気が著しく低下しております。これでは壊滅も……」
城門の上に立った蘇然は、見下ろす将兵たちを見つめ、低く重い声を張り上げた。
「……お前たち、ここを見ろ!」
下の将兵たちは何事かと首をかしげ、やがて蘇然が指さしているのが徐州城そのものだと気づいた。何を言い出すのかと困惑の表情を浮かべる。
「ここは徐州城だ!」
「俺たちの親、妻、子供たちが暮らしている徐州城だ!」
「黄巾軍は恐ろしい!」
その言葉に陳登は肝を冷やした。(この土壇場で何をおっしゃるのだ!?)だが制止することもできず、焦りばかりが募る。
「死ぬことも、確かに恐ろしい!」
「だが! 死ぬこと以上に恐ろしいことがある!」
「考えてもみろ! 城が破られたその日、俺たちの愛する妻や幼子、年老いた親が黄巾賊の刃の前に晒されるのだ! それがどんな光景か、想像してみろ!」
下にいた兵士たちの息が途端に荒くなった。徐州の精鋭兵の多くは地元・徐州の出身だ。両親や妻子がこの街で暮らしている。もし城が落ちればどうなるか……その残酷な光景が脳裏をよぎる。
「何が最も恐ろしいことか分かるか!?」蘇然は大声で叫んだ。
「それは、自分たちの愛する妻や子、敬う両親が目の前で殺されていくのを、ただ指をくわえて見ていることだ! これ以上の恐怖がこの世にあるか!!」
兵士たちの顔が一瞬で真っ赤に染まり、その瞳に生血を求めるような凄絶な光が宿り始めた。
「黄巾軍は確かに恐ろしい。官軍すら敵わず、退却に退却を重ねるほどにな……」
蘇然はそこまでを淡々と語ったが、次の瞬間、声を極限まで張り上げた。
「だが! 俺たちには後退する場所などどこにもない! 俺たちが徐州を守る最後の砦(防壁)なのだから!!」
陳登は胸を撫でおろし、目を輝かせた。(自分はまだ修行が足りぬな……)下を見やれば、兵士たちの士気は限界突破し、殺気が凄まじい渦を巻いている。蘇然への崇拝の念が瀑布のように湧き上がった。
「覚えておけ!」蘇然は城壁の石を強く叩き、叫んだ。
「徐州城を、大切な家族を守るために最も重要なのは、この冷たい城壁ではない! 俺たち自身だ!」
「城壁が倒れれば、俺たちが壁となればいい! 俺たちこそが勝利の鍵なのだ!」
「家に残してきた妻子を思え! 彼らは……俺たちと共に戦っているんだ!」
蘇然の最後の叫びが響き渡ると、兵士たちの血の気が一気に爆発した。陳登はその絶妙なタイミングを見逃さず、拳を突き上げて叫んだ。
「我が血肉をもって、徐州を守り抜かん!」
「我が血肉をもって、徐州を守り抜かん!」
「我が血肉をもって、徐州を守り抜かん!」
「我が血肉をもって、徐州を守り抜かん!」
方悦は呆然として下の兵士たちを見つめ、それから蘇然を仰ぎ見た。なぜあの陳家の若旦那が彼を「先生」と仰ぐのか、ようやく理解できた。わずか数言で兵らの士気をここまで跳ね上げさせたのだ。徐州出身ではない自分でさえ、血が沸き立つのを感じていた。
蘇然が手を挙げると、下の地鳴りのような歓声がピタリと止んだ。蘇然は重々しい声で語りかけた。
「戦争で人が死なないことなどない。……それはお前かもしれないし、あいつかもしれない。あるいは、俺かもしれない……」
秀の顔色がサッと変わり、小さな手がかすかに震えた。
「だが!」蘇然の叫びが頂点に達する。
「この存亡の秋に、俺たちの命と引き換えに妻子や親の命が買えるなら! 徐州城の何万という民の命が救えるなら! 将兵たちよ、この命、賭ける価値があると思わないか!!」
「価値あり!!」
「価値あり!!」
「価値あり!!」
蘇然は深く安堵の息を吐き、陳登に視線を送った。
合図を察した陳登がすぐさま数歩前へ出た。
「戦死した勇士の遺族は、我が陳家が死ぬまで養うことを誓う! 将兵らよ、戦う勇気はあるか!?」
「応!!」
「応!!」
「応!!」
蘇然は豪快に手を振り下ろし、一喝した。
「ならば全軍警戒! 神々は我らと共にあり、徐州の民は我らと共にあり、愛する家族は我らと共にあり……そしてこの俺も、お前たちと共にいる!」
「オオーッ!!」
地鳴りのような雄叫びと共に、一千の徐州精鋭兵が城外の塹壕へと姿を消した。残る一千の精鋭兵と一千の陳家私兵が城壁の上に配置につく。初日のこの一戦は徐州の命運を分けるため、蘇然は手持ちの全戦力を投入したのだ。
「属下も参ります! 大人、どうかご無事で!」
方悦も城壁を駆け下り、城外の壕溝へと入っていった。
避難民を全員収容した後、頑丈な東門が固く閉ざされた。
そして——件の黄巾軍が、ようやく遅れて姿を現した。まるで戦いに来たのではなく、行楽の遠足にでも来たかのような悠然とした足取りで。
地平線を埋め尽くす黒山のような大軍。どこまでも広がる敵の群れを目にし、蘇然は城壁の石を死にもの狂いで握りしめた。その指先は、青白く強張っていた……。




